短編小説「雨奇晴好」
急に降ってきた雨の中、僕はカバンを頭上に抱えて走っている。
「なんで、こんな日に限って、雨が降るんだ」
朝、目が覚めた時に、カーテン越しに見えた空が、輝かしいくらいの青だったから、天気予報も見ることなく、僕は「晴れ」と決めつけて、家を出てしまった。いつもなら、妻が気を利かして、傘を渡してくれるのに……しかし、今はいない。
――ジャッパン
横を走った車が、水たまりに勢いよく突っ込んだ。その水しぶきで、体全身がずぶ濡れ。その瞬間、なんとも馬鹿らしくなって、走るのをやめた。
「なんだよ。今日。最悪じゃん」
空を見上げると、曇天のグレーで、雨が矢のごとく鋭く降ってきている気さえした。ぐちょぐちょになった靴下。シャツの下に着ている肌着が、へばり付いて気持ちが悪い。それに、7月だから、じめっとした生暖かい空気がより一層、拍車をかける。ああ、不快の極みだ。やっとの思いで、最寄りの駅「九品仏」の前にたどり着く。その途端に、雨は土砂降りに変わって、雨粒が屋根に打ち付けられる音が大きくなった。
小さな駅のホームに入って、数分後に、電車がやってきた。でも、限られた車内には、所狭しと人が乗っている。乗ろうと体を動かした、その一瞬、僕に向けられた視線は、冷ややかなものだった。雨だからと言って、全身がずぶ濡れで、髪から雨水が垂れているような男が乗車してくるなんて、そりゃ嫌だよな。自分が反対の立場なら、きっと、〝その人〟に冷ややかな視線を向けるに違いない。僕の体は硬直した。
そんな僕にお構いなしに、電車のドアは閉まる。社会は、誰かのためには待ってくれたりはしない。それが、自分の予想を超えてくるような災難であっても、無常に思えても、淡々と社会は動いていく。それが正解、それが正常。億万といる人が生活しているんだ、仕方がないことだと、心の中でぼやいた。そして、私は、途方に暮れて、ホームの椅子に座る。
電光掲示板に表示されている電車の運行情報。10分後に次の電車が来る。それでも、こんな僕が電車に乗ってものいいのだろうか。通勤ラッシュの満員電車。身を寄せ合わなければならないことに、これほど嫌気が差すことはない。こんな日に、僕はなんてついていないんだ。
特に何もすることがなく、茫然自失となる私は、ホームから見える雨の残像を眺めていた。ホームには、打ち付けられる細かい水蒸気で、夕方の光を朦朧とさせてた。
「ねえ、大丈夫ですか?」
「うわっ」
突然の声にびっくりして、私は、その場を転げ落ちてしまった。
「すみません。驚かせるつもりなんかなくて、ただ、すごく濡れていらっしゃったので、つい」
その声の主は、肩にかかるくらいの髪の女性。淡い青の花柄のワンピースに、麦わらで編まれたバケット帽をかぶっている。彼女の雰囲気だけで、涼感が漂う。
「いえいえ、こんなところで話しかけられることなんてないので」
「そうですよね」
私たちの間には、雨音しかない。何を話したらいいのかも分からないが、ここから去るのも違うだろう。ホームの椅子に座り直して、今度は、雨の残像に意識を向けて、時間を何とかやり過ごそうとしていた。くすぐったい視線が私の頬に向けられている。
「あの、このタオル使いませんか?とても濡れているので。このままだと、風邪ひきそうなので」
「でも、私が使ったら、汗で汚れてしまいます。それに、こんな綺麗な柄のタオル、使えませんよ」
クスクスと、その女性は笑った
「相変わらずですね。お優しいのか、気を使いすぎなのか。こういう親切は、断られるほうがつらいんです。だから、私のお節介、無駄にしないためにも、受け取ってください」
私は、女性の言われるがままにタオルを受け取り、水が滴る体を一通り拭いた。
「拭けましたか?これで、電車に乗っても嫌な顔をされることはありませんよ」
「見てたんですか?」
「……はい、少しだけ。それで不憫になってしまって」
「そうでしたか、それは恥ずかしい」
「そんな、恥ずかしいなんてありませんよ。今の時代、自分の都合を押し通して、発車しようとしているドアを押し開けたり、痴漢犯は、自分が捕まらないためなら、何千人もの生活に迷惑をかけても構わず、線路に飛び出る人もいるんですから。ビショビショに濡れて、しかも、お急ぎのところなのに、ぐっと我慢して、ホームで待っている。そんなあなたは素敵なお方ですよ。これなら、私もすごく安心です」
「え?」
彼女は、微笑んだ。口元のほくろが、妙に印象的だった。
私のポケットに入った携帯が鳴った。私はあわてて取り出して、女性を背に向けて、電話に出た。
「お父さん、生まれましたよ。元気な女の子です。母子ともに健康で、生まれてきましたよ」
「ほんとですか。いま、九品仏なので、急いでそちらに向かいますから」
ホームに大きくさわやかな風が吹いた。電話を切るころには、雨は止んでいて、光が静かに差し込んでいた。私は振り返って、女性に礼を言おうとしたが、そこには誰もいなかった。
――プオーン
電車の警報音が響き渡る。私は、少しよろけた。特急列車が、ホームを駆け抜けていく。雨に濡れた木々が揺れて、雫が陽ざしに煌めいた。
「綺麗だ」
思わず口にした言葉。ホームでの景色が何とも愛おしく思えた。私は、ゆっくりと椅子に座って、手元に残ったタオルに目を向けた。端には、「優雨」と刺繍されている。
「ゆ…う…?」
返しそびれてしまった。名前の読みよりも、タオルを返しそびれてしまったことへの背徳感の方が強い。でも、仕方がない。数分後に来た電車に乗って、僕は大井町の病院に向かった。
病院に着くや否や、僕の足取りはだんだんと早くなっていく。「走ってはだめ。廊下は走ってはだめ」と、念仏のように唱えながらも、足元が自分の意志とは逆に速くなる。
「廊下、走らないでくださいね」
結局は、その呼びかけも耳に入らないくらいに、夢中になっていた。
ガラガラ――
個室の扉を開けると、疲れ切って寝ている妻がゆっくりと瞼を開けた。
「あら、思ったより早かったわね。それにどうしたの。濡れてるじゃない?また傘忘れたの?」
僕は、荒れた息を整えるので精いっぱいで、妻の言葉へ返答できなかった。のどが引っ付きそうになるのを、生唾で何とかごまかそうとしている。でも、僕の視界に「娘」が飛び込んできたのは、一瞬だった。
「生まれたんだ……本当に」
「そうよ。女の子だったの」
「そっか……かわいいね」
僕は、涙を抑えるので精いっぱいだった。こんなにも娘が生まれることが、自分のもとに子供が生まれることが、うれしくて、感動的なんだって、知らなかった。妻のベットの隣にある小さな透明な箱に収められている娘を見つめて、
「ありがとう。この地上に生まれてきてくれて」
僕の言葉を横で聞いていた妻は、娘の頭を撫でていた。気持ちよさそうに寝ている娘の口元には、小さなほくろがあった。
「もしかして」
「どうかしたの?」
「いや、何でもないんだ」
「変なの。ねえ、この子の名前どうしようか?」
とっさに、ホームでの、あの雨のことが浮かんだ。そして、僕の意識を越えて、知らずと口が動いていた。
「ゆう、でどうかな?優しい雨って書いて、『優雨』。この子が生まれた瞬間も雨だったんだ。誰かの心に優しい雨を降らせる子になってほしいと思って」
「素敵ね。文才のないあなたにしてはとっても。誰かの入れ知恵かしら?」
「そんなことはないよ。いま、まさにいま、この子の顔を見て、思ったんだ」
病室の扉は開けっ放しになっていた。廊下をゆっくりと歩く淡い青のワンピースの女の子。手には、綺麗な柄のハンドタオルを持っている。忙しなく人が行き来する中、ある一人の看護婦は、彼女が颯爽に歩いて、廊下に吹き渡る涼感に、不思議そうにその姿を目で追っていた。
水光澰灔晴方好 水光瀲灔として晴れて方に好し
山色空濛雨亦奇 山色空濛として雨も亦奇なり
欲把西湖此西子 西湖を把って西子の比せんと欲すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧濃抹總べて相宜し