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病院送迎と私の家族

46歳独身、ひとりっ子のどれみです。
月1ないし2回、母の病院送迎を25年以上続けています。1日2つの病院のはしご送迎する事もあります。
この25年以上続く病院送迎と両親との関係を書きたいと思います。

車の免許

どれみは、19歳で免許取得!今、普通車4代目フィットハイブリッド!今年の11月に手放します。次は、軽自動車になります。
ここ近年、助手席に母か友達しか乗らないので、一旦、アラフォーどれみ、維持費を優先する事にしました。

ペーパードライバーの母

母は、私が保育園に行く前に教習所に通っていました。待合室で母が戻って来るのを待っていた記憶が薄ーくあります。
その頃、団地に住んでおり、車は父のみ。移動は、もっぱら母の自転車の後ろに乗るか、バス移動でした。母は、夫婦喧嘩をする度に、私を連れて駅までバスに乗り、電車に乗って、駅から歩いて隣町の祖母に会いに行っていました。
小学生1年生になると同時に隣町の祖父母の敷地に家を建て、引っ越ししました。
車が置けるスペースはありましたが、車は1台のまま。母は、電車通勤のパートから単車を購入し、町内のパートへ。数年後、自転車で行けるパート先にし、車を運転する事は、一度もなかった。

中学の時、忘れ物をして一か八か母に電話しても単車では持って来てくれませんでした。
中2の時に肉離れをし、松葉杖生活になった際、朝は父に中学校まで送ってもらうも、帰りは、松葉杖で歩いて帰る事もあり、両手の手のひらは、マメだらけでした。自転車通OK出てないのに、松葉杖を持って自転車に乗り通学した。
友達のお母さんは、ほとんど車の運転ができていて、本当に羨ましかった。

雨の日雪の日 あの寒い日

父は、休みで家に居てても、夜、早く家に居てても前もって頼まないと迎えには来てくれませんでした。
一度だけ、高校2年の時。19時過ぎ…みぞれが降り、みんな駅に家族が迎えに来て居て、車に乗って帰って行った。どれみ宅は、駅から徒歩10分圏内。帰ろうかと思ったが、寒くて寒くて、暗いし…家に電話を掛けた。

母が出て『お父さんいる?寒くて吹雪いて来たから、迎えに来て欲しいんだけど…』
母が伝えると電話の向こうで『このくそ寒いのに迎えに行けるか!毎日、こんなに寒い日でも郵便配達してるんや!たいそうに(大袈裟に)言って!帰って来んかい!』
この言葉は、今でも耳にこべりついている。
そして、寒くて泣きながら帰った事もはっきり覚えている。
帰ってすぐにコタツに入っている父の姿を見て、無言で睨んだ。

こんな日でも、外で毎日、働いているんや!甘えるな!
父は、吐き捨てるようにどれみに言い放った。
この頃から父との確執ができ始め、今に至るように思います。

父の協力

仮免が取れてから、父が何度か車庫入れの練習に付き合ってくれた。車庫入れ講習は、ほぼミスなしでスムーズに合格できた。父は、大阪の厳しいと有名な教習所で免許をとった事をよく話し自慢した。

当たり前!理不尽タクシー

免許を取得したどれみは、短大生でした。
社会人バスケに行ったり、母や祖母、たまに祖父を連れて買い物や一度、日帰り旅行も私の運転で行った。父と母と私で一度、車内泊しながら、小豆島へ行った。
家族として車での良い思い出は、この2つ。

社会人になったある日から、父の酒飲み送迎が増えて来た。『どこそこのスナックまで迎えに来い』知らない誰かを乗せて家まで送る事もあった。その際、必ず母と家族の悪口を言う父が嫌で嫌で仕方がなかった。

ふと、あの高校時代のみぞれの日を思い出した。どれみも社会人となり、
早出→日勤→遅出→11時出勤→夜勤→夜勤明け→休み
こんな勤務が多かった中の酒飲み送迎が増え続け、ある夜、スナックに迎えに行き待っていると知らないほろ酔いオヤジが
『中に入って歌、歌っていきな!お父さんまだ居て、歌っているから!』と言って来た。


「ブチっ」と頭の中で確実に音がした。
20代に愛想もへちまもなかった。
今なら愛想笑いは、できるアラフォーです!

酒飲み送迎はいたしません


ほろ酔い知らないオヤジに『歌いません。明日、早出なんですよ。呼んできてください』

ほろ酔いオヤジは、ハッとした顔して、そそくさと店の中へ消えた。
怒りが沸々と湧いて、怒鳴り散らしたかったが止めた。
静かに車に乗り込んで来た父がいた。 
この日が酒飲み送迎、後にも先にも最後となる。

母を通じて酒飲み送迎を拒否した。
『今まで誰に大きくしてもらったと思っているんや』『舐めやがって』『1人で大きくなったと思うな!殴ってやろうか』まぁ、今でもあるこんな暴言は、何度も何十年と浴びせられている。母に対しても人間とは思えない、人権無視の言葉を平気で吐き散らす。

お酒を飲む人の送迎は、基本、大嫌いです。
普段、お世話になっている方なら、行けます!

救急車を呼べや!

父が退職し、パートタイマーとなり、自由ができても、働かなくなってからも暴言は続く。もちろん今も…。

母が体調悪く、私が仕事で早く帰れない。
父に病院に連れて行って欲しい…と頼んでも病院に連れて行こうとはしません。

『何で行かなあかんねん』
『救急車呼んだらええやろ』
『タクシー呼べへんのか』
『何でお前みたいなクソ女の為に車出さなあかんのや』

泣きながら、仕事中のどれみに電話を掛けて来る母。電話の向こうから暴言が聞こえて来る。
どれみは、動悸がするのです。
こうも人として、無くてはならないものが全て欠落している人を親として認識しないといけない境遇に…。

頼れるのは、車に乗れる
私しかいない


母の病院送迎は、いつも仲良くとはいかない。もう何十年と母は、病院以外、外出しない。今は特に骨粗鬆症による胸椎圧迫骨折により、1年経過するも痛みは継続し、さらに引きこもり。
母は、入金や通帳記入、ちょっとした買い物など、私の待ち時間にたくさん頼むことがある。
1年前は、私の9日ある休みの半分が病院送迎となり、ストレスで母に八つ当たりした。
母も痛みで辛かったが、どれみも仕事で大変で心のよりどころがなかった。何度、車の中で泣いたか…。

4年前は、祖父の内科、眼科、泌尿器科もプラスされていた。
送迎してから受診している間の待ち時間、色々と用事を頼まれる事や用事が済んでもまだ薬待ちなどで果てしなく待つことが長い。待たしている事を忘れている節が母から感じることがある。ものすごく腹が立つのです。

それでも母は、娘とケンカしてもいい。夫の車には乗りたくない。
乗れば、精神的に具合が悪くなる。良くなるものも良くならない。
どれみ家で送迎できる人は、私しかいないと強く思っている。

まだまだ続く送迎 


母の送迎は、私しかできない。
デイサービス勤務で仕事でもご利用者を送迎している。
車は、便利で社会とのつながりである。田舎は、必要不可欠の車は、人生において大事度が高い!年齢的に考えても、まだ大丈夫だと思っているが、いつまでも送迎できるか分からない。車に乗れなくなったら…どうするどれみ…。
今や父親は、『2階の人』と呼ばれている。今年74歳。いつまでも車に乗れない。他人に迷惑かける事だけはしないでもらいたい。
ちゃんとタクシーが呼べ、お金が払えるように精進してもらいたい。
子どもは、居ないと思ってもらえると…正直ありがたいです。

明日も安全に楽しく送迎業務をします。
母、病院送迎は、ケンカなく穏やかに行うよう心掛けます。
自転車の後ろに乗せてくれた事は、覚えているから…。

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