「福田村事件」の目撃者は?
映画/事実とドラマの距離感
コロナ禍の頃から毎年、猛暑の記録が更新されていると感じます。もう高止まりさえ期待できないほどに。現代文明の強欲なまでの生産性に対して、自然が猛反撥しているのではないでしょうか。
福田村事件 (監督/森達也/2023)
関東大震災後100年に合わせて昨年9月1日に公開されたのを、自分はうっかり当地上映に気づかなかったようで、今年の1月まで観る機会がありませんでした。
note で多くの記事解説を目にし、作品のテーマ性については承知していましたが、、、それでも半年以上を経て、断片的印象を記そうと思ったのは、狂気のような夏のせいかもしれません。映画もそんな導入部から始まってるやな。
作品は大地震の数日後、千葉県の片田舎で起きた集団殺害事件をメインの題材としています。
1923年9月6日、福田村 (現野田市の一部)と田中村 (現柏市の一部)の自警団約200名が、四国香川県からの売薬行商団一行を朝鮮人と決めつけて、15人中9名を殺害したのです。
実行者8名が検挙され、最高10年の判決により収監されたが、2年後の昭和天皇即位による恩赦で釈放される。
その後約60年間、事件を語ることはタブーだったようです。
時を経て1979年、生き残った人の記録をもとに香川県で被害者確認調査が始まる。
1983年には千葉、香川両県の共同検証が行なわれ、1980年代後半には新聞報道もされるようになった。
2000年、香川県で福田村事件真相調査会、さらに千葉県では福田村事件を心に刻む会が設立された。
*事件当時5歳であった野田市長 (元福田村村長)が哀悼の意を述べたと wiki にある。
同年9月には、福田村事件犠牲者追悼式が野田市で開催され、2003年には犠牲者追悼慰霊碑が市内の寺に建立された。(ただし事件の経緯は碑に記されていない)
2013年、辻野弥生という方の労作「福田村事件」が千葉県の地方出版社から刊行。(絶版になったが、2023年他社から増補改訂版再発)
*同映画の企画に協力しているとのこと。
以上の事実関係は web上で得たことであり、辻野弥生著「福田村事件」も未読ですので、私にはこの事件そのものについて詳しくは分かっていません。よってドラマとしての撮り方の感想となります。
私的なことですが、1980年末頃から20年間ほど、当該地域の新興住宅地に住んでいました。代々その地で営農する方たちとの接点はなく、この映画を知るまで100年前の惨劇について全く知らずにいたのです。
この作品の狙いについて、監督自身が語っているところ (100年前の流言飛語や群集心理による常軌を逸した行動、政府通達、新聞報道のあり方が、現在のネット社会でのフェイク情報や操作に相似している危惧等) はそのとおりなんだろうと思われます。
森達也監督はこれまで、すぐれてジャーナリスティックなドキュメンタリー映画作家として知られています。
この作品が自身初めての劇映画演出であり、クランクインから完成まで一年以上要した。しかし、この素材への関心は1990年頃からか、遅くとも辻野弥生さんの著書が初出版された2013年までさかのぼると推測してよいでしょう。
居所のない帰郷者夫婦の映画的位置
朝鮮での教職を辞し、故郷の福田村に帰ってくる澤田智一 (井浦新)は妻・静子 (田中麗奈)を伴っている。冒頭の鉄道車内のシーンから、夫婦の気持ちのズレを感じさせる。
この地方の当時の中心地、野田町から離れた村で百姓をしようというのだから、よっぽどのことがあったのだろう (故郷での彼は師範学校卒のインテリだった)。
静子は裕福な家で育ったお嬢さんらしい。物言い、立ち振舞いがちと鼻につくが、、、
澤田は師範学校を優秀な成績で卒業して教師になった。日本の統治下にあった朝鮮の学校に職を得た経緯は不明だが、社会経済的地位向上のためか、また何か思想的なものを内包していたのか。
朝鮮での生活は日本語で事足りるところだが、彼は現地の言葉を習得している。当時の社会情況への関心が強かったんだろうやな。
澤田の台詞のトーンからは、なんらかの失意かトラウマを抱えているのを感じる。
しかし、腑抜けたように田舎に逃げ帰る夫に、勝ち気な妻がよくついて来たものだ。財産家の娘であれば、他に選択肢はあったろうに。
女にとって身分違いの男と結婚するのには、乗り越えるべき障害が多々あったろう。初めは見た目と知的側面に惹かれたとしても、さらに自分の理想像に近づけるべく欲は、おそらく出会った頃の男に再生しようとする意地に変わっている。
まだ農村生活に慣れない二人。モダンな洋装の妻へは好奇な目線が注がれる。村人にとっては突然現れた異物的存在だろう。偏見は個への差別感から始まるようだ。
新参者夫婦は出戻り部外者の目線で村人と相対するしかない。
軍入隊兵士壮行会での対立と混乱
利根川渡しの船頭、倉蔵 (東出昌大) はなげやりな雰囲気をまとわせている。戦地帰りの倉蔵は、軍隊内の理不尽さを体験し、悲惨な戦死も身近に見たであろう。地元に帰還した今は活力が抜けてしまっているようである。しかも冒頭シーンで、彼の幼馴染の遺骨を抱えていた女房とは躰の関係までになっている (二人と心を通わせた亡き者を介して結びついたのか)。
倉蔵の厭戦的発言が諍いを引き起こしたり、(年代的には日清戦争の)勇敢な従軍兵士だと見られていた老爺 (柄本明) が、実は後方で軍馬を世話する軍属にすぎず、軍功など無かったと自ら吐き出したりする。
近代の対外戦争で朝鮮半島や中国大陸への進出を窺っていた日本政府。1922年までロシア内戦でのシベリア出兵は約8万人にのぼるという。これは米国の10倍で、いかにロシアの社会主義革命を警戒しつつも、領土権益拡大の野心があったかと知れよう。
そんな当時の政府や軍部の動きが世情をざわめかせ、地方農村の人間にも何かしらの心理的葛藤を及ぼしているシーンであり、9月6日の惨劇の背景のひとつと考えてもいいだろう。
売薬行商団の不思議
その一方に、四国讃岐を発って遥か遠方の関東を旅する集団がある。沼部新助 (永山瑛太) を親方として、売薬行商をする特殊部落の人たちだ。
彼らはがなぜこんな遠地までやって来たのか、研究者でもない私には知識もないし、理解がおよばない。
売薬行商団の存在は事実に基づくらしいが、特殊部落の経済活動にそんな形があったのかな?と半信半疑ではある。
それならば、移動販売で儲けを蓄えた後、古里に戻ることになろうが、はたしてその収支は黒字になるだろうか?
むしろ前年に創立された、特殊部落解放を唱える全国水平社との関係を推量したい。行商団は他の特殊部落のオルグのための宣伝要員を含んでいたのか?という妄想を引き起こす。
イツモアナタハミテイルダケナノネ
朝鮮時代の澤田は、官憲により、その語学力を抗日運動関係者の尋問に利用され、多数の人々が閉じ込められた建物ごとの集団焼殺を目撃する結果に、、、抗議もできず、ただ見ているだけの体験に起因するPTSDを引きずって、性的不能に陷ったのかもしれない。
ただ贖罪感を負って黙々と畑地を拓く澤田は、培ってきた知識への絶望を掘り返しているかのようにみえる。
そんな日々を送る夫に対して静子は次第に諦めをつのらせて、彼のもとを去ろうとする。結局は相手に寄り添う心性に欠ける、不自由なく育った気ままな性質があらわになるのだった。
家を出て渡し舟に乗ると、それまで抑えこんでいた自分自身を解放するように、船頭の倉蔵を誘い込む。しかも、舟は船着き場を離れたばかりの辺りに浮いたままで。そこは澤田の畑地への通い道から見下ろせる位置だ。
澤田は二人のからみを目撃する。静子の性悪な面が夏の灼光にさらされるのだが、そんな都合のよい筋書きを、なんだかなと感じるシーンでもある。
夫は見たと分かった妻は家に戻った。内心でいつもあなたは見ているだけなのね、とつぶやいただろう。
パニックが引き起こす残虐
9月1日の大地震で東京の、特に下町は猛烈な火災で焼き尽された。
関東大震災の混乱のなかで、理不尽な朝鮮人殺戮は6000人にのぼったという。
この映画でも、政府の誤情報や流言飛語に過剰反応した自警団が、朝鮮人と決めつけた者を詰問し、暴行や殺害に奔るシーンを見せる。その過激化した群集心理には、日本による弾圧支配を受けていた朝鮮人が逆襲しに来るのではという、反面恐怖が多分にあったようだ。
一方で軍、警察はこの事態に乗じて、左翼の主義者や労働運動家を一掃しようと冷徹に動き出した。
ここで左翼系の劇作家のケースを取り上げているが、なぜか役は平澤計七の実名である。逮捕から殺害までの短い尺において、撮り方は説明的凡庸さの域で、何ら迫るものがない。ただなぜこの時だけ実在の人物登場?と、石につまずくような違和感を覚えるだけだ。
9月6日、事件現場のドラマのリアリティは?
自警団の先頭に在郷軍人たちがいる。
なかでも長谷川秀吉 (水道橋博士)は澤田と同級生だった。帰郷時から何かしらの劣等感に裏打ちされた姿勢で難くせをつけてくる、おかしなキャラがたった奴。
その台詞の棒読み的言い回しは、水道橋が工夫した役作りなのか、演出なのか、いづれにしろ監督の決めた事だろうが、出番の度に吹きそうになった。
前半では3名の在郷軍人は、三ばか大将やダチョウ倶楽部を連想させて戯画的に描かれる。しかし普段は気ままな、公の地廻りのような空威張り連中が、震災後に自警団を狂気へと煽っていく。
襲撃された行商団の親方、永山瑛太演ずる沼部新助は見かけは格好よさげだが、思慮深さに欠けている。永山は木村拓哉の摸造のような雰囲気を出しながら、落差のあるおちょこちょいな役柄にはまりがち。
自警団に取り囲まれ、朝鮮人詮議で迫られた際、キレて開き直り扇子を広げる。それは一目で異国のものと分かる派手やかさだ。
数日前、飴を余計に買ったお礼として、朝鮮の飴売り女から渡されていた。いくら過分に飴を買ってもらったからといえ、はるかに高価そうな扇子をあげてしまうというのは、どうなんだ? 野田の町中ならまだしも、炎天下の田舎道で飴を売っていたのも腑に落ちない設定だ。
*日本人の間で虐殺を引き起こすべく伏線?としたら皮肉だけれど。
それは親方がその扇子を広げた時だった。東京下町に出稼ぎに行った夫が朝鮮人に殺されたとの思いに取り憑かれた女房が、手鍬を親方の脳天に振り下ろす。なんとも劇画チックだが、それを発端にドタバタの集団殺害現場シーンが展開する。
澤田夫婦も事件現場を目前にしていた。行商団が朝鮮人でないのを静子は知っている。薬の販売で訪れた少年らと茶飲み話をしていたから、、、自警団の過熱にただ茫然としている澤田に静子は言う、いつもあなたは見ているだけなのね。意を決した澤田は知己の村長とともに自警団をしずめに走るのだが、、、地霊に支配されたような血祭りに狂奔する村人を止めることはできなかった。
*この事件の様相は、8年後の満州事変から太平洋戦争へと、日本が暴走する時代の予兆のひとつともみえる。知性に欠ける軍部や政府に踊らされた大衆の熱狂に対して知識層は無力だった。新聞等のメディアを介した権力機関の情報操作に従順した日本人を待ち受けていたのは、関東大震災をはるかにしのぐ戦争惨劇だ。
その混乱の中に女性記者・恩田楓 (木竜麻生)が駆けつけるが、いやはや現場到着の時間、距離感にリアリティがない。なぜ記者が片田舎で凄惨な事件が起きているかを察知し、千葉湾岸部にある社から北西部のうちでも北に位置する現場に間に合うのか、当時の交通事情からしてありえない移動だ。
映画的には女性記者が上司の圧力に抗して事件を報じたと暗示しているが (実際の新聞報道は50日を過ぎてから)。それが事件の目撃者として、映画の冒頭から彼女を登場させていた理由だろう。それもかなり強引なドラマ作りと思われた。
そんな全体的にリアリティの感じられないドラマの中で存在感を見せたのは、船頭・田中倉蔵役の東出昌大と老爺・井草貞次役の柄本明の二人としておきたい。
讃岐の古里の小橋で生き戻った人々を待っていたのは、出発の時に一団を見送った少女だった。
少年を先頭にした6名だけの姿を映した少女の瞳は、遠地での悲劇を見透したかもしれない。
ドラマ・福田村事件は様々なものを詰め込みすぎて、事件現場シーンをはじめ作品そのものがカオスに陥った感じだ。
ドラマによる再現シーンの挿入は必要だろうが、現代の視点から事件の意味を問う、ドキュメンタリー映画として制作されていたならばと思った。
人の移動がそれほど頻繁でなかった当時、遥か遠方の異なる方言がスムーズに通じ合わなかったのも分かるが、、、一方で初等教育は全国に普及していた。それでも讃岐弁を朝鮮の言葉と決めつけ、相対する者の話を理解しようとしなかったのは、熱しやすい日本人の閉鎖性にあっただろう。
(上記チラシから転記)
人の値打ち
何時かもんぺをはいて バスに乗ったら
隣座席の人は おばはんと呼んだ
戦時中よくはいた この活動的なものを
どうやらこの人は年寄りの
着物と思っているらしい
よそ行きの着物に羽織を着て 汽車に乗ったら
人は私を奥さんと呼んだ
どうやら人の値うちは
着物で決まるらしい
講演がある
何々大学の先生だと言えば 内容が悪くとも
人びとは耳をすませて聴き 良かったと言う
どうやら人の値うちは
肩書きで決めるらしい
名も無い人の講演には
人はそわそわとして帰りを急ぐ
どうやら人の値うちは
学歴で決まるらしい
立派な家の娘さんが 部落にお嫁に来る
でも生まれた子どもはやっぱり
部落だと言われる
どうやら人の値うちは
生まれた所によって決まるらしい
人びとはいつの日
このあやまちに 気づくであろうか
*作者/江口いと/1912年四国に生れ~2009年没。
息子や孫へと3代にわたる差別を経験し、 生涯をかけて部落解放を願い続け「同和教育の母」と呼ばれた。
「人の値うち」は、47の詩編でつづる部落解放のメッセージ集 「人の値うち 江口いと人権の詩」(明石書店刊) に収録された。
江口さんは映画の中の少女とほぼ同年代と思われます。同時代を歩んだ記憶は永く伝えらていくべきだろうやな。
多くの称賛を得た映画「福田村事件」だが、はたしてこの簡明な詩の言葉を超えるまでのものだったろうか?