人間は、感情で世界に対応している。
感情が動機づけとなって行動に駆り立てられる。
ドラマティックでも、そうでなくても感情は存在する。
感情は、"恐れ"と関係していて、その対策が思考になる。
恐れとは、生物の本能から始まり、危険に直面した生き物が戦うか、回避するか、その後の安全な暮らしを選択するためにある。
危険を避ける。
その"恐怖や不安"から今の私たちの社会や生活は、思考で構築されていった。
人の"マインド"が作り上げた囲われた安全な世界。
動物には爪や牙や翼など危険対策の装備がある。
人間にはないが、代わりに自らを養い育てる術、または社会や生活を構築する創造の術がある。
近代都市は、人間のマインドの恐れと不安が生み出した。
しかし、その人の賢さにかかわらず、マインドはワンパターンの課題しか持っていない。
それは喪失する可能性から自分を守ること。
課題は失敗に終わる運命(さだめ)にある。
なぜなら、長く生きたなら、すべてのものは失っていくのが人の運命(うんめい)なのだから。
大切な物品も、親も友人も、伴侶も失い、自分の体の老化、死を持って命も失う。
喪失、損失が人生なのであり本質にある。
笑いや、家族や友人や仕事、同情や怒り、あらゆる経験の豊かさ、これらがあっても、人のマインドの恐れを止めることはない。
だからこそ、人は欲に駆り立てられる。
人の恐れと不安は、生きたい欲となり、感情を動機に行動する。
ポジティブシンキングな生き方は、自分の生の欲望に駆り立てられている。
つまり、恐怖に駆り立てられている度合いが強いから、躍起になる。
世界は科学を突き詰めても量子力学のように物理的な物だけで動いていない。
スピリットと生命のエネルギーという見えない非物理的非物質性物質もある。
だから人間は"感情"を注視する。
感情で問題になるのは"所有の原理"である。
人は不安から身近に物や生き物を囲う。
安全を手にしたい。それは自分の考えた安全のため。
しかし、例えば、動物や植物は、どうか?
彼らは自由であり、所有されるのを元来は好まない。
家族も相互に思いこんだ所有の概念。
自然の法則に従えば、誰も誰かのモノではなく、
誰もが家族であり、植物や動物、家族や他人、あらゆる物を蔑ろにしてはならず、それぞれは自由であり、個を尊重する。所有の概念はない。
つまり、人の感情。周りの世界に対してどれだけ束縛のない見方を取りながらオープンなマインドをもつか。
人間社会は論理的思考や社会通念など理の統制を良しとする。
しかし、人間の感情こそが危険への恐れから解放するための武器であり、物事を感じ、感情の度合いによって程度を変えて表現されるものを素直に出さないと問題解決に至らない。
社会は長い間、本音と建つ前、義理と人情などと言って人の生理的反応を抑制してきた。
コロナ禍までの社会は、
個人レベルでは、現実に対する個人個人のマインドの闘いに混乱が起き、感情の存在によって自らのコントロールを失うことを恐れて、感情表現を抑圧し、社会や人間関係に対応してきた。
表立っては、同調して波風を立てずに過ごし、本心の考えや想いを主張しない。
裏では、SNSで自己主張し、気心知れた仲間や趣味で自分をオープンにする。
それはバランスを欠いた生き方になる。
これ自体がまだ規制された人の社会構造枠の中で生きている事になる。
本当の人間性に立ち返るには、自らの感情を読み解いてみる。
それを素直に表現する事を受け入れた時、
「自然な自分」となり、"恐れ"を持つ感情は、生命の輝き、体からほとばしる魂の躍動によって、全てが"歓び"という感情になる。
ワクワクする気持ちや幸福では、
人は幸せにはならない。
自らが個として生きている、「存在」している事が嬉しくてたまらない、という「歓び」そのものを体現することにある。
それを植物や動物は人間に教えている。