8月15日に
久しぶりのnote。さて、うまく書けるかしら。でも、まあいいか。今回は自分のための備忘録の様なものだから。
ゲストハウスを始めて、リノベーション視点からの建物や場所、お店の歴史とか、インターン生に「私」と言う出来損ないの仕上がり工程をお伝えするために、生い立ち的な話をしたりすることが増えてきた。
そんな中「由布子さんは会社の代表として何代目ですか?」とか、白河に縁が出来た時も「あ、そのお菓子屋さん確か親戚、、、」みたいなことが出て来たりするのだが、いかんせん全部うる覚えだったりする。両親からも、その時々に断片的に聞いたりはしたものの、「ちゃんと」聞いた事ってなかったのだ。
初めての忙しすぎるゲストハウス三年目のお盆の合間、父も施設から帰宅すると言う連絡を受けて、実家に顔を出した。(実はゲストハウスの開業準備と父の入退院から施設へ、が重なって、あの頃「もうどうなっちゃうんだ!!」って感じになってたのだけど、その話はまた別の機会に、にはならない、多分)
認知症が進んだとは言え、過去のことは昨日のことよりしっかり覚えているっぽい父。ちゃんとデイサービスとか受けてるからか、家にいて入退院を繰り返していたころより、かなり健康的な顔色になっていた。口数が減ったと聞いていたが、体調も良さそうだから、色々聞いてみることにした。母も一緒なので、そんなに違った話にはなるまい。だから、事実と違うことも多々あると思う。
私が4代目を務めている「株式会社やまと」は初代(会ったことはないひいおじいちゃん)が奈良からいわきにやってきて、最初は湯本の街なかで「ふでや」という店を開けたらしい。最初は店名通り筆を売っていたそうだ。その後平の二町目あたりに移動して、百貨店的な感じになり、戦後空襲からの区画整理で今の場所に移ったそうだ。多分そのあたりから「婦人・子供服のヤマト」(木造)になり、「ファッションパークYAMATO」(鉄筋コンクリート造)になり(この辺りから私はこの世にいる。子供の頃は1階で祖母が呉服、2階で母が洋服を売っていたと記憶している)、祖父母が引退した後は、父が1階で舶来雑貨や高級子供服に手を出し、ことごとく失敗して、最後は母のアレンジメントフラワーの店となった。2階は変わらず婦人服の店だった。
そう父方の先祖は奈良からいわきに来たストレンジャーで、祖母は白河の方だったらしい。そのつながりで、戦争中幼かった父は祖父母に連れられて白河に疎開していたそうだ。私も幼少期、白河の南湖公園の団子や大黒屋のお菓子のお土産をよく貰っていたり、白河から近い甲子高原の山荘に喘息の療養で連れていかれたりしていた記憶があることも納得だ。
父方からみた私のルーツは「奈良×白河」。
祖父母は行かせようとしたらしいのだが、父は商売を継ぐのだから不要だと、頑として大学には行かなかった。(大人になってから後悔したらしく、私には「大学だけは行っておけ」としきりに言っていた)栃木に丁稚奉公に行かされた。その丁稚奉公先での「チンピラと喧嘩したらヤクザの組長さんの前に連れて行かれて、結果気に入られて可愛がられた」的な武勇伝は山のようにある。
いわきに戻ってからも、女たちが仕事をしている間にかなり遊んでいたようで、ボーリングをやっても、ビリヤードをやっても、木刀で殴りかかっても、全く歯が立たない父に(あ、釣りも敵わんかった)半ば諦めの高校時代の私であった。(挑むのもちょっと違うかも知れないけど、まあ、それはそれとして)そして、どこに行っても面が割れた。やまとは女が店に立つ商売だったから、父は「遊び」と「地域の活動」が自由に行えたのもある。
母は久之浜の漁師の娘で、とは言え私が産まれる前に漁師の祖父は無くなっていたので会ったことはないが、久之浜では有名な美男子だったそうだ。母は結婚式当日ウエディングドレスで入院している祖父に会いに行ったらしい。母は5人妹弟の長女で、男子は一人。伯父は祖父が亡くなった後、漁師を継ごうとしたが、とにかく船酔いが酷くて諦めたらしい。(その後伯父は寿司屋になっている)原発立地際、久之浜の漁師たちに結構なお金が配られたが母の家は漁師である祖父が亡くなってしまったため、一切お金が入らず祖母は子供を5人抱えて苦労したらしい。一番上の母もすぐに働き手となって祖母を支えた。母は結婚前、平の「サロン」というフレンチレストランで働いていて、子供のいないオーナーに可愛がられ、養女になってレストランを継いで欲しいと言われていたらしいが、釣り帰りの汚れたGパン姿で現れる父にかっさらわれてしまった。子供の頃、なぜこんな高級なお店に連れて行ってくれるのか疑問だったが、父なりのお詫びだったのかも知れない。幼少期の上質な「サロン」での体験は、今の私の大切なベースになっているのは間違いない。私が大好きな「コンソメ」の味は、未だにサロンが「NO.1」だ。そして母の作るおやつがクレープやフレンチトーストだったのは、サロン仕込だったのである。
長男が家を建てて引っ越すまで、祖母の家は久之浜のまさに海沿いにあって、小さな庭のブロック塀の先は砂浜だった(と記憶している)。ブロック塀の手前にはホウズキが植えて合った。トイレは隣の家と共同で、風呂も庭を挟んだ向かいの建物にあった。2階に布団を敷いて寝転がると、窓からは真っ黒な海しか見えなかった。夏休み泊まりに行くと、窓から入ってくるコガネムシにきゃあきゃあ言いながら、波音の中いつの間にか眠りについた。
じゃあ母方のルーツは久之浜のだね、と思っていたのだが実は違った。それを知ったのは、確か私が東京からUターンした後だった気がする。
母方の祖母は、実は東京の下町のいいところの出で、2歳の母を連れていわきに疎開してきた。東京大空襲の直前だったらしい。祖母の東京の実家や他の家族は焼き出され、隅田川にはたくさんの人が飛び込み、地獄の様な光景だったそうだ。祖母は晩年母と東京旅行をし、色々な話をしてくれたそうだ。
未亡人になった祖母はその後、母を連れて久之浜の漁師と再婚し、、、ここから前の話に続くのである。(母自身や母の兄弟姉妹も私と同じ頃に祖母から聞いたらしい。でも、何となく全員「あーなるほどねー」と思ったそうだ)
んん、と言うことは母方のルーツは「東京」。
つまり私のルーツは「奈良×白河×東京」。
「いわき」要素なし。・・・納得だ。少し淋しいけど、大人になってみんなが当然のように話すいわきの郷土料理とか、習慣とか、全然私の中には(私の記憶には)ないのだ。
それでも生まれも育ちもいわきの私。でもいわきにルーツのない私。子供の頃から、自分の場所じゃないような、ふわふわしている感覚は多分合ってたのだ。これからは時折、自分のルーツを両親にリサーチして行こう。もうそんなに時間はない。