当事者意識の欠落
自分のnoteを見返して、この人他者にはもちろん自分の人生に対してもめちゃくちゃ他人事でいるじゃん…とげんなりした。
人の話なんてなにも聞いちゃいない。
聞いてるけど聞いてない。
どうなってもいいかなというか、どうにかなるだろうみたいな楽観視が脳内に蔓延している。
客観視ともまた違う。
客観的っていうのは、ある視点にとらわれずに物事を見つめられることである。
私のこれは、何の視点にもとらわれないが、何も見つめていない。ただ虚空を見ている。刹那の楽しさしか追っていない。
人間は等しく生きて死んでいくし宇宙もいずれは滅びるのだから、私ひとりには何の責任もないじゃないか!ワハハ!と思ってる。
これってほんと良くないな、とも。
せめて自分一人の人生の責任ぐらいは取れるようにならないと。一生懸命であるひとに憧れてはいるものの、違う世界のなにかだと感じている。これ書いてたらどんどん直したくなってきちゃった。
もしかすると人生って、この楽観との闘いを一生やるやつかもしれない。
でもやっぱり、本当は全部全部どうでも良いって思ってるんじゃない?
と聞いてくる自分もいる。そう言われてみると、きっとそうだ。それも正しい。
‘本当’ってなんだろう?‘本当の、本物の気持ち’?いろんな気持ちがごちゃごちゃ混ざり合っていることこそ‘本当’に近いような、そうでないような。
直したい、全部どうでもいい、このまま生きていていいの?どうせいつか死ぬのに、楽しいことだけしていたい、かっこよく生きたい、そう簡単にいくわけない、ずっと寝たい、たくさん働いてお金を得たい、不労所得で暮らしたい、社会が良くなってほしい、社会とかどうでも良い、など。
全部心のうちにあるものだから本物も何もない。
大抵はこの感情群の中から、自分が楽な方に流れるようにして生きているのだと思う。ごくまれに頑張ったりしながら。
常に選択をし続けながら、私は私を作りながら、私として生きている。いつかは止まる呼吸を今、繰り返している。今、心臓が動いている。今、今、今。なんだかよくわからなくなってきたので一旦終わろう。
次回「結局、命って何?」お楽しみに!(無い回)
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