明日にかける橋
何やら古色蒼然とした響きのするタイトルにしてみた。こんなフレーズに反応する人がいるとして、いったい幾つぐらいの人になるだろう。僕は今67歳だが、このフレーズに相応しい年1970年には13歳だったわけで、かなりませていた。普通のリスナーなら、僕より10歳上ぐらいまでは、このフレーズに胸がキュンとなるのだろう。ということは、もう80才近い人たちが、この懐古譚の対象になるわけだ。なんとも恐ろしくもあるが、あの年は、やはり特別な年なのであり、実に豊穣なヒットソングがひしめいたのだ。
あそこがすべてのはじまりだった。そんな気さえする。あの年を起点として、アメリカンミュージックは怒涛のように流入してきた。もはや、ヨーロッパ文化との接点は、掻き消された感があった。その辺の経緯は、これまで折に触れ書いてきたから、ここでは、あの頃を思い出してもらうために、あるいは、あの時代を再発見してもらうために、何度かに分けてレビューしてみたい。
先ずは、あの年、最初に耳に飛び込んできたのは、Malisca Beresをリードヴォーカルに擁するオランダのバンド、The Shocking Blueの Venusだった。全米ヒットチャートでいきなり1位を獲得した。その後を追って、オランダのグループが幾つも現れたが、特に想い出深いのはThe Tee Setの Ma Bell Amieで、更には、いまだにCMに使われるGeorge Baker Selectionの名曲 Little Green Appleである。ここで、この2曲を実際に聴いてみたい。
https://youtu.be/4oGL_A6twCo?si=9_x761bcLr6FzvW-
https://youtu.be/sobvrbX-_tM?si=lDxgMkDqApl9qTcp
この2曲は、正に鉄板だろう。この年は、何と言っても、Simone&Garfunkel、The Beatles、Peter、Paul&Maryが相次いで解散。しかし、いずれも最後の曲が全米ナンバーワンヒットを記録した。悲しみのジェットプレイン、明日にかける橋、 Let It Beである。いずれも、僕のカラオケ18番。ヒットした順に触れる。
https://youtu.be/OpjQJOBH52g?si=IwNPDqe_AJyscKr-
先ずは、PP&Mの唯一の全米ナンバーワンヒット。原曲は、後にTake Me Home、Coutry Roadで知られることになるJohn Denver作。PP&Mの1967年のアルバムAlbum1700に収録され、1969年にシングルカットされて、爆発的にヒットした。
続いては、永遠の名曲!Simone&Garfunkelの事実上のラストソング、明日にかける橋。実際には、この後、アメリカではCeciliaが、日本では、コンドルは飛んでいくがシングルカットされて、いずれもナンバーワンヒッとなった。https://youtu.be/i7Q7BmNPW0g?si=moi5OFEnyoZBs1iE
しかし、これは、名実ともに彼らのキャリアを締めくくる大傑作となった。ベトナム戦争の最中、この曲をめぐり、実に大きな感動の嵐が巻き起こった。が、ヒットチャートでは、その感動も束の間、The Beatlesのやはり、ラストソングLet It Beがこれに続いた。https://youtu.be/QDYfEBY9NM4?si=KrO17mdutiG9iM-S
なんだろう、奇跡的なくらいに感動の名曲が入れ替わり立ち替わり、ヒットチャートのトップに躍り出た。かれらは、この後も、何やら象徴的なタイトルのLong&Winding Roadが全米ナンバーワンヒットとなるが、Let It Beという曲は、何かが終わり、何かが始まる予感を与える、渾身の1曲だった。
大物アーティストの相次ぐ解散の一方で、Led Zepplinに代表されるハードロックバンドが、稀に見る大旋風を巻き起こした。それらはその音楽性からしてヒットチャートとは一見無縁と見えたが、Whole Lotta Loveのような異例の大ヒットも現れた。
https://youtu.be/HibBnC6SVk8
もはや、シングル盤で音楽を聴く時代は終わり、芸術作品のようにアルバム単位で聴くことが当たり前になった。その意味で、音楽産業にとって画期となった時だった。新しいロックは、その背景に黒人音楽、つまり、ブルーズやロックンロールを備えていた。そこからどんどんと、ルーツミュージックへと聴き手の関心は広まり深まっていった。Led Zeppelinのデビューアルバムは、正にブルーズアルバムと言ってよかった。ジャズはもはや後退し、より大衆性の強いブルーズ、ソウルに新たな光が向けられた。ジャズを認知したばかりの、サルトルたちに影響されたインテリ文化人の、正しく度肝を抜くような様相を呈したのだ。Woodstock Festival、Filmore Westでの日々のライブなどが、自由を闇雲に謳歌する新たな文化状況の核心を形成した。そこで産み落とされた、親のない子供たちをWoodstock Childと言った。
1968年、テオドール・アドルノは、その講演中に壇上に上がってきた裸体の若い女性に、卒倒しかけた。今から思えば、ある意味、稚気とも言える品位を欠いた野蛮さが、新しい文化にはあった。僕は、正にこのロックジェネレーションの申し子であり、その渦中にあるのだと強く自己を認識すると同時に、無惨にも破壊されていく護られていくべき理性の気息奄々たるありさまを見かねていた。漠然とだが、その先に、明るい未来が到来することを信じかねた。
ちょうどその頃だ。映画監督ロマン・ポランスキーの邸宅が暴徒たちに襲撃されて、ポランスキーの妻で女優のシャロン・テートが惨殺される事件が起こった。その詳細が今もなお秘匿されていることからも、如何に凄惨な事件だったかを思わされる。その主犯は、チャールズ・マンソンである。
ヒッピーの教祖的存在のひとりだった。60年代末からの、フリーセックスとドラッグとに現実逃避していく若者たちの所業が、その先にもたらす暴虐の限りを、早くも予見させる象徴的な出来事だった。僅か2、3年前には、楽天的にフラワームーブメントなどと言われた若者文化は、血塗られたその様相を晒し始めた。日本で言えば、文脈は違えど、浅間山荘事件がそれに連なる。いちご白書など、現実に進行する惨事を正視するとき、脳天気な噴飯ものと言うほかなかった。
当時、13歳の僕は、慄きを禁じ得なかった。自由と放縦が、正に、紙一重のものであることを嫌というほど思い知らされる出来事だったのだ。既存のあらゆる制度・体制への急進的な破壊衝動は止まるところを知らず、それは、野蛮への道筋だった。近代という時代は、理性に先導されて、高度な文化レベルを実現していったと言えるが、その先には、新たなる野蛮が待ち控えていたのである。このことは、近代の神話を見抜いたマックス・ウェーバー、その後に続くアドルノやホルクハイマーにより危惧されていたことの現実化でもあった。そうした動向は、既にアウシュビッツの悲惨を結果していた。そしてアドルノは、アウシュビッツ以後、人は詩を作ることはできない、とした。
しかし、どんな状況にあっても、詩は必要なのだ。書かれなければならないのだ。例えば、石原吉郎の詩作がそれを裏付ける。つまり、言葉は、政治の道具などとしてでなく、人が人である所以を真摯に追求すべきなのだ。ヒッピーたちは、ヘルマン・ヘッセをバイブルとしたが、ヘッセが自由の果てに懸念した《荒野の狼》(代表作が「ワイルドで行こう」の邦題で知られるカナダのロックバンドは、その名もThe Steppenwolfといった。)に、皮肉にもなりおおせてしまったのだ。ヘッセは、チャールズ・マンソン的なるものの到来を、遥かに予見していた。信奉者たちは、師の真意を見逃したのである。
僕は、大人たちの間に飛び交う政治的な言説への不信から、言語を否定して反理性主義の隘路に彷徨い込みかけていた。しかしこれは、ちょうど1世紀前に一世を風靡した自然主義的人生観の再来なのに違いなかった。その先には、アウシュビッツの未曾有の非人道的蛮行があったことを、僕らは人類史的に身を以て体験していたはずだ。だが、形を変えて、あるいは革命、あるいは自由の掲げその美名のもとに、人々は早くも同じ道を辿りかけ始めていた。僕には、そのように思われたのだ。音楽評論家として知名な吉田秀和氏が、当時早くに、欧米における新たなる野蛮の現出を、不穏な傾向として危惧警戒する姿勢を示していたことは、今も記憶に刻まれている。まだ、アドルノ/ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」の徳永恂氏による邦訳(岩波書店刊)が出されるはるか以前であることを併せ考えると、吉田氏の明敏な知性には、今更ながらおどろく。
敢えて単純化の謗りを恐れず言えば、ドラッグや覚醒剤のロック世代への蔓延以上に、快楽絶対主義的なフリーセックスが人間世界にもたらしたものこそ、エイズ(後天性免疫不全症候群)であり、また、唯一の感染性の癌、子宮頸癌の蔓延という危機的な事態であることは看過できないことである。生殖行為という人類の存亡そのものに深く関わるそれは、著しく母胎という自然をかつてなく損傷させている。既存の制度と見做された性道徳の破壊は、それに代わるべき新たな倫理性の構築を指向することなく、生のかつてない荒廃を現出させたのである。性的快楽の飽くなき追求の代償は、決して無視してはならない。これは、近代の自然に対する破壊行為の重大な要素にほかならない。
新しいロック文化の周辺には、反知性的な、セックスとドラッグと暴力とが常に付き纏った。子供ながらに、このような罪の意識をも伴う苦しい思考を続けた挙句に、僕は、言語への回帰の志向、あるいは、敢えてなお、アウシュビッツ以後だからこその詩的想像力回復の方へと、自らの人生の向かうべき方向を定めた。美と倫理性、その本来のかたち、これが自分の探求しなくてはならない目標であり、胡乱のように見えて、しかし、最も緊要な向かうべき進路だと思い定めた。美と倫理の復権こそが、僕の人生を駆動した要因である。その意味で、上述のようにロックジェネレーションのひとりとして早くに自由とは何か、を考え続ける契機を得たことは、あまりに大きな体験だった。前にも書いたが、音楽は経験以前の体験であり、危険なものと隣り合わせである。だからこそ、手も無く溺れない覚悟が必要とされる。そこから、人生への問いは、果てしなく続くのである。音楽との出会い方は、だから、個々人にとり至極、重大な意味を持つ。
僕は、音楽に人間的な温もりを求める。恐らく自分が、半世紀以上に亘って大衆的な音楽に拘り続けたのは、このことと決して無縁でない。(to be continued)