とりかへ浪漫 〜月日流れて、春告げる。〜
フリーノベルゲーム『とりかへ浪漫』のスピンオフssです。
※本作にはネタバレらしいネタバレもございませんが、ゲームプレイ後にお読みいただくことをオススメします。何が何だかわからんからな!!
〈Side 光一〉
「デェト、行きますわよ。光一さん」
彼女がそんなことを言い出したのは、とある休日、まだ日も昇りきらない朝のこと。
「……で、なんで男装してるの? 小夜ちゃん」
「まあまあ、細かいことは気にしない、気にしない。ほら、光一さんもこれに着替えて」
「ちょ、待ってこれ」
俺の返事も待たずに、彼女はご機嫌麗しく部屋を出ていった。
目の前に置かれた服。
それは、年頃の少女が身に纏う、可憐な振袖。
「……無理があるってば」
届かない悲痛の声を漏らして、俺は渋々、重い腰を上げた。
「似合いますけれど、やっぱり肩幅がちょっと気になりますわね……」
「も~、着せたのは小夜ちゃんでしょう」
玄関で待っていた彼女は、すらっと長い腕を組んで唸るように俺を精査する。
とっくに成人済みの家持ち男に振袖を着せようって言うのが、そもそも無理な話だ。
「俺は朔彦くんみたいに華奢じゃないんだから」
「まあ、あの子が別格なのは承知してますわ。それでもやっぱり、うちの旦那さまだってずっと可愛らしいもの」
悪戯っぽく微笑むうちの奥さんは、どこまでも妖艶で美しい。
「さ、行きますわよ。んん、レディ。お手をどうぞ?」
「うぐ……逆がよかったなぁ」
そう文句を垂れつつ、手を取る指先まで壮麗な彼女のほうが、よっぽど男らしいとも思う。
――何度目の春だろうか。
ふたりでこうして桜並木を歩くのも、もうずいぶんと馴染みのある時間だ。
幾度繰り返そうと、俺の隣で彼女が笑っているのを見るだけで、何より幸せな気持ちになる。
そんな幸せを映し出すように、淡い色の雨は絨毯を編んで、世界を朗らかに染めていく。
「ところで、目的地はどこ?」
「あら、決めていませんでしたわね」
草履がつっかえて、思わず転びそうになってしまった。
「行きたい場所があるんじゃなかったの……」
「ふふ、良いじゃありませんの。目的もなく、ぶらぶらと歩くのも」
「もしかして、本当に俺と出かけたかっただけ?」
その問いに、言葉は返ってこなかった。
けれど、相変わらず格好の良い彼女の頬は、淡い雨の色にほんのりと染まっている。
「……最近、光一さんってばお仕事ばかりで。つまらなかったんですもの」
「ご、ごめん。大きな商談があったから……」
「良いんですのよ、わかってます。でも、夫の息抜きになるのも、妻の役目かと思って」
何となく、気づいていた。
人が普段とは違う格好をしようと思う時は、たいてい空気を入れ替えたい時だ。
彼女なりの、気遣いでもあるのだろう。
「了解。んじゃま、のんびり行こうか。愛しのダーリン?」
「まあ、ちょっとお下品ですわよ。でも、悪くないわ」
花がほころぶように微笑む彼女に手を取られて、俺は人の賑わう街へと歩みを進めた。
〈Side 小夜〉
男装をするのは久々で、しまいこんでいた背広のシワを伸ばすのは正直、苦労した。
けれど、振袖を着た彼を見たとたんに、背広に刻みこまれた”男”がわたくしに乗り移って、苦労は喜びにかき消された。
たまにはこういうのも、悪くない。
「あ、ちょっと待ってて」
街に着くなり、彼はそう言って近くのお店へ姿を隠した。
仕方がないので、太い桜の木にもたれかかって、彼を待つ。
特に意味はない。けれど、どうも格好つけたくなってしまう性なのだ。
頭上から絶え間なく降りそそぐ、淡い色の雨。美しいけれど、寂しさも感じる光景。
春は始まりでもあり、終わりでもある。
そう教えてくれたのは、誰だったか。
「小夜さま?」
ふいに、聞き覚えのある声がわたくしを呼んだ。
振り向けば、まだどこか幼さの残る影がひとり。
「妙ちゃん、偶然ね」
「お久しぶりです、小夜さま。ええと、ここへは光一さん……じゃなかった。有坂さまとですか?」
「ふふ、あなたが呼びやすい形で良いのよ。ええ、今しがた置いていかれたところ」
「ええっ! 大変じゃないですか」
「ちょっと、ちょっと。誤解を生む言いかたはやめなさいね」
後ろからひょっこりと、彼が顔を出す。
「有坂さま」
「や、妙子ちゃん。元気そうで何より」
「おふたりも相変わらず、仲睦まじくあられるようで安心です」
「おっと、おませさんだね」
馬鹿にしないでください、と少女は頬を膨らませる。
前に会った時よりも、健康的な肌質だ。
若槻の家で奉公するようになってから、しっかり食べているようでこちらも安心する。
「あら、光一さん。珍しいもの持ってる」
「ふっふっふ、見たら食べたくなっちゃって」
不敵に笑う彼の両手には、まだ温かそうなお菓子がふたつ。シベリアだ。
彼が入ったお店は、パン屋だった。
「シベリア……」
ぽつり、と虫の羽音ほど小さなつぶやきが、少女の喉から漏れ出た。
幼い口元からは、よだれがほろり。
「妙ちゃん、時間ある?」
「え? あ、えっと……はい、大丈夫です」
戸惑う少女を引き連れて、彼と近くのベンチへ向かう。
「ほい、小夜ちゃんの」
「ありがとう」
ひとつシベリアを受け取って、わたくしはそれを半分にわけた。
「はい、妙ちゃん」
「え、えっ?」
「食べるの手伝ってくださる? わたくし、実は今ダイエット中なの」
「だ、だい……? えっと、でも……」
少女は躊躇しているようだが、その可愛らしい両手はすでにお菓子を欲しがっている。
「……弟には内緒ね」
こっそりそう耳打ちすると、少女は顔をゆでダコのごとく真っ赤に染めた。
〈Side 光一〉
数年前。
「女だから、何ですって?」
未だ残る冬の香りに負けず劣らずの、凍てつくような怒号が鼓膜を刺した。
視線を声のする方へ向けてみれば、何か言い争っている様子だ。
「お嬢さまは聡明で、慈悲深く、誰よりも人の上に立つべきお方だわ。お嬢さまを冒涜するなんて、たとえ父親でも許さない」
「何……? 貴様、たかが雇われの分際で、当主の私に楯突くのか!」
「や、やめてくださいまし、お父さま! 先生も、落ち着いて。ね?」
位の高そうな男、雇われらしい女、ふたりの間に散る火花を鎮火しようとする令嬢。
どうやら、只事ではなさそうだ。
「何が不満だ。私は事実を述べたまで、娘を冒涜してなどおらぬ。貴様の方がよっぽど無礼だとは思わんかね」
「さっきの戯言が事実ですって? 聞いて呆れるわ、ご自分の口が凶器になっているなんて想像もしないのね。娘だ何だと仰るけれど、父親面も甚だしい。お嬢さまにとって、お前のような存在は害でしかないのよ!」
「落ち着いてください……! お父さま、どうかお許しを。先生はとってもお優しい方だから……」
女は尚も激昂している。
興味本位で屯する民衆に囲まれる様は、さながら見世物のようだ。
「もう我慢なりませんわ。いつもお嬢さまや奥さまのことを見下して、大した器量もないくせに権力を振りかざして。わたくし、お前のような輩が何より嫌いですのよ。この、この……」
まずい。
本能がそう警鐘を鳴らした。
あの女は、おそらく取り返しのつかない爆弾を投下しようとしている。
そうなれば、女が庇っているつもりの令嬢も只では済まないだろう。
そんなことを、瞬時に考えて。
まとまるより先に、足が勝手に輪の中心へと踏みこんでいた。
「おー、おーおー探したよ!」
「……は?」
ひょうきんな調子で、女の肩を抱く。
「こんなところで油売ってないで、早く行こう。舞台が始まっちゃうって!」
「ちょ、何……何ですの?」
「まさか俺との約束、忘れたなんて言わないよね? 『浅草大往生』の千秋楽! 三代目柊天十郎を生で見たいって言い出したの、君じゃないか。取るの苦労したんだからね? まったくもう」
怪訝をいっぱいに顔に浮かべ、困惑する女に向かって口からでまかせを浴びせる。
歌舞伎に関してはまったく馴染みがないが、さっき芝居小屋の前を通った時に、横断幕と行列を見たので間違いないはず。
「あ、あの、もし……先生のお知り合いで?」
遠慮がちに、令嬢が声をかけてくる。
間近で見ると、かなり華奢で可憐な美少女だ。これは男が放っておかないな。
まあ、父親が近くにいれば平気だろう。
「あ、ごめんねぇ。取りこみ中のところ悪いけど、連れは預かるから! さ、行くよ愛しのハニー!」
「ちょ、ちょっとあなた! 引っ張らないで……お嬢さまぁ!」
「せ、先生ぇ!」
悲劇の別れを強引に作り出し、見世物の主役を掻っ攫ってその場を後にした。
「ねー、そろそろ機嫌直してよ」
「……」
「せっかくの美人が台無しだって」
「……」
俺の問いかけを、女はガン無視している。
ひしひしと怒りが伝わってくる。これはしばらく治まらないだろう。
「ほら、甘いものでも食べてさ」
「……何ですの、これ」
ようやく口を開いてくれた、と思えば、かなり怪訝そうな声色をしていた。差し出した包みを、睨むかのごとく見ている。
「え、まさかシベリア知らないの?」
「しべ……お菓子か何か?」
「マジかぁ、絶滅危惧種じゃん。まあ美味しいから、騙されたと思ってさ」
ね、と半ば強引に握らせると、女は渋々といった様子で受け取った。
それでも口をつけようとはせず、こちらを睨むので、見せつけるようにかぶりついてやった。
うん、美味しい。焼きたてだ。
得意げに笑んでみせれば、女もおもむろにきつね色の生地を食んだ。
そのお淑やかなひと口は、小動物を思わせる。
「……美味しい」
「でしょ? いやぁ、やっぱこれ、これ」
「どうして、作ったわけでもないあなたが得意げなのよ」
「君って、息を吐くように毒を撒くね……」
ツン、と澄ましながらも、美味しいのは本音のようで、黙々とシベリアを頬張っている。
気の強さの中に、少女らしい可愛げな一面を垣間見た気がした。
「……どうして、邪魔したの」
食べ終わり、包みを小さく折りながら女はつぶやいた。
どうして、と聞かれると、若干困る。
自分でもよくわからない衝動だった。別に赤の他人どうしの痴話喧嘩なわけだし、それによって女と令嬢が怪我をしようが、俺には関係のないことだ。
それでも、なぜ止めようと動けたのか。
「うーん、強いて言うなら……勿体ないと思ったからかな」
「勿体ない?」
俺はベンチから立ち上がって、女の前に立ち顔を覗きこんだ。
「あんたがなんであんなに激昂してたのか、詳しい理由は知らないけど。でも、少なくとも激情の中心にいたのは、あの令嬢なんでしょう。あんたはあの子のためと思って男を殴りつけた。合ってる?」
「……そうよ。お嬢さまを守りたかった」
「でも、それはあんたのエゴでしかない。何ならあの場では、逆に令嬢に迷惑をかけてた」
女は唇を噛んで黙りこむ。図星だ。
「でもさ、俺はあんたを責められない。何の関係もない第三者だってこともあるけど、それ以上に、同情しちゃったから」
疑問を投げかけるように、女が視線を上げる。
「俺もああいう、鼻につくような態度の輩って好きじゃないんだよね。なんか、常に自分が正しいと思ってるタイプ? 関わったことないから好き勝手言うけど、あんたもあの子も、苦労してきたのかなって思っちゃったわけよ」
冒涜するな、とこの人は叫んだ。
女だから何か、とも言っていた。
生まれ持った立場をかさにきて、あの令嬢の生きる権利を辱めるようなことを言ったのではないか。
安直な妄想は、自分の足を動かす理由には十分だった。
「だから、勿体ないと思った。あそこであんたが渾身の暴言吐いたところで、あの男には響かないし、しっぺ返し食らうだけ。もっと慎重に確実に、あいつの足元を崩してほしいと思った。ま、これも俺のエゴだよ」
「……そう、ですの」
女はどこか、毒気の抜かれたような表情で話を聞いていた。
俺の戯言なんて心に留めないでほしいし、あまりそう噛み締められても困るのだけども。
「んじゃま、俺行くね」
そろそろ、お手伝いの絹さんが俺を探しに来る頃だろう。
厄介事を出来心で引っ掻き回したと知れれば、何よりも恐ろしい雷が待っている。
片割れにも、呆れ顔をされかねない。兄の威厳を傷つけるわけにはいかない。
え? そんなもの元からない?
やだなぁ、何をおっしゃる。常日頃から向けられる尊敬のまなざしを、ぜひお見せしたいところだわ。
「あの!」
帰路につこうとしたとたん、女から呼び止めを食らった。
「お名前、お教えくださる?」
「えー……」
あさっての方向を見やる。
正直、名前を覚えられると厄介だなと思いつつ、この人にならまあ教えてもいいか、なんて甘い考えが過ぎった。
強気な美しさは、嫌いじゃない。
「ヒカル、だけど?」
「そう、ヒカルさんね。わたくしはミサヨ。覚えていらしてね」
その言葉はまさか、宣戦布告か。
冷や汗を滲ませつつ、今度こそと踵を返そうとする。
「……ありがとう」
打たれた先手に、捕まってしまった。
くしゃりと歪められたその微笑みは、妖艶でいて、どこまでも無邪気で可愛らしくて。
冷たい雪をかぶった蕾が、一気に花開くような。
そんな鮮やかな景色から、目が離せなかった。
「光一さん? どうかしました」
ぼんやりと想いを馳せていたら、彼女にマヌケ顔をつつかれてしまった。
「いや? うちの奥さんは可愛いなーと思ってただけ」
「まあ、振袖姿の旦那さまに言われても、あまり響きませんわね」
「く……なぜだ、なぜ俺はこんな格好を」
「ふふ、冗談ですわ」
鈴を転がすように笑う。染まった頬を白い手で隠す様は、照れ隠しのようにも見える。
ふと、食べかけのお菓子に視線を落とした。
ふわりと、焼きたての香りが鼻腔をくすぐり、突然思い出したのだ。
あの日、君と出逢った春先のこと。
衝動的に買ってしまったけれど、やっぱり美味しい。
無意識に疲れていた体に、暴力的な甘さが沁みる。
まるで、彼女のようなお菓子。
「妙ちゃん、そんなに急いで食べなくても」
「お、おつかいの途中で……!」
「こっそり持ち帰って、夜にでも食べちゃいなよ」
「そ、そんな……!」
罪悪感と、歓喜の狭間で揺れ動いているらしい。少女もシベリアが好きなのか。
今度こっそり、義弟に教えてあげよう。
桜の雨は、いつの間にか緩やかになっていて。
春の終わりを、静かに告げている。
終