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時間の年寄り

「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も
野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかった
からである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て
土の面をすべて潤した。」と聖書の創世記2章4~6にあります。
作家の吉田健一は月のようすを文学者の眼で
「今日では 月が岩の塊であるというのは地質学の立場から
見てのことで それが天文物理学、あるいは電気磁気学
あるいは光学その他 何だろうと科学の別の部門では
それぞれ違ったものになり、いわゆる、月というものが
科学の世界にはないことが解っている。
 しかし例えば 隕石の正体が実証されて月が岩の塊である
ことがはじめて明らかにされれば月は 岩の塊であることになり
科学の実証ということがものを言って  しばらくは月見も
出来ないことも起こる」と1969年 月面着陸がニュースになった時代
に書いている。
 明治の人は合理的なものの考え方をする。
19世紀半ばの英国の詩人エリオットは、彼が月は岩の塊だとか、あるいは
博愛主義と擬いものの仏教の混ぜこぜだとかに惑わされるのを第一に彼の
教養が許さなかったと言っている。「エーテル医学への招待」で崎谷博征氏は音を伝える空気、波を伝える水、光を伝えるエーテル 自然現象を記述しています。音は音源が出すものではなく音源が出すエネルギーによって空気の圧縮と希薄化が起こる”現象”なのです。音という実体が存在するわけではありません。海の波も、波という実体が存在するわけではありません。水のかく乱の付帯現象として波という形が見えるに過ぎないという。光も同じく媒質のエーテルのかく乱によっておこる付帯現象であると提唱したのは、17世紀のロバート・フックとその後継者ホイヘンスでした。
彼らは媒質を「発光するエーテル」と呼びました。
 また「場」はエーテルのねじれの作用で生じるもので、場自体がエーテルで構成されています。場には、物質や物理的実体がありません。従来の物理学が提唱するように、空間の中に場があるのではなく、場の中に空間ができるのです。創世記1章1 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」こうして、光があった。聖書の記述の仕方は 空間の中に場を創ったというより、やはり場の中に空間ができるという感じです。アリストテレスによれば、エーテル(連続体)は点に分割されえず、また点からも
構成されないものと考えていました。テスラ、マクスウエル、トムソンたちも、エーテルの概念を用いて重力や電磁波を説明しています。崎谷氏の著作では、生命体を貫く宇宙の真理として、エーテル統一理論あるいはエーテル医学を説明しています。宇宙と私たちの体が相似形であること。これは、聖書の言葉「神はご自身にかたどって人を創造された」からきています。古の叡智から現代医学を振り返る試みと言えるでしょう。




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