『銀河鉄道の夜』読書会 ~人はしあわせである.だれも理由を知らないまま~
趣旨
この原稿は,私が以前所属していた九州大学YMCA(基督教青年会)にて5月26日(日)開催される読書会において,『銀河鉄道の夜』を扱う際のレジュメです.
宮沢賢治が仏教に深く帰依していたことを考えると,この物語にも宗教的な読み解き方がたくさんあるものと思います.しかし仏教への理解が私にはほとんどないので,参考文献に多大に依拠しつつ,下記の視点で本書を読み解きました.
他人のつめたさ,自身のつめたさ
私たちはだれかのおかげで生きていることを知らずに生きている
ほんとうのさいわいと科学
さいわいを願うおもいは世界をめぐる
内容の整理(登場人物と内容)
〇1~5章まで
・ジョバンニ
・カンパネルラ
・先生
・活版所の人々
・父
・母
・姉(場面内では出てこない)
・ザネリ
・牛乳屋の具合の悪そうな老女
午後の教室での宇宙についての講義.天の川が何であるかについて,ジョバンニは答えることができない.活版所での植字工としての労働.自宅での母との会話.ケンタウル祭ではザネリらに父のことをからかわれる.父は密漁で捕まってしまったのか?牛乳を受け取りゆくが要領を得ない対応である.町を離れ,ひとりぼっちで牧場の上に佇む.
〇6~9章
・カムパネルラのおっかさん
・クリスチャンたち
・学者
・鳥を捕る人
・鍵を持った人(燈台看守?)
・車掌
・女の子(かをる子)
・男の子(たあちゃん)
・青年
・白い太いずぼんをはいた人
・巡査
・カンパネルラのお父さん
「銀河ステーション」の声に目を覚ますと,銀河鉄道の中にいた.カムパネルラとの再会.二人はどこへ行くのか?海岸での発掘調査の見学,鳥を捕る人との出会い.沈没した船にのっていた3人との語り合い.そして別れ.カンパネルラとずっといっしょに旅しようと約束するが,次の瞬間一人ぼっちになる.目が覚めて元の草原で目を覚ます.町へ向かうと騒がしい.男の子が友人を助けようとして行方不明の様子.それはカンパネルラだった.カンパネルラの父から発せられる,もう助からないだろうという言葉.
そこへ一閃,ジョバンニはカンパネルラの父から,父親が帰ってくると知らせを聞く.以前は要領を得なかった牛乳屋はうってかわって牛乳をくれる.何かが変わったのか?ジョバンニは母親のもとへいち早く帰ろうと駆け出す.
他人のつめたさ,自身のつめたさ
『銀河鉄道の夜』の前半,1~5章までは,全体的に陰鬱な雰囲気が漂っています.ジョバンニは教室では(日々の労働の疲れからか)わかるはずの先生からの質問にも答えることができない.活版所ではほかの労働者から冷たく笑われる.母親との語らいのなかでも,父が監獄にいるかもしれないことが暗示される.ザネリからはそのことをからかわれ,牛乳屋でもあしらわれてしまう.このように,ジョバンニを取り巻く環境はあまり良いものではないことが暗示され,他人の冷たさが頻繁に描かれているように感じます.
一方で,銀河鉄道に乗ってからはどうでしょうか?親友のカンパネルラと久しぶりに出会い,これまでの一人ぼっちの立場から親友との旅が始まります.明確には描かれていませんが,このときジョバンニは久方ぶりの高揚感を得ていたのではないでしょうか?そして車掌に切符を見せる場面では,ジョバンニはどこまでも行くことのできる切符を持っていることがわかります.1~5章までと比べ,ジョバンニはこの鉄道の中で特別な存在になっていることがわかります.
そのように立場が変わると,ジョバンニの人との接し方もこれまでと異なった様相を呈します.例えば鳥を捕る人にたいしては,あからさまな軽蔑の態度や冷たい反応をみせたりします.
「ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子かしだ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋かしやだ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。」
ここでは,ひとりの登場人物の立場の変化をたどりながら身の回りの人々がときに自身につめたく,ときに自身が身の回りの人々につめたい様が描かれています.
作者宮沢賢治の来歴に目を向けると,彼自身は地元きっての富裕な家に生まれました.一方で幼少期のころから,東北地方の災害や飢饉に囲まれながら生活していたこともわかります.彼の実家が質・古着商を営んでいたことを考えると,生活に困窮する人々の暮らしを目の当たりにして,どうにかできないものかと考えていたのではないでしょうか.
そのような中で賢治が選択したのは,農学の道でした.高等農林学校時代の関教授は海流と凶作の関係について研究していました.賢治自身も科学の知識(と,仏教の教え)こそが人々の生活を救うのだと考えたのでしょう.賢治は高等農林学校で学んだ知識を生かし,花巻農学校の教員時代は,実際に農業を担う若者たちの教育に没頭しました.また,羅須地人会でも無料で肥料設計の相談に乗ったり,農家の方の生活をすこしでも豊かなものとするために音楽などの芸術活動を行っていました.
しかし,賢治はその活動の中で,他人の理解のなさ(賢治から見ればつめたさと言っていいのでしょうか…?)にも触れます.羅須地人会の活動に協力し,参加してくれる農家の方もおられましたが,陰ではぼんぼんの道楽のように見られていた節もあります.賢治はその活動のためにリヤカーを持っていましたが,リヤカーは当時最新の器械だったようで,新奇な目で見られたことが詩作などからも読み取れます(山本,2006)(馬場万磐氏の『賢治と農』より).
また,これは推測なのですが,賢治自身もまた,羅須地人会の運営難航を通して世間の人々に対し「話の分からない奴らだ」と反感,もっと言えば失望していた部分もあるということはないでしょうか.鳥を捕る人に対し,「このひとをばかにしながら,この人のお菓子をたべているのは,ほんとうに気の毒だ」という記述のリアルさは,賢治自身が抱いていた農家の人々に対するつめたさ,しかもそれは,農家の人々よりも賢治が優位な立場にあることからくるつめたさがあった.そのことを賢治自身が自覚していたということを反映しているのではないでしょうか.
このように,『銀河鉄道の夜』では,他者のが自身にたいしてつめたいのと同時に,自分もあるときには他人へつめたいのだということが描かれています.
私たちはだれかのおかげで生きていることを知らずに生きている
そもそも,なぜ人はそのように,あるとに他者へつめたくあることができるのか.それは自身がだれかのおかげでいま,ここに生きていけていることを知らずに生きているからなのではないでしょうか.
『銀河鉄道の夜』はしばしば自己犠牲が描かれていると言われます.これは確かに沈没しゆく船の上でほかの人にボートを譲って天に召された3人の話,蠍の話,そしてカンパネルラが自身を犠牲にしてザネリを助けた話に象徴的に描かれています.
しかしながら,上記の各々のお話が自己犠牲を描いていることは確かですが,別の観点からの見え方もあるのではないかと思います.それは,自己を誰かのためにささげた彼らのことを知っている人は(ほとんど)いない,という見方です.
例えば沈没した船に乗っていた3人のなかで,とくに青年は,船が沈みゆく中でほかのひとを押しのけてでも2人の子供をボートに載せるべきか思案します.しかし,それは2人のほんとうのしあわせにはつながらないと感じ,ボートに乗ることを諦めます.そして,賛美歌を歌いつつ渦に飲まれてゆきました.このことをボートに乗った側の人は,果たして知っていたでしょうか?青年はけっして声高に,「私たちはボートを皆様のために譲ります!」などと言ったと描かれていません.すべては青年のなかで決意したことです.したがってボートに乗ることができた人々は,自身が助かったことをあの3人のおかげだとは感じず,ただ幸運であった,と感じるのではないでしょうか.
また,蠍の話であっても,蠍は自身がこれまでにどれほどの命を頂いてきたかわからないのに,いざ自身が食べられようとすると必死で助かろうとした.そしてそのため井戸の底に落下することとなった際,神様にお願いをして,夜の闇を照らす星として輝く役割を頂いたのです.このとき,そのことを知っているのは神様と蠍だけです.夜の闇の中で道を探す人々が,蠍のことを思い出して,道に迷わないことはあの蠍のおかげなのだと思うことは(この伝説が残ったから全くではないにせよ)ほとんどないことでしょう.
カンパネルラの場合はどうか?カンパネルラがザネリを助けたことは多くの人が知ることではないか?とご指摘になるかもしれません.しかしながら,カンパネルラの死は,ザネリを救ったことにとどまらない結果をもたらしたのだと読める描写があります.じつは,『銀河鉄道の夜』はよく読んでみるとカンパネルラと鉄道に乗る前と,乗った後とで,世界が変わっているとも読める内容になっているのです.
これは以前『銀河鉄道の夜』を読んでいた際に,私の先輩がご指摘されたことなので,私の発見ではありませんが,当初牛乳屋で要領の得ない対応をされ,父も捕まってしまったかもしれずなかなか便りがとどかない状況だったジョバンニの世界は,カンパネルラの自己犠牲的な死の後,一変します.牛乳屋は快い対応で牛乳をくれ,父親も帰ってくる世界に変わっているのです.このことを私の先輩は,「銀河鉄道に乗る前と乗った後とでは,まさしく世界の乗り換えが行われている」とおっしゃていました.しかしそのこと自体,ジョバンニは(描かれている限りでは)知っているそぶりはありません.カンパネルラの死とジョバンニの生活の状況が好転することは,通常の生活の因果の関係の中からみれば,とても関係のありそうにないかけ離れた出来事だからです.
しかしながら,よくよく考えてみれば,私たちの生活も,私たちの知る限りの因果のなかでしかとらえることができていません.『銀河鉄道の夜』で描かれる例は極端なものではあるにせよ,我々はだれかのおかげでいま生きている「かもしれない」ことを,知ることがないまま生きているのです.
もしもほんとうに自身が自身の知る由もないところで救われたり助けられたりしながら生きているのかもしれないと思うことができたなら,他人にたいしてつめたく接することなどあろうはずがありません.『銀河鉄道の夜』は,複雑に因果の絡み合うこの世界において,私たちがだれかのおかげで生きていることを知らないまま生きているのかもしれない.しかしもしここに描かれているように,世界の真実の姿がそうだったら,あなたはどうするのか?問いかけているように,私には読み取れます.
ほんとうのさいわいと科学
ここまでで,私の述べたかったことの一つは述べ終えました.最後に賢治と科学について書きたいと思います.
先に述べたように,賢治の生まれた時代は災害,飢饉の時代でした.そのなかで恵まれた存在であった賢治は,科学,とくに農学を通して世の人々の生活を助けることを志します.ここで賢治と科学の関係について,大変興味深い論考(菅野,1998)があります.
賢治は,盛岡高等農林学校で同級生の保坂嘉内と親交を深めます.保坂はキリスト教徒でした.熱心な仏教徒であった賢治と保坂は,しばしば信仰をめぐって議論したとされています.菅野によると,その保坂との交わりと,その後の決別を通して,賢治は「アイデンティティーの崩壊の危機に苦しむ
中で、賢治は法華経の教えを科学で証明しようと考える」(菅野,1998,p.48)ようになったとされています.大変興味深いことに,賢治にとって科学は人々を救う手段であるとともに,仏教の教えを証明する方法でもあったのです.
これはほんとうに純粋な,科学の総合性への期待です.私は賢治の作品に感動するとき,もしかしたらこの想いに感動しているのかもしれません.科学哲学者の戸田山は,科学に携わるものの中には,少なからず「世界のまるごとを分かりたい」という動機がある(あった)と述べています(戸田山,2020,p.242).科学には世界を全体として解明する力がある.そしてそのことを通して人間が大切だと考えている形而上学的なことも,実存的なこともすべて,より納得がゆくように説明してくれるに相違ないという想い.加速する科学の歩みが,私たちの心の中にすこしでも残っているこの期待を置いてけぼりにし,科学者はただの専門家へと頽落してしまうことがないように願います.私もそうならないように努力したいです.
さいわいを願うおもいは世界をめぐる
『銀河鉄道の夜』は,理路整然とした話のつながりを重視する視点から読むと,脈絡のない珍奇な話のようにも読めると思います.なぜ急に銀河ステーションにジョバンニが移動したのかわからないですし,鳥を捕る人は瞬間移動をします.銀河鉄道の旅自体,突然の幕引きを迎えます.そして,「ほんとうのさいはい」とは一体なんであるのか,ついに明かされません.
しかしほんとうのさいはいが一体なんであるのか,わからなかったのは賢治自身もそうなのかもしれません.著者経歴にあるように,賢治は国柱会にも属していましたし,晩年は労農党のシンパでもありました.羅須地人会の活動にも見られるように賢治は情念と活動の人でもあったのです.そのような活動に自らを預けるなかで,銀河鉄道の夜の改稿は賢治の「ほんとうのさいはい」の模索と重なっているのかもしれません.そうだとすると,未完(完了版がいまだ見つかっていないだけかもしれませんが)の『銀河鉄道の夜』は,ほんとうのさいはいがなんであるかわからなかったことを暗示しています.
それでもなお,『銀河鉄道の夜』がいまもなお人々の心を惹きつけてやまないのは,私はこれまでに書いてきた「私たちはだれのおかげで生きていることがわからないまま,それでも生きていけている」ということがこの話に書かれているからではないでしょうか.
人間は結局,科学によっても宗教によっても世界の本当の底の底にある真相にも気づけていない.だれかのおかげで今生きていることも,複雑な因果のなかでわからずじまいである.しかしながら,諸々のことは巡り巡って私を生きさせてくれている.さいはいはあたか銀河をめぐる鉄道のように世界を巡っている.それが賢治が最後に行き着いた(暫定的な)結論だったのかもしれません.
著者経歴
詳しくは調べれば情報が出てくるので,今回の読書会にて重要と思われる部分のみ書き出します.参考文献は新潮社,宮沢賢治著,『ポラーノの広場』(十三刷),p.546-552,2016です.
1896年(明治二十九年)8月27日
父政次郎,母イチの長男として,岩手県稗貫郡(ひえぬきぐん)花巻町大字里川口第十二地割川口町二九五番地に出生
→ 実家は祖父喜助が開いて発展させた質・古着商.イチも同じ宮沢一族の出で,祖父善治は富商
→ この年,東北は大津波,大洪水,陸羽大地震,秋には豪雨に遭った
1902年(明治三十五年)9月 6歳
赤痢を病み隔離病棟に入る
→ この年,東北地方は凶作
1902年(明治三十六年)4月 7歳
町立花巻川口尋常高等小学校(1905年より花城尋常高等小学校と改名)入学
→ この年,前年の凶作のため東北地方飢饉
1906年(明治三十九年)8月 10歳
父及び有志が運営する夏季仏教講習会に参加
→ 以後この夏季仏教講習会には定期的に参加する.宮沢家の仏教への信仰の厚さと,家業により富裕であったことが推察される
1907年(明治四十年)
鉱物収集に熱中して石こ賢さんと呼ばれる
→ この年,のちの盛岡高等農林学校における指導教官である関豊太郎教授が凶作と海流の関係を究明する論文を発表
1909年(明治四十二年) 13歳
花城高等尋常小学校卒業 六年間全甲の成績
県立盛岡中学校へ入学 寄宿舎自彊寮に入る
1914年(大正三年) 18歳
盛岡中学校 卒業 成績は入学後下落した
島地大等著『漢和対照 妙法蓮華経』を読み激しく感動
1915年(大正四年) 19歳
盛岡高等農林学校農学科第二部(現在の岩手大学農学部)へ首席入学
→ 盛岡教会でバイブル講義を聴く
1916年(大正五年) 20歳
各地の農業試験場見学.土地・地質調査へ参加
→ 同級生でクリスチャンの保坂嘉内と親交を深める
1918年(大正七年) 22歳
盛岡高等農林学校 得業証書取得
得業論文『腐食質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』
研究生として残る
1920年(大正九年) 24歳
盛岡高等農林学校研究生修了
→ 関教授から助教授推薦の話があるが辞退する
→ 国柱会信行部へ入会
1921年(大正十年) 25歳
無断上京し,働きながら国柱会の活動へ参加.猛烈に創作を始める
稗貫郡立稗貫農学校(後に花巻農学校と改称)に教員として就任
生徒らと講義だけでなく,演劇なども行う
1924年(大正十三年) 28歳
『銀河鉄道の夜』初稿できる
1926年(大正十五年,昭和元年) 30歳
花巻農学校依願退職
羅須地人会をこのころ設立?農作業を行いつつレコード鑑賞や合奏などを行った
→ 労農党のシンパとしても活動
1928年(昭和三年) 32歳
石鳥谷で肥料相談に応じる.稲熱病や干ばつの対策に奔走する
1933年(昭和八年) 37歳
かねてより発熱などで病に伏せることがあった.9月に病状が悪化し,農民の肥料相談に応じた後に逝去
参考文献
菅野博 『銀河鉄道の夜』改稿考 -空間から時間へ- 語文論叢 千葉大学文学部国語国文学会 47頁-61頁 1998
宮沢賢治 ポラーノの広場 新潮文庫 2016
山本昭彦 教室の風景ー賢治と学校 アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) 第78号 61-72頁 2006
馬場万盤氏の宮沢賢治ご研究 賢治と農 (考察)宮沢賢治はリヤカーを捨てるべきだったのか 2021 URL (詳細でご立派なご研究です.リンク張りが問題あれば撤去いたします)
戸田山和久 科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法を探る NHKBOOKS 2020
※この記事は私の所属先や研究室の見解ではありません
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