勝手にご飯映画祭③ 「あん」のどら焼き
はい、またお会いしましたねー。皆さん、映画はお好きですか? 邦画が好き、洋画が好きなんて好みはあっても、映画が嫌いだという人は少ないでしょう。
ところで、SF、ラブストーリー、ホラー、時代劇…いろんなジャンルがありますが、ジャンルにかかわらず多くの映画に登場するシーンがあります。それは食事シーンです。なぜ多くの映画に食事シーンが登場するのかといえば、映画は「人」を描くもので、そのためには食事に触れない訳にはいかないからです。
作品によって重要度はさまざまですが多くの作品で、そこに登場する料理にはその料理でなければならない理由があります。しかし、たいていの映画では時間の都合でその理由にはあまり触れません。
そこで、登場する料理に注目して映画を紹介するのが「勝手にごはん映画祭」なんですよ。今月は日本映画「あん」のどら焼きを妄想します。
あん
どら焼き店「どら春」の千太郎は、昔、傷害事件で刑務所暮しを経験し、出所後は雇われ店長として淡々と日々を過ごしていました。どら春の前の桜が見事に咲いた春の日、アルバイト募集の貼り紙を見た老女、徳江が現れます。
一度は断った千太郎でしたが、徳江が煮た餡を食べて驚きます。徳江は50年もの間、餡を作り続けた女だったのです。店の常連客である中学生ワカナに薦められたこともあり、千太郎は徳江を雇います。徳江が不自由な手で愛おしむように煮る餡のおかげで、店はみるみるうちに繁盛し、行列ができるようになりました。
そんなある日、千太郎は店のオーナーから、ハンセン病を理由に徳江を解雇するように命令されます。仙太郎が解雇を言い出せない間に、徳江がハンセン病患者であるという噂が流れたらしく、客足は途絶えてしまいました。事情を察した徳江は店を去り、千太郎は己の不甲斐なさに落ち込みます。
ハンセン病
ハンセン病は皮膚に重度の病変が現れる感染症です。日本では「ライ病」と呼ばれ、白癩という名で日本書紀にも登場します。
初期症状は膚に白または赤・赤褐色の斑紋が現れますが、痛みや痒みはまったくありません。その時期に適切な治療をしなければ身体の変形を引き起こし、障害が残ることもあります。しかし、その感染力はとても弱く、最も感染力の弱い感染症とも呼ばれています。
この病気は顔面や手足などの皮膚に症状が現れることが多く、その外見から忌み嫌われ、世界中で差別の対象にされてきました。日本でも患者は社会から追われ、放浪の末に人知れず死を迎えるしかありませんでした。
その悲しい身の上は、映画「もののけ姫」で、全身包帯で覆われている病人として描かれています。映画の中でハンセン病患者達は製鉄や銃の改良などを任されていました。それは保護されながらも、社会の一員として立派に役割をこなすことができるという、宮崎監督のメッセージです。
ライ予防法
日本では明治時代にライ予防法が制定され、患者はハンセン病療養所に強制隔離されるようになりました。これは感染拡大防止という名目の重大な人権侵害でした。その後、1980年代に治療法が確立され、ライ予防法は1996年に廃止されました。
ハンセン病療養所
1907年(明治40年)に、日本全国を5つに区分してハンセン病患者を収容する施設(連合・都道府県立「らい」療養所)が作られました。
昭和になると、後に「無らい県運動」と呼ばれる運動が活発化します。これは各地からハンセン病患者を探し出して療養所に強制連行する運動で、各自治体の役人、警察官、ボランティア団体によって行われました。これは体のよい患者狩りで、こんなことがまかり通る、そんな国・時代でした。
強制的に療養所に入れられた患者は、現金を没収され、「故郷の家族に迷惑をかけないように」と偽名を使うよう求められました。また、自分の「解剖承諾書」にサインを強要され、療養とは名ばかりの、土木作業、炊事洗濯、重症患者の世話、療友の火葬、屎尿処理等の強制労働を強いられました。
想像を絶する過酷な生活のため、逃亡を企てる者や、職員に反抗的な態度をとる収容者もたくさんいました。そんな収容者は監禁室(独房)に入れら、記録こそありませんが、体罰もあったようです。
今では信じられないことですが、療養所長には、入所者の食事の量を1/2まで減量(連続7日まで)すること、制裁のための監禁(30日以内)などの権限が法的に認められていました。【大正5年(1916年)に制定】
「ライ予防法」違憲国家賠償請求訴訟
ライ予防法が廃止された5年後の2001(平13)年、熊本県の元ハンセン病患者13人が国家賠償請求訴訟を熊本地裁に起こしました。
2001年5月11日、熊本地裁は原告勝訴(正確には一部認容、一部棄却)の判決を出しました。この時点で、熊本の13人だった原告は全国の療養所入所者4,500余人のうちの過半数にまで増えていました。
当初、国は控訴する方針でしたが、小泉純一郎首相(当時)の判断で控訴を取り止めました。
勝訴したとは言え、元患者さん達に帰る場所はありませんでした。厚生労働省の調査によると2022年7月末日現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所に899名の元患者さん達が暮らしています。平均年齢87.6歳になった今も、家族に迷惑をかけたくないという一心で療養所にとどまっているのです。それは今もハンセン病患者への差別や中傷が無くなっていないということです。
ふるさと訪問事業
今も療養所で暮らすハンセン病元患者の皆さんですが、高齢化が進み、生きているうちにもう一度家族に会いたい、親の墓参りに行きたいという声があがるようになりました。しかし、「家族に迷惑がかかるのではないか」、「自分が療養所に入っていることを周囲の人々に知られると困るのではないか」と身内を気遣うあまり、帰りたくとも帰れないというのが実情でした。
そこで、里帰り支援を入所者の出身県が行う取り組みが始められました。たとえ自分の生家、生まれた町や村を直接訪問することはできないにしても、せめて出身県に帰ってきてもらい、里帰りの気分を味わってもらうために各県・各自治体が「里帰り事業」を始めました。
ハンセン病患者宿泊拒否事件
平成15(2003)年、熊本県でもふるさと訪問事業が実施されることになりました。この事業に申し込んだのは、熊本地裁で国家賠償請求訴訟を勝ち取った18人のハンセン病元患者でした。※すでに完治しているから元患者。
熊本県は阿蘇郡南小国町にある黒川温泉のホテルを宿泊予定日のおよそ2か月前に予約をしました。しかし、1週間前に突然ホテル側は「元患者が宿泊するなど、聞いていなかった」、「ハンセン病の元患者は宿泊させることはできない」、「他の宿泊客に迷惑がかかる」と、支配人判断で宿泊を拒否を通告しました。
謝罪の真意
宿泊拒否事件が報道され、ホテルに多くの批判・非難が寄せられました。追い詰められたホテル側は事態の収拾を図るため、謝罪の意思を示しました。しかし、「宿泊拒否は支配人の判断ではなく、本社の判断であった」と訂正した上で、会社経営者の署名が無い謝罪文を示しました。これではいったい誰が謝罪しているのかが明確ではないので、元患者側は謝罪を拒否しました。
誹謗・中傷
元患者側が謝罪を拒否したのはもっともなことだと筆者は思いますが、世間は違いました。謝罪拒否が報道されると、「何様のつもりだ」「ホテルからも賠償金をせしめるつもりか」など、誹謗・中傷の電話・手紙が殺到しました。
どら焼きの理由
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