かなえたい夢か、かなえなければならぬ使命か
日本の年間自殺者は、他国に比べても非常に多い。
将来の漠然とした不安や、夢がないから自ら死を選ぶ人が多いということを老人は言いがちだ。
しかしそうではない。人間を死に追いやるトリガーの多くはそんな遠いところではなく、目の前の痛み、苦しみ、絶望から解放されたいと願うからだ。
むしろ心を蝕むのは過去と今である。いかに未来をよくしようとしても、今苦しんでいる誰かに手を差し伸べられなければ手遅れにしかならない。
残念ながら、日本の法はそういった事案に対して後手後手だ。手遅れになってからしか手を打てない(まさに時すでに遅し、である)。
虐待を受け、身も心もボロボロになっても子供は自分から助けを求められない。求めようとしても法律、制度がそれを邪魔をし時間がかかる現状、若者の自殺が増えるのは自明といえる。大人はまだ、少なくとも成人していれば多少なりとも世界が広がる。色々な柵(しがらみ)を捨ててしまえば良いが、悲しいかな、捨てることも日本は容易ではないのである。経験した人は察するだろう。あまりにもお粗末なこの現状を改善しようとする動きは確かにある。しかし多くの人の努力虚しく、遅々として進まず。この間にどれだけの尊ばれるべき命が失われているのか、胸が痛む。
人間は基本的に、手を伸ばせる範囲、約数メートルにいる他者しか守れない。現代はSNSなどインターネットの普及により繋がることが以前より容易であるため、救える範囲も仮想的には広がった。しかし同時に、攻撃できる、傷つけてしまう範囲もまた広がったのである。したがってインターネットの中も本質的に安全な場所という訳ではない。物理的な攻撃は少ないかもしれないが、精神的な攻撃は以前より爆発的に増えているのだから。
さて、ではどのようにしたらより多くの人を一人が救えるのだろうか。救うという言葉も本来はおこがましい(人は自分でしか自らを救えないのだから)が、あえてその言葉を使う。どうすれば力なき者を救えるのか。何も知らず虐げられることが当たりまえの世界になってしまっている、あのおさなごに手を差し伸べられるのか(そして手を握り返してくれるのか)。
私には夢がある。
先述したように、虐げられ軽視された命の力になりたい。子らを護る盾となりたいのだ。
具体的には人と人を繋げること、支援者に対して相応の対価を払うことが大事であると考えている。
「人と人とを繋げること」というのは、縁のような話でもあるが、なによりも支援者と被支援者を繋げることだ。「手を差し伸べようにも、誰が求めているのかもわからない。」「見つけても物理的に遠すぎる。」。逆に「数が多すぎて手が回らない。」そのような問題を数多くみてきた。この需要と供給のアンバランスさがどの地域にも存在している問題だと考える。これを解消するためには、支援者のコミュニティ形成と形成したコミュニティ同士の相互連携が非常に重要であり、それらが一極集中するのではなく全国津々浦々に散在していることが必要であると考えている。どうしても人の過密は存在し、必然的に需要が高まる人口密集地、都市部に支援者、またその制度、サービスが偏在する傾向がある。どれだけ支援者側の人数が増えても、集中的に小さい範囲を護るだけでは最早手遅れの状態である。一刻も早く母数を増やさなければならない。そしてそれらが行き渡るように配置することこそが第一に重要なことである。
そして、「支援者に対して相応の対価を払うこと」というのも、現在おざなりにされている重要な問題であると考えている。見落とされがちであるが、このような虐待を受けている子らを助けたいと大声で宣う政治家も少なくないが、残念ながら支援する側のことは考えていないのである(ある意味、加害者といっても過言ではない。誰しもが善人面して加害者になっている可能性を内包していることは、別の話)。例えば「いのちの電話」やそれに類する支援が存在しているが、それらの多くは無料かつ支援者側もボランティアなのである。
「人の命を救えるなら金銭なんていらない。」
なんて高尚で、神聖な考えなのだろうか。全知全能の神であるならそれも可能であろうが、我々は生きている人間である(綺麗ごとばかりではいられないし、そもそも加害、虐待をしている人間に対して綺麗ごとで対抗できる訳がない)。支援者側にも生きるための生活があり、すなわち時間が有限に存在している。暇を持て余している人間がボランティアで人を救う、なんてことが、現在本当に成り立っているとお思いだろうか?
答えは否である。
むしろ、支援している側が疲弊して被支援者側になるケースが後を絶たないのだ。医者の不養生よろしく、支援者の無給料なんてことが現代でまかり通ることはない。もちろん、人間の善性をもってして実際にボランティアを行っている方もいらっしゃるだろう。その方は非常に気高く称賛に値すべきであり心より感謝をしている(そういう人こそ、感謝や賛美は求めてはいないだろうが)。
以上のことから、私たちは蔑ろにされている支援者側にも、利潤が回るシステムを構築することも、夢をかなえるための重要なことであると考えている。
どうだろうか?
当たり前のことであるが、支援者側、被支援者それぞれに目を向けなければこのような複雑でダークな問題には立ち向かうことができない。
しかし、私たちが夢を抱くように、幼い命にも夢を持たせたいのである。それこそが、私の「かなえたい夢」なのである。