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長編小説「ザ・デイドリーム・オブ・ティーンネイジャーズ」②

(①までのあらすじ)
アメリカのミシガン州のエイドリアンに住むマイクは、友人のジャックが飼っているラダーが逃げたことを聞いて、ジャックの彼女のジェニーと三人で、町中を探すことになった。ラダーの行方を追っていくうちに、古い館に行き着く。なぜか開いていた館の扉から、三人は地下室へ。そこには、ラダーは、下肢が引きちぎられ、血まみれとなって、瀕死の状態。ラダーに駆け寄る三人の頭上には、壁から米海軍の兵士の上半身が壁から乗り出していた。奇々怪々の状況にパニック状態になる三人は、必死でラダーを救出して、病院に向かった。しかし、この出来事は、あまりにも惨い話から、三人は誰にも話せないでいた。



(二)

「では、今日の授業は、ここまでにしておこう。」

 理科室に移動して授業を行っているのに、全然、実験と言えるような実験をしていない。頬杖しながら、僕はあからさまなに退屈そうな態度を取っていた。チャイムが鳴り終わるまで、まだ少しだけ時間があったのは生徒みんなが気づいている。

「少しだけ、時間があるな。」

 皆が、早く授業が終わることを期待した瞬間に、先生は「少しだけ、科学に関係した話をすることにしようか。」と話す。ため息交じりの生徒――それでも先生は、気にしないで話し始めた。こんなにも嫌がっているのに、何で大人って厚かましい態度を取ることができるのかな。

「運命って、君たちは信じていたりするかな?」

 先生は、頬上をついている僕の目をじっと見つめている。そりゃそうだ、「運命」はあるに決まっている。頭のいい子は、頭のいい両親のもとに生まれているし、運動のできる子は大体は、親も運動ができる。世の中は、そんな予定調和の中で動いているもの。

「当たり前じゃない?僕らにはどうすることもできないことは、いつだって人生にはあるもんだよ。」

「悟ったような発言をするね、マイク。」

 僕は、また馬鹿にされたかのように感じて、眉間に皺を寄せた。

「ごめんよ。怒らせるつもりは、本当にないんだ。この世界に、絶対的な『運命』というものは、存在していない。これから、少しだけ難しい話をするね。実は、この世界を小さく、小さく、小さく分解していると、素粒子、つまり小さな粒でできているって考えられていたんだ。でも、最近は、この粒が波、水面の揺れる波のように、この世界で存在しているって言われていたりするんだよね。」

 生徒の顔が一気にポカーンとした。その様子を見て、先生は、大笑いした。

「君たちの年齢だと難しいか。少しだけ付き合ってくれよ、大事なことはここからだからね。その波でも、ボールのよう粒でも存在する素粒子は、水を凍らせたら氷になるように、僕ら、人間がその物体を認識した瞬間に、固まって粒になるらしいんだよ。」

 教室に流れる空気は、最悪になった。授業より、難しいことを余った時間に言うのか。まあ、あと二分もすればチャイムが鳴る。大半の生徒が、教室の前の時計を凝視している。

「まあ、何が言いたいかというとだね。頭が悪いとか、運動ができないとか、自分の人生がうまくいかないというのは、その人がそう認識した瞬間に、そうなっていくんだということ。ということで、君たちは、来週、テストを行うことになりました。君たちが、どんな人間になりたいのか、どんな結果が欲しいのか、それを心で決めて、しっかりと取り組むことが、目標達成のコツだってことかな。これは、科学的に実証されている。」

 「テスト」という単語が聞こえてきた瞬間、生徒たちの目の色が変わった。悲鳴のようなブーイングと同時に、「ブー」というチャイムが鳴った。したり顔で、先生は一番初めに教室を後にした。

「あれはないよな。来週テストだなんて。」

 そう言ってきたのは、脳筋野郎のルーカス。彼は、大の勉強嫌いで、成績もよくはない。彼の中で僕も同類だと思っているのか、「テスト」の話題になると、何かを確かめるかのように、僕のところに来る。

「でも、いつもの小テストだろ?適当にやり過ごすしかないよ。」

「そうだよな。今週末、アメフトの試合があって、ほとんど勉強できないしさ。これ以上、悪い点数取ると、両親に怒られるの、もう嫌なんだよな。」

「それは、僕も一緒だよ。カンニングという最終手段があるな。」

「カンニング?どうやってやるんだ?」

「いつも、百点の、あいつジョージがいるだろ?あいつに、頼んでさ、モール信号をノック音で伝えてもらうとか、良くないか?」

「でも、うるさいってバレそうじゃない?」

「大丈夫だよ。ジョージの席の近くに座れば、そんなに大きくノックしなくてもいいし。」

「でも、そもそもモールス信号を互いに覚えるくらいなら、ちゃんと勉強した方がよくね?」

「確かにね。なんか、うまくいかないな。」

 いつもこんな感じで、ルーカスとの会話はこんな感じで終わる。まあ、今の小学生の会話なんてこんなもんだし、夢も希望があるとは限らない。理科の先生が「どうなりたいかの意志が大事」とかいうけど、それぞれの人生は固いレールで方向性が決められてるんだ。隣のトレーラーハウスの、10歳上のニナも、学生時代はチアリーダーをやったり、この街のマドンナみたいだったのに、今となっては、毎日、マリファナでトリップしている。二十歳そこそこで、あとは「死」を待つだけの人生。あんな、生き方はしたくないと思っても、あがいても「何か」実態のないものに邪魔されて、僕らはみじめに生きていくんだ。なんてね、そんな暗い気持ちに苛まれる。こんな小学生は、あんまりいないんじゃないかな。

 そんなことを話し、思いながら、食堂に昼ご飯を食べに移動している人ごみにまみれて、大通りの廊下をルーカスと歩いていた。すると、前のほうから、ジャックとジェニーが二人で歩いてくる。そういえば、あの事件から、2週間が経っていた。何だか、気まずくて、ほとんどジャックとは会話ができていなかった。

「あっ、マイク。何だか久しぶりじゃない?」

 ジェニーは、いつも明るい。多分、僕とジャックの間に流れる少しだけギコチナイ空気感を掴んでいて、なんとかほぐそうとしている、そんな気遣いなのかな。

「久しぶり。ジェニー。あの後、調子はどう?大丈夫?」

「うん、私は、だいぶ落ち着いたよ。ラダーも、無事に義足が作られてね?」

 ジャックは、すました顔で頷いて、「もう元気に足りまわってるよ。本当に動物って生命力が強いよな。」と言った。まったく状況がつかめないルーカスは、何も聞かないでくれた。

「まあ、ラダーが脱走して、大けがしたんだよ。」

「ああ、そういうこと。お前らが、補導されたっていう話のことか。」

「補導って。まあ、そういうことになるのか。」

「俺があんなことをしたら、監督に大目玉だよ。」

 ジェニーは、「でも、ラダーの命が無事で、本当に良かったよね。」とフォローを、僕とルーカスの会話に挟んでくれた。そんな話を交わしながら、食堂に向かった。すでに、多くの生徒が各々に持ち合わせたランチを持ち寄って、にぎやかに過ごしている。僕ら4人も、食堂の隅のほうにあった空席を陣取って、食事を始めた。僕の昼ご飯は、決まって食パンに、ピーナッツバターを塗って、ジャムにチーズ、そしてバナナを挟んだサンドウィッチ。時々、サラダなんかもつけるときもあるけど、ここ最近は作るのがめんどくさくて、こんな食事がほとんど。ジャックはハンバーガーを頬張って、ルーカスはプロテインに、スパムと卵の炒めをかきこんでいた。ジェニーは、なんかフルーツを食べていたんじゃないかな。

でも、ジャックとジェニーと、そして、僕は、決して見てはいけない光景を目の当たりにしてしまった。急に出現した海軍の男の死体――まだ、あの場所には存在しているのだろうか。二人の顔を見ると、あの日の記憶が甦ってくる。

「お前ら、なんかあったのか?」と気まずい空気を読み取って、ルーカスが言葉を放った。

「だから、ジャックの犬が脱走しただけだよ。」

 僕は、悟られまいと冷静に返した。納得いっていないルーカスは、こう続けた。

「いや、それならいいんだけどさ。なんか、俺に隠し事していないか?だって、そもそも脱走したくらいで、ラダーの足二本無くなるってあり得るか?足二本だぞ。普通、無くなったら、大量の出血で死んじまうしさ。なんか、納得いかなくてよ。」

 しばらく沈黙が続いた。

「俺らって、友だちじゃななかったのかよ?俺だけ仲間外れか?ああ、呆れたわ。胸糞が悪いな。」

「そういうことじゃないなくてさ」

 ジャックは、ルーカスをなだめようとした。確かに、秘密の共有は友情の条件だ。

「ジャック、もういいよ。話すよ。でも、ルーカス、これは本当に起きたことなんだ。僕らを疑うことは、絶対にするなよ。」

「当たり前だよ。そんなことは、しない。」

「僕らは、先週の日曜、たまたまロイドストリートで出会ったんだ。僕は、自転車を走らせて、そこにいて。ジャックとジェニーは、脱走したラダーを探していてさ。」

「ロイドストリートって、ここから10キロ以上も離れているじゃないか。ジャックとジェニーは、そこまで歩いて行ったのかよ。」

「まあ、そうなるよね。無我夢中だったから。」と、ジャックは、ルーカスの問いかけに答えた。

「それで、ラダーが疾走したなんて、話を聞かされたら、心配になるじゃないか。だから、僕も一緒に探すことにして、そしたら、町はずれの古い屋敷あるだろ?時代はずれの、あの屋敷さ。」

 ルーカスは、眉間に皺を寄せて必死に記憶を辿ろうとしている。

「ごめん、マイク。分からないや。」

「じゃあ、いいよ。」と、僕は少しだけ声を荒げて、話をつづけた。

「ジャックが、その時言うにはさ、その屋敷にラダーが入っていったっていうんだよ。それで、僕ら3人で敷地に入ってみてさ。」

「わかった。で、そこで何が起きたんだよ。」

「それで、大きな音がして、鍵がかかっているはずの館に入ってみるとさ、玄関から地下室に続く階段に血痕が残っていたんだ。僕らは、咄嗟に『ラダーのだ』って思ってさ。階段を下ってみると、下の足が二本無くなって、倒れているラダーがいて。」

「何に、その足がやられたんだっていうんだよ。そんな、地下室、何かの下敷きになったとか?てか、そもそも犬が10キロ以上の屋敷に逃げ込んで、足が二本無くなってたって?そんなことあるのかよ」

「それに、その足の傷口がまるで、焼きちぎれたかのようでさ。いや、溶けているみたいな。」

「焼きちぎれた?溶けた?どっちだよ」

「もう覚えていないよ。本当に、パニックで、記憶もあいまいだし。それに、ラダーを介抱していたら、ジェニーの頭上に海軍の男性の死体が、壁に突き刺さっていて、血が彼女の額に滴ったんだ。」

「待て待て待て、テキトーなホラー小説とか、SF小説でも、マシな場面設定をするぞ。そんな、突飛な話あり得るはずがない。」

「だから、話す前に言っただろ。疑うなって、絶対。非現実的な話をしていることは分かっているんだ。」

 ジェニーが、口を開いた。

「ルーカス、これは、本当なのよ。私、今もあの血の匂いとか、今でも思い出すの。それで、たまに夜とかも、思い出して、寝れなくなったり。」

「もう、この話はやめにしないか。」と、ジェニーを気遣ったジャックは呼びかけた。

「これ以上、話を詮索することはしないけどさ。ちょっと、僕はあの屋敷にまだ死体があるのか、がぜん興味が出てくるけどね。なあ、マイク。お前が言っていることが本当なのは信じるけどさ、一回見に行ってみないか?」

「断ると思っているのか。行くに決まっているだろ。ルーカス、何が起きてもビビるなよ。」と、僕は威勢を張った。臆病者だと思われたくない。ジャックと、ジェニーは、もちろん、パス。僕とルーカスだけが、放課後、あの屋敷に足を運ぶことになった。まあ、僕にも好奇心がないわけではないから、いいんだけどさ。ルーカスのペースになってしまっているような気がしていて、少しだけ気に障るけど、それはそんな問題じゃない。

 話がまとまって、僕らは日常の会話に戻って、手つかずの昼食を再び食べ始めた。すると、食堂の真ん中で、椅子を蹴る大きな音が聞こえてきた。

「なあ、これ食えって。食えないのかよ。俺が食えって言ってるんだぞ。」

 「また始まった。」――僕は声の主に気づかれないように、ルーカス越しに慎重に目を向けた。やっぱり、この学校で、一番やんちゃなビッグ・ボブの仕業。学校で一番の頭脳を持っているジョナサンを囲んで、行き過ぎた嫌がらせをしている。毎日、毎日、毎日――彼のポジションに、僕が置かれていたら、絶対に発狂している。昨日は、カバンを踏まれて、その前に見たときには、教科書がバラバラに。そんなハンディを持っているのに、テストをさせると機械のように、満点ばかりを連発する。

「食えよ、お母さんが作ってくれた、不味いサンドイッチだろ。俺が、握りつぶしてやったからよ、これでおいしくなってるはずだぞ。」

 ジョナサンの顔が曇っていても、何も言葉が発されない。唇をかみ、今にも泣きだしそうな表情だが、それでもじっと耐えている。ビッグボブのほかにも、マイケル、マット、ジョンなど、学校の風紀を乱す輩が、ジョナサンを囲んでいて、誰かが太刀打ちできるような状況じゃない。

「なあ、こいつが今から、俺らが作った激うま、サンドイッチを食べまーす。ご注目!」

 そう大声で、マットが叫ぶと、ビッグボブが大きく振りかぶって、ジョナサンの目の前にあるサンドイッチを踏みつけた。「食べろ!食べろ!食べろ!」と、マイケルが無理やりにたきつけたコールが、食堂中に、いや、学校に響き渡ることになる。僕は、コールに乗ることはなかったが、でも、助けることはできなかった。だって、そんなことをしたら、この社会では生きていけなくなる。ジョナサンの視線が、こっちに向いた気がした。

「やめなさいよ!可哀そうじゃない。」

 そんな勇敢な声の主は、エマだった。この学校で一番の美人。彼女は、ジョナサンを囲んだ男たちを振りほどいて、彼女はボブをにらみつけていた。

「こんなことして、何になるのよ。ダサい。本当にダサい」

「うるさいな。邪魔するなよ。こんな陰気な奴を庇うなんて、もしかしてさ。」

「そんなんじゃない。楽しい昼時にこんな胸糞が悪い状況を見せられて、こっちは本当に迷惑しているの。」

「少し顔が美人だからって、偽善者ぶって、調子こいてるんじゃないぞ。」

 ビッグボブは、彼女のブロンドヘアーを掴んで、額を近づけた。

「これ以上、俺を怒らせるなよ。俺に歯向かったら、どうなるか思い知らせてやろうか。」

 僕はいてもたってもいられずに、席を立って、職員室に続く大廊下で「助けて!ビッグボブが、人を殺そうとしている!!」と叫んだ。やっと異変に気が付いた、先生が何人かが食堂に駆けつけてきた。異様な雰囲気に、「何しているんだ!ボブ!」との厳しい言葉がボブに投げつけられた。

「やべえ」

 ボブたちは、食堂の窓から外に逃げて、一端の平和は取り戻された。「俺の頭脳プレーが、ジョナサンを救った」と、陶酔感に浸っていた。自席に戻ってみると、ルーカスとジョージがにやけて、「大胆なことしたな。やっぱり愛の力か?」とルーカスが僕をからかった。

 そんな彼らのからかいを背に、したり顔で、ぐちゃぐちゃになったジョナサンのサンドイッチを片付けているエマのもとに歩いて行った。

「なによ?マイクも、ネイサン(ジョナサンの愛称)をからかいに来たの?それとも、何か恩でも着せに来たわけ?」

「そんな冷たいことを言わなくても。」

「意気地なし、いつも安全地帯からしか、助けてくれない。」

「でもさ、あの状況なら、あれが最善手だろ。結果、ジョナサンは無事だったし。」

 大きくため息をついたエマは、「もういい。」と冷たく僕をあしらった。それを見ていたジョナサンが、「でも、マイクのおかげで、助かったよ。」とフォローしてくれた。その言葉に少しだけ救われた気がしたけど、エマはすかさず「ネイサンも、少しはシャキッとしないから、あんなゴロツキに絡まれるのよ」と釘を刺した。そんな竹の割ったような性格のエマには、歯向かえない。僕も自然と、事の後始末を手伝うことになったが、昼ご飯を食べきれずに、午後の授業が始まる呼び鈴がなった。ああ、これじゃ、次の体育の時間の後は、腹ペコで、耐えきれないな……。「なあ、エマは昼ご飯食べたの?」と、次の授業に急ぐ彼女に問いかけたが、「くだらないこと聞かないで。食べれてないに決まってるじゃない!」と言った。


 授業が終わって、僕はルーカスを校門前で待っている。

「ああ、腹減ったー」

 そのことしか考えられない。脳筋教師のマックスが、あんなに筋トレさせやがって、そのおかげで僕は深刻なカロリー不足を引き起こしてしまっている。さっき食べ残した昼ご飯を口に頬張っても、焼け石に水で、何の解決にもならない。「早くしてくれよ。」と強く念じた瞬間、ジャージ姿のルーカスがやっと現れた。

「ごめん、ごめん。今日、練習が休みなはずなのに、監督につかまってしまってさ。」

「おかげで、30分も待たされた。これは、下手したら絶交ものだぞ。」

「絶交なんて大げさな。無事にこられたんだから、良いじゃないの。じゃあ、行くとしますか。」

 「お前がなんで仕切ってるんだよ。」と、先に自転車で走り出すルーカスを追って、僕は叫んだ。自転車のペダルを漕いでいくと、スピードがついてきて、僕らにまとわりつく空気の壁にゆっくりと飲まれていきそうだ。上体を起こすと、程よい抵抗が体全身に感じる。あいにく、今日の空は、晴れていて、ルーカスに気づかれないように少しだけ天を仰いだ。流れていく街並み。「僕らは、何からも自由なんだ!」と叫びたくなる。もっとペダルを踏み込んで、ルーカスを追い抜いた。

「おっ、やるな!」

 ルーカスと僕らは無我夢中に自転車を漕いだ。僕らは、すでに異様な雰囲気に包まれた街に入っていることには、気が付かなかった。


キッ、キッーー。

 ルーカスを追い越した僕は、あの館の前で急ブレーキをかけた。僕のおんぼろ自転車は、すぐに止まるはずもなく、道端に置かれていたトラッシュ・ボックスに突っ込む。あわててブレーキを握ったルーカスの自転車は、後輪が跳ね上がった。ルーカスも、結局、僕の上にまで飛んできたんだ。

「急に止まるなよ!」

「ここだったんだ。気づいたら、ブレーキをかけててさ。」

「痛いな、本当に。マイクは、もう少し、安全運転を身につけろよ。」

「そんなお前だって、自転車レースに乗ってきてたろ。お互い様だよ。」

 そんないつもの言い合いも、すぐに収まった。だって、僕らをじっと見ている少年がいたんだから。「あいつ誰だ?」と、ルーカスはつぶやく。僕は、「知らない」と答えた。それもそのはず、館の前に立っている少年の顔は陰で覆われているからだ。

「なあ、君は誰なんだい。」

 僕は、大きな声で話しかけてみた。でも、何も返答がない。ルーカスと顔を見合わせて、僕らは一歩、一歩と近づいていみる。不思議だ。距離が近くなっても、顔が見えてこない。

 僕の鼓動が、大きくなっていく。ドン、ドン、ドンと、何度も何度も、胸を打つ心臓の動きが手に取るように分かる。僕が、その少年の手を取ろうとした瞬間に、突風が吹いた。落ち葉が舞い、砂利さえも巻き上げるような、そんな風。僕らは思わず、手で顔を覆い隠した。

 すると、少年の姿が消えてしまっていた。

「いなくなっている……。」

「さっきまで、いたよな。僕らと同じくらいの男の子がさ、マイク。」

「いたはず、だけど。消えた。消えてしまった。」

  僕ら二人の間の空気が、凍り付いてしまった。何が起きたんだ?ぐるぐると何度も何度も、僕の頭を思考が回っていく。「何が起きた?」「少年が消えた」「あれは、幻だった」

「いや、あれはきっと、臆病な子どもで、突風が吹いたのを利用して逃げたんだ。」「でも、それじゃ説明できないだろ」「何が起きた?」「少年が消えた」「あれは、やっぱり幻だったのか」「いや、違う。あれは、確かに実在した」「きっと、臆病だったから」「あれ何度も、堂々巡りに入っている気がする」。ルーカスの声が聞こえてくる。

「マイク、マイク。」

「うるさいな。なんだよ?」

「ボーっとしてしまったから、心配になったんだよ。」

「ああ、ごめん。なんか、いろいろ考えが巡らなくて。」

「きっと、あれは幻想だったんだ。そうに違いない。」

「そうだな……。」

 好奇心が、僕らの恐怖に代わっていることは、二人とも気づいていても決して言葉にすることはない。だって、ここで引けてしまっていたら、カッコ悪い。それに、僕らの身に起きたことが、どんなことなのか知りたい。僕らは、まるで何もなかったかのように、館の玄関に間で足を延ばした。

 あの日の時のまま、扉を閉めるカギは壊れたまま――。僕が、そっと扉を開けると、薄暗く、静かな玄関。あの時と変わることもなく、大きな階段が真正面に会って、地下室に続く階段もある。そして、あの血痕も残っていた。

「マイクの言ってること本当だったんだ。」

「嘘なんか言うもんか。こんな話、嘘のほうがずっとマシだよ。」

「確かにな。それで、この血の跡が、ラダーのものなんだよな。」

「そうだと思う。でも、死体も、この先にあるはずだから、その人のものかもしれない。」

「でも、壁に死体が突き刺さっていたんだろ?」

「そう、だった。でも、それも突然、出現したかのようにも思えるし。でも、そんなことは、あり得ないよな。」

「まあ、映画とか、小説だったら、テレポーテーションでも起きたら、そんなこともあり得そうだけど。そんな不思議なこと、起きるはずもないけど。」

「でも、あの少年といい、僕らが経験したことといい、テレポーテーションくらいのことはすでに起きているような気もするけど。」

「そう考えると、何だかワクワクしてくるよな。誰も知らないような、未知の世界が広がっているのかもしれないし。」

「そうだね、ルーカス、その時にいなかったから、そんなことを言えるんだよ。」

 僕は、一足先に地下室のほうに歩いて行った。あの時には、まったく目に入らなかった、この家の景色がやけに目に入ってくる。ボン・ノルマン博士へ、証書……そんな文字が綴られたものが、何十枚も並んでいた。それに、目が鋭い中年男性が、スーツを着て、家族と思われる人たちに囲まれている写真もあった。不思議だ、誰も幸せそうじゃない。笑っているはずなのに、誰も目が死んでいる。どこの家庭も、こんなもんなのかな、と心でつぶやいた。

「これ、すごい数の証書だよな。しかも、勲章のバッチもこんなに。ミシガンの廃れたこんな街に、こんなすごい人がいたんだ。ちょっとびっくりだな。」

「そうだけどさ、こんなにすごい人がいたなら、みんな知っているはずじゃない?歴史の授業とか、それこそ地元の歴史を学ぶ授業の中でも、一言も触れられてないし。なんか、そう考えると不気味だよ。」

「ああ、確かにね。でも、なんか事件を起こしたんじゃない。表彰された後に、とんでもない大きな出来事を引き起こしてしまったとか。不倫とかかな。なんてな。」

「そうだといいけど。」

「まあ、とりあえず、この先に進もうぜ。この下なんだよな?死体が現れたっていうのは。」

「そうだよ。」

 僕らは、とりあえず階段を下りていくことにした。鉄の扉が開いたままだった。僕らが、かけ出たあの時のまま、誰もこの場所には来ていないんだ。

「なあ、何もないぞ。」

 ルーカスは、そういった。血痕は確かにあの時のままで残っている。でも、死体は跡形もなくなくなてしまっている。

「しかも、普通、死体って何日も置かれていたら、腐敗臭がするもんだろ。それが、しないし。」

「疑ってんのかよ!」

「そんなことは言ってないし、マイクの言うことは本当なんだと思うんだけど。事実を整理していってみただけだよ。こういうのって必要だろ?刑事もののドラマとかでも、言うじゃん、状況整理が大事ってさ。」

 この部屋には、本当に死体が無くなってしまっている。あの時、ジェニーは壁に寄りかかっていた。その上に、死体が飛び出してきたんだ、急に。僕は、その壁を触り、ジェニーと同じように寄りかかってみたりもした。でも、あの時みたいに、何かが起きることは、なかった。ルーカスは、部屋を物色しながら言った。

「でも、あの時、何かが起きたってことなんだろうな。三人が同じものを見てるし、はっきりとそのことを覚えているということは、本当に起きたことなんだとは思うんだよな。この部屋に、何かがあるとは思うんだけど。見た感じ、特に怪しいような工具とか、棚とかしかない気がするし。よくわからないな。」

「こう見てみると、本当にただの地下室だ。ところどころ、理科実験室で見るようなコイルとか、ゴツイ機械は置いてあるみたいだけど。」

「ああ、でも、さっき見たら、なんか博士だったんでしょ。ここの家主。」

「そうだったね。ノルマン博士っていう名前だったよね。この人のことを調べてみたら、何か分かるかもな。」

 部屋にオレンジ色の光が差し込んできた。ルーカスが、光芒のもとに目にやると、壁の上のほうに窓があることに気が付く。おもむろに、足台に乗って、窓から外を覗き込んだ。

「おい、マイク。」

 そう呼ばれて、僕もルーカスの横に立って、窓の外を覗き込んだ。すると、そこには、何人ものスーツを着た人たちの足が見える。何かを話しているようにも聞こえるけど、その内容をしっかりと掴めるほどには声の通りが良くない。上とか、横とか、何とか状況を捉えようと思ってみても、限界はある。「この人たちは、何者?」とルーカスは、声を抑えて言う。しかし、僕にも見当がつかなくて、「空き家だし、勝手に住んでいる人もいるんじゃないの?ホームレスとか」と、適当な返答しかできなかった。

「ホームレスがスーツ着ているわけないじゃん。大体ああいうのは、ボロボロのパジャマを着ていてさ、穴が開いていたりとか。」

「何でも、僕に聞くなよ。少しは、ルーカスが考えてくれてもいいんじゃないか。」

「いいじゃんか。聞くくらい。それに、マイクが何でも答えてくれるなんて思っていない。」

「なんだと!」

「なんだとってなんだよ。」

 僕らは、不安から少しばかり激しい口論になった。その声に気づいた窓の外側の大人が、窓を覗き込もうとした瞬間、僕らは体を小さくした。「びっくりした。」と僕。ルーカスは、小刻みに震えていた。

「今、子供の声が聞こえていななったか?」

「そうか。でも、何もいないけど、何で地下室に明かりがついてるんだ。」

「やっぱり、いたずらで、この部屋に入り込んでいるのか。鍵だって、壊されていたし。」

「あれが、子供の仕業か?あんな力技で、子供が開けられるようには思えないし。」

「それもそうか。地下室のほうにも、もう一度、見に行ってみるか。」

 大人たちの会話が終わりかけた、その瞬間に、大きな爆発音が地響きのように聞こえてくる。戦争にでも巻き込まれてかのように。といっても、僕らは戦争を経験しているわけじゃないけど、この地下室が大きく揺れるくらいだった。大人たちは、その音に気を取られて、この場所を去っていったが、僕らも目を合わせた。

「ここから、僕らも離れた方がいいんじゃないか?」

「でも、むやみに動くと、あの大人たちに見つかるんじゃないか。ルーカス。」

「それもそうか。」

 争っていた僕らは、冷静さを取り戻して、次なる行動を考えていた。


「こっちだよ。」


 突然、地下室に飛び込んできた、その声は、もちろん、僕らのものではなかった。声のもとに目線を向けると、さっき僕らの前に現れた小さな子供が現れていた。あいかわらず、顔は見えず、薄気味悪く、立っている。少しだけ、半透明にも見える。


「こっちだよ。」


 僕とルーカスは、顔を見合わせた。といっても、何ができるわけではない。少しの沈黙の時間にも、「こっちだよ。」と何度も呼びかけてくる。

「君の言いたいことは分かったけど、どこに行くんだよ。」とルーカスが言い返した。それには答えることなく、「こっちだよ。」というばかり。ルーカスは、子供の手を取ろうと近づくと、パッと消えて、玄関に続く階段に、僕らが気が付く前に移動している。

「こっちだよ。」

 その子供についていくかのように、ルーカスは階段を上り始めた。僕は咄嗟に、彼の手を取って、歩みを止めようとした。「ここにいたって、しょうがないし。この子供が何者かも気になるだろ?」と、ルーカスは囁く。「そういたって、気持ちが悪いよ。」と反論したけど、「でも、出口はこの階段の先だぜ?」とルーカスは答える。掴んだ手を逆に引っ張られ、階段を上ろうとした。向こう見ずな、ルーカスの好奇心に押されながらも、僕は階段に足を掛けた。

 僕らが進めば、子供も進む。僕らが止まれば、その子供も止まる。黒ぼけた謎の子供は、不敵な笑みを浮かべているようにも、何か悲しみを抱えているようにも見える。僕らが何を問いかけても、あいにく答えることはなかった。駆け上がるのに数十秒しかかからないはずの地下室の階段を、僕らは数分かけて、ゆっくりと上がっていく。秘密の部屋があるわけでもなく、階段は、何の変哲もなく、玄関にただ続いていた。

 子供は、さらに二階に続く階段を上り始めて、所狭しと書籍が乱雑に置かれている廊下を抜けて、ある小さな部屋のドアノブを、子供が触る。でも、開けられず、ただ触ったまま。僕が、代わりに開けると、ケーブルが丁寧につなぎ合わされている大きな機械が所せましに置かれていた。扉を開けた僕らの正面の壁に沿って、黒板のようなものと、簡素な机が置いてある。そのほかには、とんでもない量の資料が散乱している。

「何これ。研究室かな。」

「それにしか、見えないね。なんか、すごい達筆な文字で、数字とか、数学の式がいっぱい書いてあるや。大きなゼットとか、頼りないSとかがいっぱい書いてあるね。でも、何が何だか、さっぱり。」

 そう言ったルーカスは、部屋の中を物色し始めた。特に、何かが見つかるわけでもない。いや、何か見つかったとしても、僕らには難しすぎて分からない。でも、「タイムトラベル」と書かれた、難しそうな論文が置かれているのを、僕が見つけた。


「私たちの生活の中で、時間というのは、日が昇り、暮れていく。そんな連続した流れのように感じる。それは、まるで川のようで、いったん流れだしてしまえば、それが逆流することはないだろう。しかし、私たちは、さらなる俯瞰に立つことができれば、山頂から湧き出た水は、実は、川の行き着いた先の海や湖の水が循環して流れているものだと分かる。それと同じで、私たちの時間も、循環しているのだ。そうであるのであれば、私たちの時間は戻ることができるのだということを期待してしまう。ここからは……」


 時間が水で、川?それが循環している?さっぱりわからない。そういえば、あの子供はまだいるのかと思って、後ろを振り返ると、機械にかかっているヘッドフォンを取ろうとしていた。なぜだか、さっきまで感じていた恐怖感が薄らいでいて、すんなりと近づくことができたのは、無自覚だった。

「これが、取りたいの?」

 子供は、小さく頷く。僕は、ヘッドフォンと手に取り、渡そうとした。子供は、顔を横に振って、何かを伝えようとする動きをしている。

「どういうこと?ほしいんじゃないの?」

 子供は頷く。そして、またジェスチャーを続ける。

「つけろってこと?それとも、つけてってこと?」

子供は、僕を指さして、ヘッドフォンをつけるジェスチャーをする。深く考えることなく、つけることにした。続けて、機械のスイッチをオンにするジェスチャーを、子供がする。僕は、それに従った。すると、左右に甲高い音が鳴る。

「うわっ」

 思わず出した声で、ルーカスは振り向くが、時はすでに遅かった。車酔い?いや違う。頭が左右に、そして上下に振られる。何度も、腹から上がってくる吐き気は、胃液を伴っていなくて、不思議な感覚。踏ん張る足の感覚もなくて、自立しようとしていても、自分が見えている世界が壊れていくような、そんな気がした。ルーカスの声が微かに聞こえる。たぶん、僕の身体を支えてくれているのかもしれない。いつの間にかに座らされていた椅子の上で、僕の意識はだんだんと安定してきた。

「これ何?意識が朦朧とするんだけど。」

 僕の言葉は、から滑っていて、ルーカスの耳元に届いていない。そういえば、手も、足も、動いた残像がやけに残っていて、まるで僕が二人になったかのように見える。

「ねえ、聞こえる?」

僕の目の前の子供が、そう語りかけてくる。

「聞こえてるよ。なんだよ、これ。」

「はは、大変なことになっちゃったね。」

「君が、ヘッドフォンを付けろっていうから、つけたのに。」

子供は、何もしゃべらない。

「結局、何が目的なんだよ。」

「君は、この街が好きかい?君の親、友人、学校の先生、この人生を歩んでいることが、憎らしく思ったことはないかい?」

「急に、話を変えるな。君は、何がしたいんだよ。僕たちをこんなところに連れてきてさ。」子供は、何もしゃべらない。そして、口を開いたかと思うと、

「君は、この街が好きかい?君の親、友人、学校の先生、この人生を歩んでいることが、憎らしく思ったことはないかい?」

と同じ質問を繰り返す。

「僕の質問をさ、答えてくれよ。」

 僕は、向きになって子供に、叫び声をぶつけた。しかし、返ってくる反応は同じ。繰り返される同じ声に、僕の思考が誘導されていくように感じた。

「こんな街、こんな人生、最悪だよ。」

 僕の心の中に、ヘドロのようになっていた恨み心?いや、憎しみ?悲しみ?やるせなさ?そのどれもが適切には思えないし、そのどれもがこの感情に名前を付けてくれている気もする。


 トレーラーハウスで響き渡る、両親の叫び声――

「こんな生活、もう嫌。あなたの稼ぎが悪いからよ。少しはまともな仕事をしてよ。」


「うるさい、俺だって一生懸命に働いているだろ。

賃金が少ないのは、俺のせいじゃない。」


「明日の電気代だって、マイクの学費だってかかるの?そのこと、

分かってんの?帰ってきてはお酒ばっかり飲んで、

まったく協力してくれないじゃない」


ああ、もういい加減にしてくれよ。

あの怒鳴り声が聞こえる度に、僕は心臓が締め付けられるように痛む。

ここに、お前は生きてはいけないと言われているような気がして、

泣き出したくても、涙を流してしまったら、

心が壊れていきそうな気がして、強がりを装うことで、

何も感じていないようにすることで、自分を守ってきた。

 金切り声が止まったかと思えば、お母さんが車で外に出ていく。

恐る恐る部屋を出ると、無気力な父の背中が見える。

冷蔵庫に飲み物を取りに行くふりをして、父の表情を見に行った。

そこに浮かべられていたのは、恐ろしいくらいの「失望」だった。

この家庭に「愛」はあったのか――その問いに、何も言葉を発することのできない心が、「お前は、この世界から必要とされていないんだ」と僕に言い放った。


 それだけじゃない。


喧嘩の後は、少し離れた高台で時間をつぶしている母を呼びに、

僕がトレーラーハウスから出るのはいつものお決まり。

車を飛ばすほどの距離でもないのに、

父さんに心配してもらいたいのか、出ていくときはいつも車を使う。

ため息交じりに、外に出ると、

目の前の家の二ナが艶めかしい表情を浮かべながら、麻薬でトリップしている。

それだけならいいけど、たまに男を連れ込んでは甲高い声で小刻みに叫んでいる。

その光景を見るだけで、僕は吐きそうなくらいの嫌悪感に駆られる。

そして、昼間に出会うと、香水臭いその体を寄せてきて、

「もし、相手がいなきゃ、私が遊んであげてもいいよ」なんて絡み方もしてくる。

壊れた人間の吹き溜まりの町に、僕はいい加減に辟易した。


 それに、学校に行けば、ビッグボブとかいう不良が、好き放題の乱暴を振るってくる。

ジョナサンだけじゃない。

僕だって、何回も暴力を振るわれそうになったこともあるよ。

「おい、マイク。金貸せよ」

「この町で生きている限り、お前は奴隷だからな。」

「いいか、絶対に反発しようなんて思うなよ。そしたら、どうなるかわかるよな」――

そんな呪いの言葉は、ビッグボブは僕に投げかけてきた。

どこにいても、どんなことをしていても、

僕には逃げ場がない

こんな町、こんな社会なくなればいいんだ!!

と、声にならない憤りが心から溢れてくる。


ハハ、ハハッ――。


甲高い笑い声が聞こえてきた。

「君の心は、まるで真っ黒だね。」と、耳元で囁かれた。

その時、子供の気配は全くどこかに消えてしまっている。

でも、そんなことは関係ない。僕の心は、憤りと恨みと、失望で一杯になってきた。

小刻みに繰り返される呼吸が、胸を締め付けるほどの心拍数に引き上げる。

なんだかおかしい。

心が自分の言うことを聞かない。

「なくなれ!」

「滅びろ!」

「死ね!」。


何度も、何度も自分の意図しない思いがこみ上げてくる。


「もう、こんな人生をやめてくれ!」


 そう願うと、僕の目の前に大きな穴が現れた。その穴は、まったくもって暗くて、何もかもが吸い込まれていきそうなくらいの漆黒に包まれているようにさえ、感じる。僕の背中を誰かに押されたような気がして、右手がその穴の中に入る。誰かに掴まれて、引きずり込まれそうになる。その時、バウ、バウという犬の鳴き声が聞こえてきた。僕の背中が、急に引きずられていく。多少の痛みが走ったが、そんなことは消えてしまうほどに、僕の目の前の状況が目まぐるしく変わっていく。右手は、黒い穴の中から、ゆっくりと、何かが絡みつくように引き留める引力を感じながら、僕は倒れていった。

 これで間一髪に命が救われた――と、直感的に思った。パニックで閉じた瞼を、ゆっくりと開いてみる。

「おい、マイク。授業中に、寝るのは良くないぞ。」

 その声は、理科の先生のものだった。僕は、驚きで急に立ち上がった。あまりにも、急な出来事で、僕は足がもつれて、後ろに大きく転んだ。大きな音に、教室は騒然となった。

「痛い!」

 僕は、エマに大きく振りかぶった手で叩かれた。エマは、後ろに座っていて、僕の転倒に巻き込まれて、尻もちをついていた。

「寝るんだったら、もう少し静かに寝てよ!こっちまで、倒れてくるなんて、あり得ない。」

 エマは、立ち上がりながら、僕にそう言いつけた。でも、さっきまで、僕はルーカスと一緒に、あの屋敷に居て、黒い穴に引きずり込まれそうになっていて……。

「マイク、どうしたんだ。そんなに狼狽えているなんて、授業中に悪夢でも見たのか?」

 普通なら、こんな生徒に対して頭ごなしに怒るはずなのに、意外にも心配の言葉を投げかけてくれた。それでも、僕の動揺が収まらない。だって、一瞬で場所が変わっているし、そもそも時間だって、違う気がする。夢オチってことはないよな。神妙な顔持ちをしている僕を見て、先生は、僕の肩を持って、顔を覗き込んでくる。

「そういえば、ルーカスはどうした?」

 心配していたのは、理科の先生だけじゃない。エマも、心配そうに、こっちを見ている。そんなことも、目に入らないくらいに、僕は必死だった。教室の後ろのほうにいるルーカスに近づいて、「なあ、何で、僕らはここにいるんだ?」と詰め寄った。ルーカスは、僕の冗談かと思ったのか、「落ち着け」となだめるばかり。

「本当に、覚えていないのか?あの屋敷で、大変な目に遭っただろ?小さな子供が現れてさ」

「何のことを言っているのか、さっぱり。それって、あれだろ、ジャックとジェニーと行った話じゃないの?俺は、そこにはいなかったよ。」

「違うよ。その話を、ルーカスにした後に、一緒に行ったじゃないか。」

 ルーカスは、呆れた顔をしている。エマが近寄ってきて、僕の腕をつかんだ。

「ルーカスが困ってるじゃない。まだ、寝ぼけてるの?」

「寝ぼけてなんかいないよ。本当に、あった話なんだよ。」

 突然、僕に向けられている視線に気が付いて、言葉に詰まってしまった。

「何よ。本当にあった話って。どんなことがあったのよ?」

「いや。ごめん。僕の勘違いかも。」

 ここで、本当のことを話しても笑われるに違いない。屋敷に迷い込んだ犬の下肢が無くなっていて、それを見つけたら死体が壁から生えてきて、そのあとに、屋敷に行ったら小さな子供の幽霊が現れる。そして、機械をいじったら、幽体離脱?みたいな現象が起きたとか、普通に言ってクレイジーだ。いや、信じてもらえないかもしれないという気持ちより、自分の口から、そんな状況が言葉にされることに抵抗を感じていた。

「また、急に何?本当に大丈夫?」

「うん、大丈夫。何でもないから。まだ寝ぼけていただけかもしれないし。ごめん。」

 僕は、おとなしく席に戻ろうとした。すると、奇しくも授業の終わりを知らせるブザーが鳴った。これで、どうやら午前中の授業は終わったらしい。

「まあ、ちょっとトラブルはあったけど、これで授業は終わりです。ちょっと、マイクは、こっちに来て少し話をしよう。」

 授業が終わった合図があると、 蜘蛛の子を散らすかのように生徒が消えていく。この出来事は、どうせ、昼食のお供ぐらいになって、数か月したら笑い話で、みんなの記憶からも消えていってしまう。僕の体験したことは、そんな儚くて、嘘のようなものだったんだろうか――自席に座って、考えていた。いつまでも、席を立たない僕にしびれを切らして、先生のほうからこっちに来た。

「マイク、今日はどうしたんだ?家で何かあったのか?」

「特に何もないです。ごめんなさい。いきなり変なことを言ってしまって。」

「それはいいんだ。夜とかは寝れているのか?もしかして、お母さんとか、お父さんがケンカしていて大変だったりしていないか。」

 予想外にも優しい言葉が発せられたことに、驚いた。僕のことなんて、大人は興味を持っていないと思っていたから。

「いや、大丈夫です。ちょっと、現実なのか、夢なのか分からないことが起きたりしていて、自分がどこにいるのか、分からなくなっちゃったんです。」

 こんなことを他の誰かに言われたら、僕は間違いなく、「大丈夫?」と心配の言葉を投げかけるに違いない。

「そうか。もしかしたら、その夢は悪夢のように感じられたりするのかい?」

「いや、そんなんじゃなくて、なんていうのか。本当に現実に起きていて、今生きている世界に突然、やってきた感覚しかないんです。変ですよね。気にしないでください。」

「いやいや、そんなことはないよ。僕もマイクの年齢の時は、この世界になんで生まれてきたのかなとか、よく考えていた。」

 それとは、違うんだよな、とは思いながら、先生の話を一旦受け止めてみた。

「んー、正夢とじゃ、予知夢とか、明晰夢という言葉を知っているかい?」

「わかんないです。」

「まだ起きていないことを夢で見たり、現実に起きているみたいに現実味のあるような夢だったりのことを言うんだけど。これは、実はね、量子力学の中で言う、量子の影響を受けているんじゃないかなんて言われていたりするんだ。」

「量子の影響……ですか。」

「そうそう。量子テレポーテーションというのは、量子のもつれっていうのがあって。互いに反対の動きをする量子というのがあれば、光を超えて、どんな障壁があったとしても、どんなに距離があったとしても、情報が瞬時に伝えられるというものでさ。それが、私たちの脳に作用を与えていて、夢を見ているということもあったりして……」

「先生、正直、何を言いたいのか分からないです。」

 先生は、気まずそうにしていたが、ほんの数秒の沈黙で、再び、表情を緩めた。

「ごめんよ、少し難しいというか。何が言いたいか分からなかったね。大丈夫。君が体験していることは、決して変なことではなくてさ、誰でも不思議な体験は、マイクくらいの年齢にはするものだよ。」

 僕くらいの年齢の時には、誰でもする体験……。心の中にあるシコリが気になってしょうがない。知らないくせに。何があったか知らないくせに。なのに、適当なことを言って、僕の心に寄り添ったつもりかよ。心の奥にあるヘドロのような感情が、再び、自分ののど元のすぐそばまで上がっていくような気がしている。

「先生は、何も知らないよ。もし、自分が見たもの、触ったもの、全部が嘘だったら?僕だけが覚えていて、他の人は覚えていなかったら?それのせいで、思い出したくもないこと、思いたくもないようなことで、心がいっぱいになったら?先生は何も知らないよ。何も知らない。」

 僕ら二人の間には、再び沈黙が支配することになった。そりゃ、困るよな。僕が先生の立場なら、困る。こんな、何が起きたのか分からないままに、奇行に走ったりするような生徒だし、自分にも、そんなとんでもないことを言っているような自覚はあるし。

「マイク、本当に、僕は君の見方になりたいと思っているんだ。困ったことがあったら、話してほしいと思っているし。」

僕は、口を開くことができなかった。言葉を発すれば、とてもじゃないけれども現実的とは思えないような物語が展開してしまう。僕は、何度も、何度も、言葉を押し殺した。

「突然、穴ようなものが出てきて、それに吸い込まれそうになって、そしたら、いきなり授業の教室に座っていて。」

 先生は、真剣に、僕の言葉を逃さず、つかみ取ってくれた。

「パラレル・ワールド……。」

 その一言を、先生は確かに言った。

「パラレル・ワールド?」

「ごめん。ずいぶん昔に読んだ本の中で、パラレル・ワールドに行ったことのある人の話をまとめた本の中に、そんなことを書いてあったことがあって。」

「穴の話ですか?」

「そうそう。あんまり、内容は覚えていないんだけど、その人、確か、幽体離脱の研究者で、その時に体験したパラレル・ワールドの入口が、穴ようなものだった気がした。もしかして、それは、すごく黒くて、気味の悪い感じがしたりした?」

「そうです。とても、気味が悪くて。何だか、心の中に、ヘドロのような感情がぶわって出てきて。」

 この時に、初めて、自分の体感している経験そのものに、第三者が触れてくれてくれたような感触がした。この人は、この現象にたいして、何かヒントを知っているのかもしれないというような、淡い期待も心に甚割と広がった。

「ヘドロのような感情か……。それは、困ったところだね。そのほかには、何か覚えていることはないのかい?」

「そのあとは、なんか、ヘッドフォンのようなものを付けていたような……。」

「そこから、何か流れていたりしなかった?」

「えっ」

 僕は、先生の前のめりな姿勢に少し驚いてしまった。さっきまで、不器用なりにも慰めてくれようとしていたが、今は、単に好奇心で言葉を投げかけていると感じた。

「何かが流れたような気もしたし、しなかったような。はっきりとは、今となっては覚えていないんです。なんで、ヘッドフォンを付けてたのか……。あれ、記憶がだんだんと薄ぼけている気がする。」

「やっぱり、君が体感したのは単なる思い込みや、妄想の類ではなくて、現象が君に起きているように思える。マイク、飲み込まれてはいけないよ。いつでも、僕は話を聞くから。」

「はい。でも、先生は、何で僕のことぉ疑わないんですか?こんな、僕でも自分を信じられなくなるようなことなのに。」

 先生は、大笑いした。そして、真剣な顔をして、「マイクの話している言葉に、嘘を感じたことが一度もないからかもね。理系の僕は、あんまり人の感情は理解でき仲たりするんだけど、その言葉が本物かどうかは、何となくわかってしまうんだ。」と話す。

 この人は、僕よりも少年なんだなと、納得した。10歳の男の子に、そんなことを思われるのはどんな気持ちなんだろう。先生は、屈託なく笑って、僕の肩を叩いて、「大丈夫。君は、一人じゃないよ。」と言った。それがなんともうれしかった。

「そろそろ、ご飯を食べに行かないと、昼休みが終わっちゃうね。ごめんね。」

 先生は、颯爽と自分の荷物をまとめて、教室を後にした。結局、僕のことを心配していたのか、それとも、単なる好奇心なのか、彼の本心のところは、結局のところ分からなかった。それでも、僕のことを気にかけてくれている言葉は、確かに心に残っていた。

(③へと続く)

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