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【2023.07.04火】痛みを痛みとして認める。これは痛んでいる本人にとって、とても難しい場合がある。
●朝ごはん:シリアル、バナナ蜂蜜ヨーグルト、コーヒー
●昼ごはん:きつねうどん
●夜ご飯:白米、湯豆腐with椎茸と長ネギ、豚しゃぶの梅しそ和え、じゃがいもと玉ねぎのカレー炒め、玉ねぎの南蛮漬け、カブの浅漬け、きゅうりの塩昆布和え
今日は原稿編集の時間をかなり確保できたのだけど、進捗を測るとページ数としてはあまり進んでいない……焦る。
翻訳書なので、訳者さんの文章だけでなく、原書の文章も確認する必要がある。できるだけ丁寧にやりたいけれど、もう少し効率を考えねば。
あるきっかけがあって、この本のことを思い出していた。
大好きな天童荒太さんの小説。
「包帯クラブ」とは、町の人々の「痛み」を見聞きしながら、その痛みが生まれた場所や象徴となる物に、文字通り包帯を巻いていく、という活動。
目に見えるかたちで包帯を巻かれることによって、「これは痛んでもいいものなんだ」という自覚が芽生える。そしてその自覚は、ときにその人に癒やしをもたらしていく。
痛みを痛みとして認める。これは痛んでいる本人にとって、とても難しい場合がある。
「これくらいで痛いなんて弱い者が言うことだ」という恥の意識。
「もっと痛んでいる人もいるのだから」という遠慮の気持ち。
痛みと向き合うことで苦しみを思い出してしまう恐れの感情。
さまざまな気持ちによって、痛みへの認識は阻害されていく。
だからこそ、他者がその痛みを聞き取り、目に見える包帯を巻いてあげることには意味があると思う。ときには「勝手なことをするな」「わかったようなことを言うな」という反発も招くだろうけれど。
これはフィクションによる象徴的な物語に過ぎない。感情的な痛みに包帯を巻くという行為は、現実の世界ではなかなかできない。
そんななかでも痛みを認識する方法のひとつが、「名付ける」ということだと思う。そのもっともわかりやすいかたちが、医療によって診断してもらうということ。
これは僕自身の経験でもあるけれど、病名がつくことで、ようやく痛みとして認め、休む許可が降りたような気持ちになったことがある。
けれど病名とは、その人が持つ固有の痛みを、一つのカテゴリーに分類して押し込めてしまうようなものでもある。この状態だけが続くことでもまた、弊害が生まれる。
・・・
遅い時間になってきたので、そのことについてはまた改めて書きたい。
まずは名付け、やがて名を捨て、そして自身の声で語る。
そんな流れについて。