
アンダーシティー・バーバー | 創作 <恋>
朝、シャッターを上げると、ひんやりとした空気が店の中に流れ込んできた。東京の下町の朝は早い。向かいの八百屋はすでに店を開け、店主がダンボールを運んでいる。自転車に乗ったおばあちゃんが「おはよう」と声をかけてくる。
「おはようございます」
私は深く息を吸い込み、店の中に戻る。カウンターの上を拭き、鏡を磨く。シザーケースを腰に巻き、ハサミの感触を確かめる。もう何年も使い続けている大事な道具だ。
店のラジオをつけると、静かな音楽が流れ始めた。しばらくすると、いつものお客様がやってくる。
「おはよう、今日もお願いね」
最初のお客様は、70代の女性だった。週に一度は顔を出してくれる常連さんだ。ショートカットをきれいに整えながら、世間話をするのが、毎週の習慣になっている。
「最近、孫がね、受験なのよ」
彼女はそう言って、私の鏡越しに微笑んだ。私は相槌を打ちながら、慎重にハサミを動かす。彼女の髪は白髪が混じっているが、きちんと手入れされていて艶がある。
美容師という仕事は、髪を切るだけではない。お客様の人生に少しだけ寄り添う仕事でもある。特にこの下町では、そう感じることが多い。
昼前になると、店は少しずつ忙しくなる。予約の合間に、近くのパン屋で買ったサンドイッチをかじる。香ばしいパンの匂いが広がると、少しだけ気持ちがほぐれる。
午後の予約は、20代の女性。結婚式を控えていて、ヘアカラーの相談に来たという。
「やっぱり、明るすぎないほうがいいですかね?」
彼女は鏡を見ながら、少し不安そうに言う。
「ドレスとのバランスを考えると、ナチュラルなカラーがいいかもしれませんね。でも、もう少し柔らかいブラウンを入れると、顔が明るく見えますよ」
「なるほど……それでお願いします!」
私は彼女の髪を丁寧に染めながら、未来の話を聞く。結婚式のこと、新しい生活のこと。嬉しそうな彼女の表情を見ていると、美容師という仕事の温かさを改めて感じる。
夕方、常連の男性客がやってきた。50代の会社員で、月に一度必ずカットに来る。
「最近、仕事が忙しくてさ」
そう言いながら、椅子に腰かける。彼はいつも、同じ短めのスタイルをオーダーする。仕事柄、あまり奇抜な髪型にはできないのだろう。
「忙しいのはいいことですね」
私がそう言うと、彼は苦笑した。
「まあね。でも、たまには休みがほしいよ」
カットをしながら、仕事の話を聞く。会社の人間関係や、最近の流行のこと。美容室の椅子に座ると、人は普段話さないことまで話してしまうのかもしれない。
「また来月、お願いしますね」
彼がそう言って帰っていく。
夜になると、店は少し静かになる。
カウンターのレジを締め、床に落ちた髪を掃く。ひとりになった店内には、ラジオの音だけが響いている。
ハサミをケースにしまいながら、今日出会った人たちのことを思い返す。
美容師という仕事は、技術だけではない。人と向き合い、話をし、その人の人生の一部にそっと触れる。
この下町で、私はこれからもハサミを握り続けるのだろう。
外に出ると、夜風が心地よかった。
「明日も頑張ろう」
そう思いながら、私は静かにシャッターを下ろした。
いいなと思ったら応援しよう!
