下心アレルギー
下心を含む言葉を私に向けるな!と発狂した。
私が言葉を受け取った瞬間は優しさだと思ったんだからそれでいいだろうよ、と自分に思う。けれど耳触りの良いことばかり言ってくる人間の言葉を、その人のふるまいなどから下心由来であると判断し、幻滅する。そんなものはいらないと跳ね除ける。真意はどうあれ得体の知れない何かを求められていると感じてしまうのが息苦しい。
全ての言葉たち、なるべく本心であれ。そう願いながら、誰かに気に入られたいとか嫌われたくないとか波風立てたくないとか、どうしても感情が言葉になる時に曲がってしまう。
この記事だってそうで、気持ちをありのままで言い表すためだけではなく、きれいに見えるよう良い感じの言葉も探している。自分の文章を読み返して、感情はもっと汚いものだったような…と違和感を抱くことがある。そもそも感情を正しく言葉にすることなんてできないと思う。言葉にしている途中でも目まぐるしく移り変わっている。自分が思ったまま、そっくりそのまま他人へ伝わることもない。受け取る方も、受け取りたいように受け取る。だから言葉は信用ならない。でも、だから面白い。
どうやら私は人間の在り方とか言葉とかそういうものに潔癖で、頭では「全てが正しくある」とか「全てに対して素直で実直であること」など不可能だとわかっている。自分だって出来ない。わかったままで理想を捨てられずにいる。
なんの含みも持たせずに喋りたい。そういう人間であることをわかってほしい。この言葉の裏で、この人は何を考えているのかなんて想像したくない。言葉を言葉として、そのまま受け取りたい。
言葉に対して潔癖なところがある上に恋愛というものに嫌悪感を抱いているのだから、下心アレルギーにも頷ける。
恋愛への嫌悪感は、ところ構わず向けられ私の世界を乱してくる他者からの恋愛感情によって芽生えてしまった。その嫌悪に気がつかないままでいられなかった。
恋を振りかざせば他者の感情を鑑みないまま他者に踏み込むことが正当化されるのか?ふざけるなと思う。
加えて「恋愛」に参加できないマイノリティである感覚をずっと持っている。恋をして、一喜一憂することがマジョリティであるように感じてきた。yesコンプレックス。
それを理解出来ない寂しさや疎外感も大きい。大人になればできるかなと希望を抱いたこともあったけど、結局よくわからないまま日々を過ごしている。「希望を抱いたこともあった」。やはり漠然とした憧れがあったのか。今はもういらないなあと思っている。
思考に偏りすぎていると自覚した。
思考より先に行動をして、行動を振り返ったときに「こういう気持ちだったのか」とわかることに憧れる。けどできない。考えない自分は自分じゃない気がして、自信がない。
最近よく聞いているPodcast、「佐伯ポインティの生き放題ラジオ!」で頭でっかちという言葉が出てきた。私のことじゃん!ととてもしっくりきた。
脳内で思考や言葉ばかりが大きくなって、素直な行動がなかなか取れないことがしばしばある。
もっと自由でいて良いのかもしれない。頭に操作されるばかりじゃつまらない。衝動で伝えたりすることを恐れないようになりたい。そうすればこの厄介な潔癖も、少しは良くなるかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?