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退職願の撤回の事例問題を考えてみました。

 第19回第1問は「退職願の錯誤取消し」が重大テーマでしたが、「撤回」と「取消し(瑕疵ある意思表示の一つ)」の違いが分からずに、混乱した解答をした受験生が多かったものと思います。第19回第1問と同じ「退職願」を使った設例が第20回第1問で出題される可能性は極めて低いとは思いますが、絶対出題されないとは言い切れません。また、錯誤の説明をする人は多いですが、撤回の説明をする人は少ないので、あえて、ここでやっておきます。

 まず、私の考えた事例問題を掲げますから、一度、ご自分で考えて解いてみてください。論点の勉強とは関係ないので、通常の小問(1)は省いてあります。
  <Xの言い分>
 A.  私は、平成30年4月1日、大学卒業と同時にY社に正社員として入社し、大阪本社の経理部で半年研修を受けた後、仙台支店の総務課に配属され、金銭の資金の管理および出納を担当していました。令和5年5月1日時点の私の賃金は、月額金30万円を毎月末日締め翌月末日支払でした。

 B.  私は、一人息子で、大阪に両親が住んでおり、いずれは大阪に戻って結婚して両親と同居することを考えていました。そのため、令和4年秋から人材紹介会社に登録して、同じ経理職で、関西から外への転勤のない会社を探していました。幸い、令和5年3月に紹介されて面接を受けていた大阪に本社のある機械メーカーの経理職での採用が同年5月に決まり、令和5年8月1日入社予定の内定通知書を令和5年6月1日付けで、R社からいただきました。両親も大変喜んでいました。

 C.  令和5年6月3日に上司のW課長に、R社の内定の件と同年7月31日付けでY社を退職する意思を伝えたところ、予想したとおり、強烈な引き留めにあいました。W課長が本社のT人事部長と相談して、令和5年10月1日付けで本社の経理部に異動するという話までつけてくれましたが、Y社は全国展開をしている会社なので、定年まで大阪本社に勤務するということは約束できないと言われました。ということで、令和5年6月25日に同年7月31日付けでの退職の意思を再度K課長に伝えたところ、K課長から会社様式の退職願に記入して署名を付して、本社の人事部長宛てに社内便で送るように言われました。

 D.  Y社の就業規則によると、「従業員の自己都合による退職願は、原則、人事部長に届いてから1週間以内に手続きがなされて社長決裁により承認され、当該退職願に記載された退職日をもって退職になる」と規定されています。同年7月7日までには社長の承認が下りる予定なので、その時点で改めて人事部の担当者Hから電話と電子メールで退職までの手続きなどについての連絡があるから、退職のことはそれまで社内で伏せておくようにと書かれた電子メールが、令和5年6月30日にT人事部長から私宛に送られてきました。

 E.  Y社を退職する話は、ここまでは順調だったのですが、令和5年7月5日に、R社が、突然、私の内定を取り消す、令和5年8月1日付けの採用はできないと、採用担当者Gからの電子メールにR社の社長名の文書がPDFに添付されて送られてきたのです。私は、びっくりして、即座に、採用担当者Gに電話して、内定取消しの理由を尋ねて、納得がいかないので内定取り消しは認められないと主張したのですが、G曰く、「Xさんが以前Y社で経理担当をしているにもかかわらずY社の現金を横領して、減給の懲戒処分を受けていたことを隠していたことが分かったので、経理マンとしての採用はできないとの判断になった。この件は弁護士にも相談した結果、R社の判断は正しく、裁判でも争っても勝てるという結論になりました。」とのことでした。

 F.  私は、令和5年7月6日、Y社に出社するとすぐ、W課長に事情を説明して、7月31日付けで退職するという退職願を撤回して、Y社に残りたいとお願いしました。W課長は、さっそくT人事部長に電話をしてくれて、退職願の撤回の件を伝えてくれたのですが、T人事部長の回答は、「X君の退職願は、すでに、令和5年7月5日付けで社長の承認を得ており、正式に決済された稟議書もあるので、今さら、あの退職願を撤回することは認められない。X君には令和5年7月31日限りで退職してもらうしかない。」とのことでした。

 G.  結局、私は、令和5年8月1日から失業者になってしまいましたが、退職を決意したのは家庭の事情を優先させたからであり、私はY社を嫌っていたわけではありません。退職予定日の令和5年7月31日までには、まだ日数があったのですから、Y社は私の撤回を認めて、会社に残すという処理ができたのに、しゃくし定規に取り扱って、私を退職に追い込みました。私は、Y社に復職して働き続けることを求めます。

<Y社の言い分>
 ア 私は、Y社の人事部長のTです。Xの言い分のH.からM.までは、その通りです。

 イ Y社の人事部としては、最初に退職の申出があった段階で、慰留に努めましたがXの退職の意思が固く、慰留を諦めて、就業規則に従った正式の自己都合退職の手続きを進めて、令和5年7月5日に決済し、翌7月6日に人事部の担当のHからXに連絡する準備を進めている段階で、突然、「あの退職願を撤回したい」と言い出されて困惑しています。

 ウ Y社としては、正式の退職手続が終わった後なので、今さら、退職願の撤回を認めると悪しき前例を残すことになるので、認めたくありません。また、Xについては、退職願の提出前に、上司から慰留に努めて、退職の意思を確認しているので、転職先から採用を取り消されたから何とかしてほしいとY社に向かって言われても、Y社には関係のない話です。

 エ 私は、もし、今回、Xの退職願の撤回を認めてY社での雇用継続をしたとしても、Xはきっと、将来、同じ理由で転職をするでしょうから、Xを特別扱いして、ここで引き留めるというのは、Y社にとってXの転職という問題を先送りするだけで、かえって禍根を残すことになるので、Xにはこのまま令和5年7月31日限りで退職してもらうことが良いと考えています。

小問(2)
Xの立場に立って、辞表(退職の意思表示)の撤回を主張・立証するための事実を箇条書きしなさい。                                                                                                  
                                                                            
小問(3)
Y社の立場に立って、辞表(退職の意思表示)の撤回を認めないことを主張・立証するための事実を箇条書きしなさい。                                                                                                                  
                                                                           
小問(4)
法的判断の見通し(XとY社のどちらが訴訟で勝ちそうか)とその理由を書きなさい。                                                                                                                     
                                                                             
小問(5)
上記小問(4)で勝ちそうと予想した当事者の代理人として、現実的な和解案を書きなさい。                                                                                                                     
                                                                                
小問(6)
上記小問(4)で負けそうと予想した当事者の代理人として、現実的な和解案を書きなさい。                                        
                                                                                                                       
                                               さて、ここから解説と回答を書きます。

[出題の趣旨]
 第19回(令和5年度)第1問で出題されたのは、「退職願の提出(退職の意思表示)が、錯誤によって取り消せるか?」という論点でした。受験生の多くは、「錯誤取消し」と「撤回」の違いが理解できておらず、錯誤取消しについて書いているにもかかわらず、撤回と誤記してしまったり、錯誤のテーマなのに撤回の要件を使って設例を解いてしまった人が多かったのではないかと推測しています。そこで、ここに「撤回」をテーマとする紛争事例問題を掲げて、その解き方を解説することとしました。
 「撤回」の要件・効果について説明するために、次に、2つの解説文を引用するので、熟読して理解してください。
弁護士安西勝愈著「管理監督者のための採用から退職までの法律実務 [改訂第17版]」P357から引用
<5.退職願の撤回は認められるか******************************************
 労働者の退職願の提出は会社に対する労働契約の解約の申し込みであり、これを会社が承諾すれば労働契約解約の合意(退職の合意)が成立し、労働者は退職となる。そこで、使用者が承諾した後は、退職願の撤回、すなわち労働契約の解約の申し込みの撤回はもう認められなくなる(昭62.9.18 最高裁(三小)判決、大熊鉄工事件)。なお、民法では承諾の期間を定めた契約申込みの撤回禁止が定められている(民法523条)が、労働契約にはこの民法上の原則が適用されず、「民法523条以下の民法の法理をそのまま適用し難く、従業員は、使用者が承諾するまでは合意退職の申入れを撤回できるのを原則とし、ただ使用者が承諾するまでは合意退職の申入れを撤回できるのを原則とし、ただ使用者に不測の損害を与える等信義に反する特段の事情があるときは、撤回できない」(昭48.3.6) 大阪地裁決定、田辺鉄工所事件)とされている。したがって、会社が本人の退職を承諾する旨の通知等の承諾の意思表示以前であれば、撤回が原則として可能である。
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菅野労働法[第13版] P710から引用
 労働者の一方的解約としての辞職(退職)の意思表示は、合意解約の場合と異なり使用者に到達した時点で解約告知としての効力を生じ撤回しえない。ただし、意思表示の瑕疵による無効または取消し(民法93条~96条。民法改正により錯誤による意思表示も取り消されうるにとどまることとなった)の主張はなしうる。また、たとえば労働者が口頭で「辞める」と発言したような場合に辞職の意思表示があったかどうかが問題になる事案においては、確定的な意思表示であったかどうか慎重な判断がなされる傾向がある(ある裁判例は、「労働者が単に口頭でなした退職に関する発言を、直ちに法律効果を生じさせる程度の確定的な意思表示であると評価するには、慎重な判断が必要である」とする)。
 労働者の辞職に際しては、使用者から辞職を認めないとの反応や辞職による損害を賠償せよとの要求がなされることがあるが、辞職は上記規定(民627条~629条)に従って行われ、辞職までの間業務引継ぎなどの労働義務を誠実に果たす限り適法であり、辞職それ自体については使用者に対し損害賠償責任を負わない。
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 この問題の事例は、安西弁護士のいう「解約の申込みの撤回」なのか、それとも菅野名誉教授のいう「一方的解約」なのかという判断(評価)は、事例の中に書かれた情報から判断することになります。私の意図は、「解約の申込みの撤回」であって、その線で情報を並べてあります。小問(2)と(3)の回答を読んでいただければ、どのような情報(事実)に着目すべきが理解できるものと思います。ここで、撤回について、(錯誤取消しとの相違点を含めて)しっかり理解しておいてください。
 もし、「会社が解約の申込みの承諾の意思表示を当該労働者にした(退職を認める辞令の交付など)後に当該労働者が撤回を申し入れたとしたら、撤回は認められない(本問は会社内の処理は終わっていたが、承諾の意思表示が当該労働者に届いていない)という結果になるという、線引きをよく覚えておいてください。安西弁護士が書いている「会社が本人の退職を承諾する旨の通知等の承諾の意思表示以前であれば、撤回が原則として可能である。」という引用の最後の箇所が肝ですが、「承諾の意思表示」は相手方に到達しなければ効果を生じないという点について塩見民法P42-43から少し引用して説明しておきます。ここは、非常に重要です。特定社会保険労務士試験の民法の出題範囲には民法総則の意思表示は含めれていませんが、民法総則(特に意思表示)は、私たちの社会生活の基本部分になりますで、ここはきっちり理解しておいてください。このあとに、回答例を書いておきます。
<2 意思表示の効力発生時期―――到達主義>*************************
 意思表示は、表意者が効果意思の表示行為をしたことで成立する。しかし、これだけでは効力が生じない。
 意思表示は、相手方への到達によって効力を生じる(その結果、承諾が到達することにより、契約が成立する。)意思表示を発信しただけでは効力が生じないし、逆に、相手方が現実に了知したことまでは必要でない。到達主義がされている結果、意思表示が到達しなかったり、延着したりしたことのリスクは、表意者が負担する。
 意思表示が到達したといえるためには、意思表示が相手方の支配圏内に入ることを必要とする。その際、相手方の支配圏内に入ったと評価できるためには、意思表示を受領したのが相手方本人である必要はない(最判昭36・4・20民集15-4-774)。
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小問(2)
① Xは、平成30年4月1日、大学卒業と同時にY社に正社員として入社し、大阪本社の経理部で半年研修を受けた後、仙台支店の総務課に配属され、金銭の資金の管理および出納を担当しており、令和5年5月1日時点の私の賃金は、月額金30万円を毎月末日締め翌月末日支払だった。
② Xは、一人息子で、大阪に両親が住んでおり、いずれは大阪に戻って結婚して両親と同居することを考えて転職活動をし、令和5年3月に紹介されて面接を受けていた大阪に本社のある機械メーカーの経理職での採用が同年5月に決まり、令和5年8月1日入社予定の内定通知書を令和5年6月1日付けで、R社から受領した。
③ Xは、令和5年6月3日に上司のW課長に、R社の内定の件と同年7月31日付けでY社を退職する意思を伝えたところ、強烈な引き留めにあったが、結局、令和5年6月25日に同年7月31日付けでの退職の意思を再度K課長に伝えたところ、K課長から会社様式の退職願に記入して署名を付して、本社の人事部長宛てに社内便で送るように言われた。
④ Y社の就業規則によると、「従業員の自己都合による退職願は、原則、人事部長に届いてから1週間以内に手続きがなされて社長決裁により承認され、当該退職願に記載された退職日をもって退職になる」と規定されている。
⑤ 同年7月7日までには社長の承認が下りる予定なので、その時点で改めて人事部の担当者Hから電話と電子メールで退職までの手続きなどについての連絡があるから、退職のことはそれまで社内で伏せておくようにと書かれた電子メールが、令和5年6月30日に、T人事部長からX宛に送られてきた。
⑥ 令和5年7月5日に、R社が、突然、Xの内定を取り消す、令和5年8月1日付けの採用はできないと、採用担当者Gからの電子メールにR社の社長名の文書がPDFに添付されて送られてきて、XはR社と交渉したが、結局、内定は取り消された。
⑦ Xは、令和5年7月6日、Y社に出社するとすぐ、W課長に事情を説明して、7月31日付けで退職するという退職願を撤回して、Y社に残りたいとお願いし、W課長はT人事部長に電話をしてくれて、退職願の撤回の件を伝えてくれたが、T人事部長の回答は、「X君の退職願は、すでに、令和5年7月5日付けで社長の承認を得ており、正式に決済された稟議書もあるので、今さら、あの退職願を撤回することは認められない。X君には令和5年7月31日限りで退職してもらうしかない。」と回答された。
⑧ X→K課長→T人事部長へと撤回の意思表示が到達した時点では、Xが提出した辞表による退職の申込みへのY社の承諾の意思表示は到達しておらず、Xによる撤回は可能である。

小問(3)
① Y社の人事部としては、就業規則に従った正式の自己都合退職の手続きを進めて、令和5年7月5日に決済しXの退職の申込みを承諾していて、翌7月6日に人事部の担当のHからXに連絡する準備を進めている段階で、7月5日の朝、唐突に、「退職願を撤回したい」と言い出された。
② Xは、Y社の慰留を振り切って退職の意思表示をしておきながら、転職先のR社から採用を取り消されたからY社に残りたいと身勝手なことを主張しているので、Y社としては、正式の退職手続が終わった後に、Xの退職願の撤回を認めると悪しき前例を残すことになるので、Xのこの主張を認められない。
③ Xは、もし、今回、Xの退職願の撤回を認めてY社での雇用継続をしたとしても、Xは、将来、同じ理由で転職をすることは明らかなので、Xを特別扱いして、ここで引き留めるというのは、Y社にとってXの転職という問題を先送りするだけで、かえって禍根を残すことになる。

小問(4)
Xが勝ちそう。なぜなら、Xが7月6日の朝、退職願による退職の申込みの撤回をT人事部長に伝えた時点では、社長決裁まで終わっておりY社はXの退職の申込みを承諾しているが、いまだその承諾の意思表示をXが受領しておらず、Xによる撤回が認められる可能性が高いと考えられるから。ただし、Y社の慰留を振り切って転職を決めた点、将来も転職をする可能性が高い点、Y社の承諾の意思表示を受領する直前の撤回の意思表示であった点の3点を考慮すると、Xの主張は権利濫用として認められない可能性も否定できない。
(注)いくら権利があって要件を満たすからと言って、余りにも身勝手な言動で相手や第三者に迷惑を及ぼすなら、裁判所は、権利濫用(これも民法総則)として、その行使を制限する場合があるということを覚えておいてください。だから、人生経験に基づく良識的な判断が和解案の提案や交渉で役立つのです。

小問(5)
Xの代理人として、令和6年3月31日付けで自己都合退職することを条件に、未払いの賃金を受領して、Y社に復職して転職先を探すという和解案を提示する。

小問(6)
Y社の代理人として、Xには令和5年7月31日限りで自己都合退職してもらう代わりに月額賃金30万円の5か月分金150万円を支払うという和解案を提示する。
 


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