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善も存在しない。


映画/善悪の彼岸へ


4月26日一般公開、順次全国上映といっても、当地にたどり着いたのは二ヶ月遅れである。(期待感は低下していた。)
シネコンの多分一番小さなスクリーンで日に2回上映が、週が変わって朝一のみになってしまった。またもや最終日になんとかチャリで駆けつける。発券機のシート画面には一人の購入者もなく、貸し切り映写か!と思ったら、直前に数名の入場者があった。まあ、見知らぬ観客と一緒にが、映画館のあるべき姿だろうやな。だけ10人に満たないのはちと寂しすぎる。

悪は存在しない (監督/濱口竜介/2023)

宣伝チラシ


オープニング、森の中を何かが移動していく映像。木々の枝の隙間からのぞく空を仰ぎながら、、、
ドライブ・マイ・カーの音楽を担った、石橋英子の作品プロジェクトへの映像制作が映画作品へ展開したとある。
、、、その映像はやがてラストシーンへと再び流れていく。樹木の影にかいま見える空はすでに更けている。


もう森へなんか行かない
(フランソワーズ・アルディ/1967)
(TVドラマ沿線地図テーマ曲
/脚本/山田太一/1979)

(youtube)


小さな高原の町に突然持ち込まれたグランピング場建設計画。その事業を推進する東京の芸能事務所員の二人は、説明会で地区住民の了解をとりつけようとする。
この地区は戦後の入植者が開墾し、やがて町へと発展したようだ。そこには各地からやってきて定住した人の後継世代のほかに、豊かな自然環境にひかれた、都会からの移住者も少なくない。
この住民説明会は登場人物の説明会でもあるし、交わされる意見も想定内のものだ

住民たちは豊かな自然に囲まれた土地に波風をたてないでほしい、という立場から発言する。
議論がフォーカスしていくのは、大規模な浄化槽の排水による湧水汚染への懸念だ。
ふと気づくのだが、建築許可を出したはずの行政の姿は見あたらない。グランピング建設用地がどのように買収されたのかも明かされない。そこが誰の所有地だったか住人は周知であろうに。

濱口竜介によるオリジナルシナリオは、背景にある社会的リアリティを意識的に削除しているのだ。人間の心理的関係にフォーカスしていこうとする姿勢だろう。それよりグランピング施設をめぐって展開するかと思わせるストーリーを、ある種のファンタジーへ置き換へる狙いが秘されていると思われた。

会社のコマンドを負って派遣された社員は、グランピング施設が及ぼす地区への経済効果をあげて、建設着工の了解を得ようと必死だ。多くの訪問客が善きことをもたらすと、自身に思い込ませながら。それは資本の論理のカリカチュアでもある。

数ヶ月後の着工ありきを前提に説明する社員に対し、住民たちはそれぞれの立場からしごく正当に聞こえる意見を述べるのだが、企業営利優先のエゴイズムに対し、住民の環境保持の思いは全くのイノセントであると言えるだろうか?
この地区の開拓も、黙する自然に圧力を加えながら、人間の生活優先で進められたであろう。それは現在の環境既得権の主張の陰で黙認されている。
例えば、土地の湧き水に惚れ込んで移住してきたうどん屋にとって、わずかな水の汚染も経営に影響するのではとの危惧。環境破壊につながると主張することで、自分たちの生活スタイルを保ちたいエゴが、無意識下に隠されるかもしれない。

会社側は水汚染問題を最小限に抑えていく方法を提案するが、住民側は受け容れず、両者に妥協点はみつけられない。
議論の噛み合わなさに憤慨する若者の言動も、本人は気づいていないままで、正義感の露出に自己満足する偽善ともとれる。
とりあえず再度の説明会を求め、穏やかにその場をまとめようとする区長の姿勢にもまた。
二人の社員もしだいに住民の反論に企図した意欲は減退し、突きつけられた問題点を会社へ持ち帰ることになる。

グランピング場経営という小金持ちから小金を引き出そうという目論見。コロナ禍で倒産が相次ぐ頃、政府の補助金を利用して新規事業を起こし、企業を存続させようとするのはありそうなことだ。
レジャーに相応の金をおとせるのは、二極化する経済層の上位にある者だ。本来泥くさいキャンプをオシャレなファンタジーの時空へとまやかし、都会人のニーズの取り込みを謀るのが芸能事務所となっているのも、社会へのシニカルな設定だろう。


The Night Has A Thousand Eyes 
(as./Paul Desmond /1965)
(song by J.Brainin)

(youtube)

施設建設予定地近くに住む父娘がこの映画に現れる人間の中心にいる。
うどん屋のために清水を運び、チェーンソーで丸太を切り、斧で薪にする姿が映し出される。樹木に囲まれた家は昔風の百姓家ではなく、シンプルなコテージのようだ。
娘・ (西川玲)を小学校へ送り、放課後の学童クラブに迎えに行くまでの間、父・ (大美賀均)は何が本業なのか、全く描かれない。まさか水汲み木挽で生活が成り立つわけはないだろう。ここでも意識的にリアリティの削除をなすことで、森の中のファンタジーな空間に住む親子に何かしらの象徴性をまとわせている。

宣伝チラシ裏面より
森の中へ歩いていく花


この親子には他の住民と違ってバックグラウンドが視えてこない。
人間の姿を仮りた精霊でもあるかのように、、、。
ボソボソと話すは時にぼんやりしてしまう様子がある。のお迎えの時間が過ぎていたりする。学童クラブに着くと、すでには父を待たずに家へ歩き出している。森で追いついて娘に樹木の名や特徴を教える。特にうっかり触れてしまうと傷つく危険のある植物(自然)に注意をうながす。
室内のショットでは何度か父母娘の家族写真が映る。
の妻であり、の母である女性はあらかじめ失われた存在だ。その設定には何か観る者の想像力へ投げかけてくるものがある。

この父娘に対極の立場にあって、そのバックグラウンドがあからさまに語られるのは、芸能事務所の男性社員・高橋 (小坂竜士)と後輩女子・ (渋谷采郁)だ。
水挽町への行き帰りの車内の会話は軽くは聞き流せない。はじめは説明会をどう上手くまとめるかという、同じ組織の人間として共通の悩みだったが、、、。
しかし帰社後の報告は軽視され、強欲に着工しようとする社長やコンサルに押し出されて、再び水挽町へ向かうことになる。
本来の望みから遠い位置にあることに気づきながら、生きていかざるを得ない日常の頼りなさを、素直な言葉で語る走行車内のシーンは平凡ではあるが、互いを理解しようとする人間的な空気に満ちていく。

うどん屋で高橋から常駐管理人になって欲しいと要請された時、巧はまた花のお迎え時間ををうっかり忘れていたことに気づく。
いつもなら帰りの森の途中で追いつくところだが、その日は違った。
社員二人も花を見つけようとするが、黛が危ない樹木の棘に触れて手を切ってしまう。流れる血は嫌な予兆を漂わす。
地区住民総出で少女の捜索が始まるが、容易に見みつからない。

昼間には猟銃の発砲音が響いていた。

グランピング場建設予定地の丘は、鹿の通い道である。人間の進出によって、すでに生息域が狭まっているにちがいない。開拓された土地に下りて食料を得ようとする。生きるべく本能のまま鹿は自由にふるまう。その行動は自然を象徴する当然の姿の表れといえるだろう。しかし人間に撃たれ自由を奪われることは、鹿にとっては自然ではない。傷ついた鹿は人間に攻撃的になると、巧は語っていた。

プロローグからラストシーンへつながると森と空の光景は、鹿の視点から映されていたと思えるのだった。

通い道の丘で、銃弾を受けた鹿に引きつけられるように近づく花。無垢な者ほど真っ先に自然へ召還されがちである (現実の戦火の下でも)。
花は天使のような眼差しで鹿と交感したかのようだが、何を起こそうとも非情な自然悪は存在しない
巧がようやく駆けつけた時、花はすでに草上に倒れていた。
鼻からわずかに血を流しているが、顔に傷はなく表情は穏やかだ。背部を突かれたやもしれない。
、、、花という少女は、森の精霊である母と、森で生まれ育った巧という人間に授けられし子であったかともとれるカタストロフィ。


Angel Eyes
(gt./Wes Montgomery/1961)
(song by M.Dennis)

(youtube)

自然には善悪など存在しない。一方で自然に包まれて存在する人間界は相対的な善悪を内包して営みを続けてきた。特に現代においては自然環境に大きな影響を及ぼしながら。
欲望を限りなく拡散していく現実世界にとって、人間の行為に対して自然は非情であるという認識は必須だろう。人間は自然をコントロールできないのだから。
その善悪が自然との境界で無力となり、意味を失う時を想像できるだろうか。その一端を映画表現に映そうとしたのが、この濱口作品の価値かもしれない。
どうすれば自然と調和した人間社会の慎ましい在り方が可能になるのか。人間界における善悪が意味をなさない彼岸において。


Left Alone
(p./Mal Waldron
& fea. as./Jakie McLean/1959)
(song by M.Waldron & B.Holiday)

(youtube)

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