優柔不断を、生きる。
そりゃあもう、死ぬほど優柔不断である。
ほんとにほんとに。
分かりやすいところで言えば、ランチ。メニューのすべてを3周くらい見回して、これが最後の晩餐なのか、と思えるほど悩み尽くし、ようやくの1食が決まる。ただ、店員を呼んでからも、ほんとうにこれでよかったのかい?ベストな選択だったのかい?と、自問自答を始め、また迷い出したりする。
それはカラオケでも起こる。
いま歌っている人の曲からの流れを汲むと、最適な曲は果たしてどれなのか。それを、JOYSOUND約26万曲の中から探しに探す。が、決まらない。さすがに次の順番の人が入れられなくなるので、目に飛び込んできた1曲をやむを得ず入れる。
服を買うときだってそうだ。サイズ感が気になるので必ず試着をするのだが、試着室の中でひとりブレストに入る。しまいには店員に「どうですかー」と言われ、しぶしぶカーテンを開けることになり、「どうなんでしょう…」と店員に判断を委ねる。
つまりは、考えすぎなのである。現に、この原稿のテーマを決めるまでにも、恥ずかしながらとんでもない時間を要している。(それ故にこのテーマにたどり着いたのだが)。考えすぎな自分が、ついにはバカバカしく思え、滑稽に見えてくる。
一方で、ときには何も考えずに行動する“暴走性”も持ち合わせている。宿を取らずにいきなりインドに行ってしまったこともある。答えを出さずに動き出しても、なんとかなるものなのだ。というか、その方がおもしろいし、思わぬ方向に進んで、結果よくなることが多い。
そんな風に、いつも怖がることなく、縦横無尽に動き回れればいいのだが、いやはや、性格というのはやっかいなものです。
これまで費やしてきたこの“迷いの時間”は、人生においてムダな時間だったのだろうか。いや、そんなことはない。いつも悩み抜いて出した答えのものを、食べる、歌う、着ることで、人生を最良の選択で彩ることができている。そう信じたい。
しかし、最期は三途の川の前で足踏みすることなく、思い切り飛び込んで死んでいける。
そういう人間に、私はなりたい。