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業績主義

つい先日、Xで研究業績についての話題があった。要約すると、「大学教員の公募に応募する際、どの程度の業績が必要か?また、それを見越して〇歳までにどのくらいの業績を積むべきか」という点が議論されていた。この議論の論点は多岐にわたっていて簡単にまとめることは難しいのだが、良い機会なので業績主義について考えてみた。なお、私は国際政治学者なので、以下に書く例は国際政治学か広げても政治学業界くらいの範囲、その程度の感覚で書いている。


1. 業績主義とは?

 議論の目的の為、まず業績主義を定義しておく。ひとまずここでは、業績のカウント方法には諸説あることを前提としたうえで、「研究成果を業績として発表することを研究活動の目的として価値づける考え方」と定義しておく。
 あとアカデミア業界にいる人ならば、これはほぼ自明なのだが、「大学院生」「研究者」「大学教員」でそれぞれの属性ごとの「優秀さ」の定義が(重なる部分もあるが)少しずつずれている。これはそれぞれの属性の目的が異なっているからということでほぼ説明可能である。「大学院生」の目的は学位論文(修士論文・博士論文)を執筆すること(及び関連の論文を出版すること)である。「研究者」の目的は研究して研究成果を出版すること、さらにここに研究費獲得が加わるかもしれない。研究室や共同研究のマネジメントを加えても良いかもしれない。これが「大学教員」になるとハードルはさらに上がる。研究だけでなく教育や学内業務、国際交流や社会連携も加わる。
 言い換えれば、単純な業績主義との相性は大学院生がもっとも高く、研究者がそれ以外の要素もあるが業績主義は依然として重要であると言える。これが大学教員になると業績が大いに越したことはないが、それがあるだけで大学教員として優秀という評価にはなかなかならないといったところだろうか。

2.業績は必要だが、それだけでは不十分

 まず、業績を蓄積する目的を「大学教員になること」とするならば、この議論の結論はある程度自明なように思う。業績は必要だが、それだけでは不十分というものである。大学教員になるならば、教歴も必要、資金獲得歴も必要、公募によっては科目適合性も必要ということで、この意味で業績主義は明らかに不十分である。

業績主義を否定し、『就職はマッチングで決まる』という考え方は、一見合理的に見える。しかし、これを全面的に受け入れることにはいくつかの問題がある。

第一に、この考え方は、業績を積み上げる努力の意義を否定するリスクを伴う。個人の判断としては合理的でも、業界全体の構造として適切とは限らない。たしかに、採用において業績以外の要素、例えば研究分野の適合性、教育能力、組織内での役割の期待などが重要な要素になることは事実である。しかし、それらの条件が揃ったとしても、業績が一定の基準に達していなければ選考の土俵にすら立てない。なので、practicalに考えるとこのマッチング・ゲームだけではバランスに欠けるということになる。

第二に、「マッチング」という言葉が内包する不透明性は、学問の場において公平性を損なう可能性がある。例えば、ローカルなネットワークや個人的なつながりが過度に影響を及ぼすような状況では、学問の質よりも人間関係が優先される危険性がある。既存のネットワークや個人的なつながりの形成において、若手研究者はアクセス面で不利になる。この状況は、特に若手にとって大きな障壁となりうる。

したがって、業績とマッチングはどちらか一方が優先されるべきではなく、むしろ両者のバランスが重要である。業績は研究者としての能力を示す客観的な指標であり、マッチングは採用側のニーズを満たすための主観的な判断である。ただし、これだけでは業績主義の本質を捉えたとは言えない。業績主義には、研究者の能力評価だけでなく、学問全体の発展を支えるという固有の意味があるのではないか。以下では、この点を深掘りしたい。

3.業績主義が学問を支えている!?

伝統的には(いや、最近はそうではない場合もあるし分野依存なのでこのようにまとめることは難しいのかもしれないが…)学会が業績主義をコントロールする団体として存在してきた。もう少し具体的に言うと、学会はトップジャーナルの査読プロセスを通じて研究の質を保証し、学会賞を通じて優れた研究を顕彰してきた。このように、学会は研究の基準を形成し、業績主義の枠組みを支えている。言い換えれば、当該分野において、どのような研究が求められており、どのような研究が評価されうるのかという一定の基準を形成することにおいて学会の役割はきわめて大きいと言わざるを得ない。

最近の傾向で言うと、商業ジャーナルの勃興と学際学会の増加で所謂ディシプリン型の伝統学会の影響力は相対的に下がってきてるように思うが、その議論はここでは置いておく。

その上で、学会のあり方とアカデミックなジョブ・リクルーティングはどのような関係にあるのか?「学会内で評価されること」と「アカデミックな職を得ること」は組織の設置目的からして両立すべきであろう。学会内で評価されているような優秀な研究者に身分保障を与えて、継続的な研究を支えるのがアカデミックな研究機関の目的の一つだからである(それは継続的に研究成果を生産しつづけることにもつながる)。例えばトップジャーナルに研究成果を発表し続けているような研究者がいつまでも研究機関に就職できなかったり、就職できても低い職位や任期付きポジションのままであったら制度の公平性や合理性が疑われることにもなりかねない。したがって、「学会内評価」と「アカデミックな職」はある程度は両立すべきである。

しかし、実際にはそれらが両立していない現状がある。 これは前述のように研究機関ごとに人材ニーズが異なるので、100%両立させることは難しいという事情による。これを両立させようとする運動が業績主義で、両立しない別々でいいんだということになるとマッチングゲーム(それはローカルな権力勾配、もう少し柔らかく言うとネットワーク権力を認めることと同義)になる。

と考えると、若手が業績主義になるのは当然で(マッチング・ゲームはコントロールできないわけだし)、そのことは中長期的な学会のナラティブ形成という意味では正しいという気もする。ただ、「正しいが実態とは違う」くらいの理解。

端的に言うと、「自分は〇〇大学だから業績沢山あっても仕方ない」とか「専門がどうせ△△だから論文沢山あっても意味がない」とか「□□先生の系列じゃないからうんたらかんたら」とか皆が考え始めたら、その分野の発展は終わってしまうのではないかと思うのである。

4.業績主義は悪か?

つまり、なにが言いたいかというと、業績主義を否定すると学会の存在意義が危うくなるのではないかということである。少なくとも業績の測り方(国際ジャーナル至上主義とか本数とか書籍カウントするか否かとか)について論争はあるけれども、基本的に業績主義を否定する人はいないし、それを否定してしまうと、研究者が集まって学会を形成し、互いに査読し合うという文化自体を(自己)否定することにもなりかねない、ということである。

10年から15年くらい前まで「論文は書けばいいってもんじゃない。粗製濫造するな」っていう規範ー文化と呼んでも良いかもしれないーがあった(分野によっては今でもあるかも)。この規範には、研究の質を高め、単なる量産を抑制しようとする意図があったことは理解できる。しかし、現代の学問環境では、この規範が妥当性を保つのは難しくなっている。国際的な評価基準が重視される現在、論文数を抑える規範は必ずしも研究の質向上に直結しない。

※実際に書かれた論文が粗製濫造にあたるかどうかを外形的に検証することは難しいので、ひとまずここでは「論文は書けばいいってもんじゃない」「多けりゃいいってもんじゃない」の規範としての妥当性を検証しよう(むしろ、粗製濫造を外形的に評価することは難しいので、論文数が多い=量産型で質が悪い、論文数が少ない=質の良い論文という単純化されたフレーミングが(かつては)あったように思う)。

1)業績主義を悪とする規範の問題点

  1. 質評価の曖昧さ
    「業績主義を悪とする」規範は端的に「質を評価する」ということになる。しかし、何をもって「質が高い」とするかは、分野や個人の価値観によって異なるため、質を重視する文化が具体的な基準を欠いたままだと、曖昧な主観に依存することになる。

  2. 漸進的成果の否定
    質の高い研究だけ評価するということになると、大きなブレークスルーや画期的な研究成果だけを評価するということにもなりかねない。しかし、科学や学問の発展は多くの場合、漸進的な成果の積み重ねによって支えられている。小さな貢献の蓄積が長期的には重要であるにもかかわらず、この文化ではそれが軽視される。

  3. 若手研究者にとってのアクセシビリティ
    端的に「質」を重視せよという規範が強化されていくと、若手研究者やキャリアの初期段階にいる研究者にとって、それは極端に高いハードルとして機能する。経験やリソースが限られている若手にとっては、早い段階で結果を求められることで、かえってそれが過度のプレッシャーとなり、論文執筆そのものを断念・躊躇させてしまうようなリスクがある。

2)悪しき講座制の影響

業績主義を批判する文化には、講座制の影響が色濃く残っている側面もある。講座制では、教授が研究室の方向性を決定し、学生や若手研究者はその指導のもとで論文を執筆する構造が基本であった。これにより、教授が『質の担保者』としての役割を担い、研究の方向性や評価基準が特定の個人に集中するという構造的問題が生じていた。

結局、質の評価というのは評価者に依存するのである。したがって。質を担保する者に権限や影響力が集中する。講座制は事実上形骸化しているが質の評価は継続します、これは何が起こるか?質の評価について発言力・影響力を持った一部の教授に「質をオーソライズする評価権力」が集中することになる。結果として、研究テーマの柔軟性や個人の独自性が抑制されることになる。

これはとても大事なことなので強調しておきたい。理系の大規模学部はわからないが、少なくとも文系学部(教授・准教授合わせて50人程度)であれば、准教授は独立した研究者(PI)であり、教授・准教授はPIという意味では対等ということになる。いはく、「文系では講座制はもう存在しない、形骸化している」という言説がよく聞かれることになる。

個人的にはこれが100%誤りであるとは思わないものの、あまり妥当性が高いとも思わないというのが実際のところである。結局質的評価をする限り、「質をオーソライズする評価権力」を持った一部の教授に影響力が集中することは避けられず、そうした評価権力者たちが良いと認める研究をしないかぎりは研究者としては評価されないことになる。つまる、「見えない講座制」は依然として残っており、それを支えている組織ロジックが「業績主義」の否定なのである。

論調がやや不穏になってきたが…もう少し客観的な話を。現代のアカデミアでは、国際的な論文やImpact Factor、H-Indexを評価する傾向が強まっている。そうであるとするならば、グローバルな業績評価はある程度は(個々人の主観評価を排したうえで)機械的に可能ということになる。「講座制」「見えない講座制」の価値観はこうしたグローバルなトレンドに逆行している。つまり、「業績主義批判≒粗製濫造するな」という文化は、講座制が支えてきたローカルな評価基準に基づいており、グローバルな評価基準とのズレを生んでいるのである。

おわりに

若手が業績主義になるのは当然である。ローカル権力やネットワーク権力にアクセス手段を持たないのだから、客観的で明示的な基準を求めて戦う、構造上そうなるのである(逆に業績主義にならない理由があるとしたら、その分野の博士号取得者数と新任教員の公募の数が同一になるとか、ありえない条件が一致した場合のみであろう)。そして、そうした業績主義は学会の存在意義とも親和的である。学会は構成員が研究成果を発表する場なのだから、業績主義を否定するわけにはいかない(学会が一部の天才のものでなく、多くの多様な研究者に研究発表の自由を保障する場である以上はそうである)。

ただ、そのことは必ずしも採用・人事的な成功を意味するわけではない。人事はマッチングの要素も多分にあるからである。結論として、業績主義は研究者の能力評価や学問の発展において不可欠な要素であるため、肯定されるべきだ。しかし、採用やキャリア形成においては、業績だけでなく、教育能力や組織適応性など他の要素も考慮されるべきであり、これらを統合的に評価する仕組みが必要である。

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