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菅田将暉と小林一三は モミジの天ぷらを食べたのか?

 今年3月23日、北大阪急行電鉄の北端に「箕面船場阪大前駅」と「箕面萱野駅」の二つの新駅が開業しました。と、言っても、大阪の北摂地域の方しかピンときませんよね。同じ大阪府でも、泉南の人ならおそらく「どこやねん? それ」と言うでしょう。下の路線図をご覧ください。

箕面市

   その二つの新駅がある所が箕面市みのおしです。箕面市は大阪府北部に位置するベッドタウンです。上の路線図で分るように、大阪有数の繁華街であるキタや、観光地でもあるミナミ、ビジネス街である淀屋橋、北浜などにも地下鉄で繋がる便利な立地です。一方で、市の北部には明治の森箕面国定公園が広がる、緑豊かな環境都市でもあります。

    こんな冗長な説明よりも、俳優の菅田将暉さんの出身地と言ったほうが分かりやすいでしょうか。

明治の森箕面国定公園

 明治の森箕面国定公園は、昭和42年に「明治百年」を記念して国定公園に指定されました。ちなみに、その時同時に国定公園に指定されたのが東京都八王子市の「明治の森高尾国定公園」です。
 明治の森箕面国定公園は、箕面市北部の標高100-600mの低山岳地帯に広がる府営箕面公園と周辺の森林も合わせた963haの自然の宝庫です。中でも落差33mの箕面大滝は「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑です。

箕面大滝


 滝の最寄り駅である阪急・箕面駅から滝までは川沿いの遊歩道を歩いて約45分。秋には見事な紅葉が見られる森には約1,100種の植物と3,000種の昆虫が生息し、自然観察やハイキングにぴったりです。

もみじの天ぷら

 もみじの天ぷらは明治時代から販売されており、関西では「箕面」といえば「もみじの天ぷら」と、幼稚園児でも答えるぐらい有名です。すんません。嘘をつきました。幼稚園児は答えません。しかし、「箕面の天ぷら」という高齢者がいるほど有名です。

もみじの天ぷら

 もみじの天ぷらは、阪急・箕面駅から滝に行くまでの遊歩道沿いのお土産屋さんで販売しています。カリカリに揚げてあるのでカリントウのような食感で、ほんのり甘いので調子にのってカリカリと食べ続けてしまいます。お値段は店によって違います。300円ぐらいの小袋から1000円ぐらいの大袋まで様々ですが、調子にのって食べすぎると胸やけします。

 その値段に敏感に反応するのは大阪人です。店先で天ぷらを揚げている店員さんにこう言います。「材料はそのへんになんぼでもあるもんなー、ええ商売やなー」 大阪人のいやらしいところですが、これは誤解です。明治の森箕面国定公園は関西有数の紅葉狩りの名所ですが、そのもみじの大半はイロハモミジという種類です。少数のオオモミジもありますが、天ぷらにしているのは「一行寺モミジ」という食用もみじです。

 遊歩道沿いでもみじの天ぷらを販売している店主たちは、共同で管理している植林地で一行寺モミジを栽培しています。その一行寺モミジは、秋に紅葉したタイミングで摘んで、一年以上塩漬けにします。紅葉と言っても、一行寺モミジは黄色く色づくタイプで、それも天ぷらに用いる一因です。というのも、赤い葉を天ぷらにすると黒く変色するので、黄色い葉は都合がいいのです。


笑顔でポーズを決める役小角えんのおづぬさん。 通称 役行者えんのぎょうじゃ

役小角えんのおづぬ

 もみじの天ぷらは誰が創作したのでしょうか。通説では、約1300年前、箕面山で修業していた役小角えんのおづぬが、滝に映えたもみじの美しさに感動して、灯明の油(菜種油)でもみじの葉を揚げ、修験道場を訪れる旅人に供したそうです。

 ケチをつけるつもりは毛頭ないのですが、1300年も前のことをそんなに詳しく説明されると逆に怪しく感じます。
「ほんまかいな?!」

菜種油の歴史

 自分のことは気にならないが、他人のアラは気になって仕方ない性分なので、役小角と油について聞き込み調査をしてみました。

   まず向かったのは、油の神様として有名な離宮八幡宮(京都府乙訓郡大山崎町)。

本邦製油發祥地の碑

 ここには「本邦製油發祥地」という碑があります。その説明を要約すると、平安時代の初め、ここの神主が「(エゴマ)」の実を長木という道具で絞り、得た油を灯油に用いた。これが我が国の製油の始まりだということです。
 
 役小角えんのおづぬがもみじの天ぷらを作ったのは、今から1300年前。それは720年前後、つまり奈良時代です。ということは、日本初の製油よりも前のことです。

    また、役小角は菜種油を使ったと伝えられていますが、日本で初めての菜種油の製油は、現在の大阪市住吉区遠里小野おりおので、1650年ごろのことと記録にあります。これまた役小角よりもかなり後のことです。

箕面の空中回転機

限りなく黒に近いグレー

 結局、えん容疑者がモミジの天ぷらの創作者だという確たる証拠はありませんでした。ただ、黒だとする確証もありません。と言うのも、えん容疑者の目撃情報と同じ頃、遣唐使が菜種油を唐から持ち帰っていた可能性があります。そして、えん容疑者は極秘にそれを手に入れることが可能な立場にあったと考えられます。あくまでも憶測の域をでませんが、箕面市とえん容疑者の名誉のために付け加えておきます。

箕面動物園

箕面の滝の茶菓子

 箕面の滝付近で「もみじの天ぷら」を売り始めたのは明治初期のことです。当時はまだ周辺が箕面公園として整備される前で、明治の森箕面国定公園になるにはおよそ100年も待たねばなりません。おそらく、売り出した頃のもみじの天ぷらは、滝のそばの茶店だけで売っていた、地味なお茶請けだったと思います。もちろん、もみじの葉はそのあたりのイロハモミジを使っていました。

明治43年 左奥が2代目大阪駅。右は箕面有馬電気軌道の梅田駅
現在の阪急百貨店の位置から撮影。画面左へ行くとkitte大阪(?)。
画面中央奥に行くと十三大橋

箕面有馬電気軌道

  その後、明治31年(1898年)に滝周辺が箕面公園として整備され、観光客が徐々に増えてきます。そして大きな転機が訪れます。明治43年に箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)が開通したのです。創業者の一人である専務の小林一三氏は、当時珍しかった月賦支払いの分譲住宅を沿線の池田で売り出し、上野動物園、京都動物園に次ぐ、日本で三番目の動物園を箕面公園駅(当時)近くにオープンさせました。その規模は当時日本最大級の3万坪(東京ドーム2つ分)で、箕面は一躍人気観光地になりました。

かつて箕面駅から滝まで運行していた観光馬車。昭和58年(1983年)秋に廃止。筆者もこれに乗ったことがあります。

動物園と滝

 箕面動物園には総延長5キロの回遊式の観覧遊歩道が設けられ、その所々に獣舎が設置されていました。園内には数多くの東屋や茶店があり、宝塚歌劇の前身である舞楽堂「翠香殿すいこうでん」もありました。

   開園翌年には大観覧車(当時は空中回転機と呼んだ)が設置され、総合観光施設の様相を見せる動物園は大人気になり、観覧遊歩道が大混雑するようになってしまいました。それを解消するために小林氏は、駅から滝までの道を馬車が通れる遊歩道として整備し、駅を出た観光客が動物園と滝に分散するようにしました。

 これがまた当たり、箕面は大阪の中心部から電車で気軽に行ける人気観光地になりました。

 そうなると必要なのが「名物みやげ」です。元々名産品もない田舎町だったので、急遽白羽の矢が立ったのが茶店の「もみじの天ぷら」です。名物の名に恥じないように、もみじを食用もみじに替え、もっともらしい役小角の逸話を張り付けて「由緒正しい」お土産に仕立て上げました。(妄想ですよー)

 ちなみに、現在も阪急・箕面駅周辺を歩いてよくよく見ると、動物園の遊歩道跡や獣舎跡があります。10年前の記録ですがネットでおもしろそうなものを見つけました。


おちゃめな小林一三氏  (松岡修造氏の曽祖父)

宝塚歌劇団 

 小林氏は後に阪急・宝塚駅周辺の活性化のために宝塚歌劇団を1913年(大正2年)に設立し、開園からわずか5年の箕面動物園を宝塚に移転させます。移転後の動物園は後々遊園地を併設し、宝塚ファミリーランド(2003年に閉園)になりました。

設立当時の宝塚歌劇団

阪急軍

 その後、1936年(昭和11年)に阪急軍(後の阪急ブレーブス)を創設した小林氏は、創立間もない職業野球リーグ(後の日本野球機構)に参加します。その一環として、阪急神戸線沿線に阪急軍のホームグラウンドとなる阪急西宮球場(後の阪急西宮スタジアム。2002年閉鎖)を建設しました。黎明期の日本の職業野球リーグで、ちゃんとした観客席を備えた球場は、巨人軍の後楽園球場と大阪タイガースの甲子園、そして西宮球場だけだったので、野球観戦の売り上げと、観客の交通費でずいぶんと利益を上げたはずです。

創設当時の阪急軍。前列中央が宮武主将。後列中央が三宅監督。
これで全員です。  

東宝

 他にも、阪急の東京進出の第一歩として設置されたのが昭和9年に開場した東京宝塚劇場です。小林氏は、鉄道の路線を持たない東京で勢力を拡大するために、歌劇団を足掛かりとし、日劇を買収し、完全国産トーキー映画が公開されたばかりの映画業界に進出します。その映画会社は東京宝塚を略して「東宝」と名付けられました。

小林式鉄道経営術

    このような小林氏の都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店、スーパーなど)、観光事業(映画館、遊園地、歌劇団、球団・球場経営)などを一体的に進める鉄道経営手法は、全国の大手私鉄や民営化後のJRに大きな影響を与えました。

東急6000系

東急

 余談ですが、小林氏は東京進出の準備中に、渋沢栄一氏とともに「田園都市株式会社」の立ち上げに参加しています。田園都市株式会社は1922年(大正11年)9月に、小林氏の主導で鉄道部門の関連会社を設立します。これが目黒蒲田電鉄株式会社、後の東急です。小林氏は鉄道経営の手腕を買われ、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄(こちらも東急の前身)の取締役に就任しています。また、小林氏はそのころから武蔵野電気鉄道(後の西武鉄道)で常務だった五島慶太氏の相談に乗るようになり、五島氏の東急設立に手を貸しました。

 しかし、その五島氏がある騒動を引き起こします。

東京・日本橋、三越日本橋本店(昭和2年)

三越乗っ取り

 昭和13年の春、東急の五島慶太氏が三越百貨店の乗っ取りを画策したのです。ところが、五島氏(東急)の強引なやり方に反発した、三越の創業家である三井財閥が三菱財閥に協力を依頼し、東急のメインバンクだった三菱銀行が東急への融資を中止します。三井・三菱の両財閥を相手に、五島氏の計画はあえなく頓挫し、仲裁に入ったのが阪急の小林氏です。

    小林氏は、五島氏が持つ三越株の半分を三越の子会社に譲渡し、残り半分を東急と阪急で分けるという和解案をまとめ、結果として小林氏は三越の取締役に就任しました。

大江戸温泉物語グループになった箕面温泉スパーガーデン

高級住宅街・箕面 

 かつて小林氏が夢を形にした箕面動物園の跡地には今、箕面温泉スパーガーデンがあります。そして、自然豊かな田舎町だった箕面は、同じく小林氏が手掛けた阪急神戸線の高級住宅街に匹敵する、大阪有数の高級住宅街を有するおしゃれな環境都市になっています。
  
 すっかりハイソになった箕面市ですが、市内の高級住宅街をタクシーで走っていると、大豪邸の前で「ここが西川きよしさんの家ですわー」と、頼みもしないのに運転手さんが教えてくれる程度の庶民感覚は健在です。

モンちゃんとゆずるくん

 最後に、箕面のもうひとつの名物みやげと箕面市のゆるキャラを紹介しておきます。

モンちゃんせんべい

 箕面の滝周辺に生息している日本猿をモチーフにした「モンちゃんせんべい」です。ここの日本猿は、以前は滝の周辺にたくさんいたのですが、観光客の手荷物を狙って悪さを繰り返したので、箕面市によって山奥に追い立てられて現在は見かけることは稀になりました。

 そして、箕面市のゆるキャラの「滝ノ道ゆずる」くんです。

滝ノ道ゆずるくん

 一般的にゆずは接ぎ木苗で栽培されるのですが、箕面のゆずは種から育てる実生みしょう栽培なので香りが高く、大粒で、高級品とされています。

 思いもよらず箕面市のPRをしてしまいました。箕面市の関係者のみなさん、礼には及びません。お仕事の依頼をお待ちしております。

大阪人は見た!          学校では教えない京都の黒歴史。

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