【2020.04.14】いろいろなことをコントロールできるようになるのは成長の証。けれど、コントロールできないものを手放せるようになることも成熟の証。
昨日は体調が最悪だった(コロナ系ではない)けれど、今日はだいぶ持ち返した。とはいえ、心身があまり良くない状態になっている感じがする。こんなときは、調子を取り戻すことにまず集中する。
●予兆に気付けたことをまず良しとする
●リラックス系のルーティンを徹底する(朝のラジオ体操/ストレッチ/瞑想/日光浴びる/朝食/湯舟......etc)
●マルチタスクをやめ「ひとつずつ」確実に進める
●「できたこと」に目を向けて「進捗」を感じるようにする
●反芻やネガティブ思考が始まっても、善し悪しを判断せず、ただ見守って流す
●「最終的には大丈夫」であることを思い出す
睡眠系の心がけも大事。けれど、不調のときは大抵睡眠がうまくいかない。なので、「心がけているのにうまくいかない!」というストレスを抱えないように、「ダメだったらダメだったで仕方ない」とある程度諦めるようにしている。
変えられないものを受け入れる平静さと
変えられるものを変える勇気と
変えられるものと変えられないものを識別する知恵を与えたまえ
だったっけ。二ーバーの祈り。
いろいろなことをコントロールできるようになるのは成長の証。
けれど、コントロールできないものを手放せるようになることも成熟の証。
この「諦念」とも言える達観を見事に表している作品がある。
マルグリット・ユルスナールが、中断期も含めて30年近くを費やして書き上げた大作。ローマ五賢帝のひとり、病床に伏す晩年のハドリアヌス帝が、後の皇帝マルクス・アウレリウスに向けて綴った書簡......という形で綴られている作品なのだけれど、これがひとりの作家が想像して書いているとはとても思えないほど秀逸。ハドリアヌス帝本人が書いているとしか思えず、もはや憑依。
一行いちぎょう丁寧に読み入ってしまう味わい深さが大きな魅力であるなか、序盤のある部分があまりにも好きで、ここだけを何度も何度も読み返している。施される医療に対しての哀愁漂う諦めの言葉が綴られた後に、この言葉が続く。
思いちがいをしないでほしいが、希望的想像と同じくらいおろかしく、それよりもたしかにずっと苦しい恐怖の幻想に身をゆだねるほど、わたしはまだ弱っていない。仮にわたしが自分を欺かねばならぬとしたら、信頼の側に身をおくほうがましであろう。そのほうが恐怖の側に身をおく以上に失うことはなく、苦しみはより少ないというものだ。死は間近いが、しかし必ずしもすぐというわけではない。わたしはまだ毎夜、朝を迎える望みをいだいて寝に就く。いましがた話したあの越えがたい限界の内側で、わたしは一歩一歩陣地を守り、何寸かの失地を回復することさえできる。
──同書、p.10
もはや生き永らえようとは望まないながらも、それでも「どうせ自分を欺くなら、希望の側に騙されたほうがマシだ」と冷静に捉える。諦めと希望は同居することができ、それは死の間際にあって「失地の回復」すらも可能にする。
(たぶん実際に本を読んでもらわないと伝わり切らないけれど)このハドリアヌスの姿勢・諦観は、自分が落ち目にあるときにとても理想的に映る。「賢帝」という呼び名が本当に似合う。本当に素晴らしい作品。
好きな本の話をしていると、やっぱり元気になるな。ということは、好きな本は増える一方になるのだから、元気になる機会も増える一方じゃないか!
こちらのマガジンで、そんなふうに豊かにしてくれると自信を持って言える本を少しずつ紹介していっている。
もちろん「合う」「合わない」は出てきてしまうと思うので、できるかぎり「こんな状況の人には良い」というところまで踏み込んで書ければと思っている。
大事なのは、GoodよりもFitだからね。