1995.01.17
まだ外は真っ暗な早朝、強烈な揺れで目が覚めた。
僕が住んでいた地域では、数ヶ月前から群発地震があったので、最初はその大きいものがきたのかと思っていたが、揺れは激しさを増し、棚の上に会ったものが床に散乱し、賞状立てが落ちてガラスの割れる音がした。
数十秒の後、揺れが収まった。両親、姉、僕とそれぞれが別の部屋で寝ていたので声でお互いの状況を確認した。当時、布団の中で懐中電灯をつけてこっそり漫画を読んだりゲームをしたりしていたので、偶然枕元に懐中電灯を持っていたので、それで両親の寝室の入り口照らし、父に懐中電灯を渡した。
父は家族に動かないよう指示し、家の中を一通り見て回り、再び戻ってきた。停電しているため、キャンプで使っていたラジカセを持ってきてラジオをつける。
群発地震は僕の住んでいた地方だけで局地的に起きていたので、ラジオで神戸や淡路島の近くを震源としていることや、ここはまだ被害が少ない方であるということを知った。
しばらくして停電が復旧し、テレビに映し出された景色は、今も目に焼き付いている。ビルが横倒しになり、高速道路の橋脚は倒れ、街の至るところから黒煙の上がる、ニュースでも繰り返し流れた映像だ。
電話回線もパンクしていたため、今どういう状況なのかよくのみこめず、途中途中で壁が倒れたり、家屋の一部が壊れたりしているのを横目に見ながら僕は姉と小学校に向かった。
小学校は校舎に大きなひびが入り、教室の重いブラウン管のテレビは床に転がっていた。1人、また1人とクラスメイトが登校し、無事を確認しあい、ただやはり授業どころではなく、程なくして全員に帰宅の連絡が出された。
家に帰ってからは、両親から神戸や淡路島に住む親戚の状況や、家の周囲のことを聞き、テレビが繰り返し流す発生直後や現在の被災地の様子をかじりつくように見ていた。
水道は数日後に利用できるようになったが、ガスは相変わらず使えないため、しばらくはそのまま食べられるもの、電子レンジ調理したもの、缶詰などを食べて過ごした。給食も同様だった。車で親戚の家まで行って、お風呂に入らせてもらうこともあった。
日に日に増える犠牲者の数、反比例して減っていく救出される生存者の数は、身近な人が亡くならなかった小学生の僕には、実感の湧くものではなかった。瓦礫になった神戸の街も、直接この目に見ることはなく、ある程度復旧してから見ただけだ。
しばらくしても、電車の車窓から見える家々の屋根にはブルーシートがかけられていて、大きな建物や家が壊れた箇所は少しずつ元通りになっていった。そうして数と大きさが減っていく余震と同じように、僕の中で阪神淡路大震災は過去になっていった。
16年後に、今度は東京で3.11の地震があった。東京の被害なんてものはせいぜい物が壊れるとか、家に帰れないとか、スーパーに物がない程度のことだったが、この時にようやく僕は阪神淡路大震災を本当の意味で知らなかったのだと気付かされた。
食料をどうやって確保していたのか、子供に見聞きされたくない情報を遮断していたのか、物損やそれに関しての金銭的負担、たくさんの現実、たくさんの本当のこと。
会社の後輩や友人には1995年以降に生まれ、震災や、その前後の凄惨な事件についても、よく知らないと話す人も多くなってきた。四半世紀というのはそれだけの年月なんだと思う。
僕自身も、きっと自分の子供に多くを語ることはないと思う。
ただ、あの日、あの時、何があったのか、たとえ世間知らずの小学生の小さな頭だったとしても、自分自身が見聞きしたことは生涯忘れることはないだろう。
1995年1月17日、日常を奪い去る地震が起きた。