でもそれでいい

でもそれでいい、僕は弱い立場であり続けたい

*2016年12月16日に書いた記事のリライトです。

ぼくの住む岡山県西粟倉村から、車で30分も走ればたどり着く兵庫県佐用町平福。その山中で狩猟中の誤射事件が発生、僕と同い年の26歳の若手猟師が死亡したらしい。つい先日、2016年12月11日の出来事だ。

正直、立場上は控えるべき発言だと思うのだけど、若造の戯言だと心をひろくもって聞き流…さずに、しっかり聞いて、怒るならば怒りの感情でもって僕の声を受け取って欲しい。

鉄砲。
僕は、生き物を殺めるためだけに特化した道具は持ちたくない。
強いチカラへの憧れはあるかもしれない。だがそのチカラは人の手にはありあまるものだ。
正しく制御できる「かも」しれない。けれども、事実として毎年のように人が亡くなっている。残念な事故だった、で済ませていいのか。人の死はそんなにも軽いものか。嫌だ。僕は死にたくない。
自分の子供、孫、大切なひとが。自分の大好きな山で自然の中で、突然の誤射に倒れたらどうだろうか。その危険性を孕んだ文化を今も自分たちで継承してしまっている。
危険だという可能性があるならば、それをできるだけ低くするよう努めるべきではないのか。

こんなにも銃がなければ身を守れないほど野生動物に脅かされているのか。
鹿も、猪も、ツキノワグマだって、罠と檻で捕獲できるじゃないか。
止め刺しには発射式のスタンガンを使えばいい。銃でなければできないことがありますか。
鉄砲という暴力の象徴のようなものにまだ頼るのですか。なんのために技術は進歩したのですか。

猟師だというと「鉄砲は?」と必ず聞かれる。うんざりする。そのイメージが人を殺している。
僕は鉄砲が好きじゃない。僕は生命を殺めるためにうまれた道具は持ちたくない。
僕も日々、ナイフで獣の生命を奪って、その肉を売って生きている。
生命を殺めるという罪では同じだろう。許してくれとは思っていない。その罪は背負って生きていく。第一、誰に許しを乞うのか。僕が生命を奪った獣たちはもういない。

話を戻そう。今日の本題は、銃の持つ人間の生命を脅かす危険性についてだ。

えっと、、、話を戻してすぐで悪いけれども、もうひとつ違う話をしたい。大丈夫。最後に本題につながるから。

僕は「ありがとう」と「ごめんなさい」をどれだけ気軽に素直に言えるかが大事だと思っていて、もし人を雇ったり、子を持つことになれば、これだけは徹底したい。
人は、人を頼ったり人に迷惑を掛けたりして生きていくものだから。
強くなくたっていいじゃないか。弱くたっていいじゃないか。
個として強くはなくとも、知性と理性をもった人間としての戦い方があるはずだ。

そういう意味で「シンゴジラ」は僕の理想とするヒロイズムを表現してくれてたな。
あまりにも巨大すぎる「ゴジラ」というチカラに対抗するのは、人類が産み出した最も暴力的な兵器「核」ではなく、個々では弱い人間たちが人間社会が培ってきた「組織と知識」。
いま思えば、劇中にもすごくカッコイイ「ありがとう」と「すまない」がちりばめられていた気がする。

再度、話を戻す。
僕は趣味で鉄砲をもつことまで否定するつもりはないですし、もちろん同じように、鉄砲を使用した狩猟文化も否定はしません。場所を選ぶのであれば。
趣味で銃を持っている方。射撃場へどうぞ。山は射撃場じゃない。
鉄砲を使用した狩猟の際には、外国のように山を完全に仕切って区画内のみ発砲が許される狩猟レジャー施設なども良いかもしれません。
僕が訴えたいのは、人間を殺める可能性のある山で鉄砲を使用することの危険性についてです。

鉄砲という暴力的なチカラを手にせずとも、獣たちに対抗する、人間社会としての戦い方があるはずです。
たとえ多少コストが掛かろうとも、鉄砲という安易なチカラに頼ることなく、人間社会の組織と知識で獣たちに対抗できるはずです。

僕は個としてそんなに強くはなれないだろう。でもそれでいい。弱い立場であり続けたい。
たとえ個で負けていようが、人間として、やれることはあるはずだ。
ただやっぱり狩猟社会は鉄砲文化が根強くて、鉄砲猟師の方がその立場も強い。

…あれ、やっぱりちょっと怖くなってきたな。ごめんなさい、調子乗りました。
別に僕の意見を取り入れろとは言ってませんから。ただ聞いてくれたら嬉しいなって。
だから今回は、言論の自由ということで、先輩方の心の広さをみせていただきたく。
許してくださりますか?ありがとうございます!

ーーー

2019年10月24日 加筆;

この記事を更新してしばらくして、猟師の先輩にきつく叱られたのを覚えている。銃を持たないで猟をしているだけの立場で、銃を使う猟師たちから獣を買い取らせてもらっている立場で、よくこんなことが書けるな、と。
まぁ、ぼくと君は違うからね。いつか痛い目をみるまえに気づけるといいね。と言われたのを覚えてる。

たしかに、過ぎた発言であったのかもしれない。
山の深くまで入るときには、自衛のために銃が必要なこともあるだろうから、銃猟を否定していると思われるような書き方は良くなかった。
ただ、ぼくが一番に伝えたかったのはここだ。だから、もう一度言う。

鉄砲という暴力的なチカラを手にせずとも、獣たちに対抗する、人間社会としての戦い方があるはずです。
たとえ多少コストが掛かろうとも、鉄砲という安易なチカラに頼ることなく、人間社会の組織と知識で獣たちに対抗できるはずです。

今はもう狩猟から少し距離をおいた立場になるが、再度言わせてもらう。
鉄砲は危険だ、人間の手に余るほどの力を持っている。その使い方や使い手はもっと精査しなければいけない。これだけ科学技術の発展した今ならば、鉄砲という力に頼らずとも獣たちに対して打つ手はあるはずだ。だから、獣害対策や狩猟社会が、その方向にシフトしていけば良いなと、今でも思ってる。
今まで銃を使ってきた先輩方や、銃猟そのものを否定したいわけじゃない。
でも毎年、人が山で誤射されて死んでるんだ。銃に頼らない、別の手法を模索するのも必要なことじゃないんだろうか。

じゃあお前がやってみろ。やりもしない、逃げたくせにと言われるかもな。
でも、実際の行動はなくとも、声を上げて問いを投げ掛けるだけでも、価値はあると思っているから。
外野の意見でしかないけれど、そういう声もあるんだなとか思ってもらえると嬉しいな。

i hope our life is worth living.

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Keiji Matsubara "Restaurant Izanami Tokyo" Chef
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