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誤解されやすい自分


先日まで親しげに会話をした人が、急にそっけなくなった。
挨拶しても、目も合わさず、頭を軽く下げて、足早に去って行ってしまったのだ。

なぜそのような態度をとられてしまったのか。
こちらとしては、思い当たる節もない。
ただただショックで、情けないことに半日も引きずっていた。

「あぁ、また何かやってしまったのか」
と、私は思う。

そう、こういった類の変化は、私にはよくあるのだ。

とくに挨拶程度や、世間話をする程度の関係性によく起こる。
しょっちゅう一緒に食事に行く間柄や、私をよく知る人とはこういったことはないのだが。

きっと何らかの「誤解」や「すれ違い」が生じてしまうのだと思う。
なぜ「誤解」と言い切るのか。それは私にはまったく「敵意」がないからだ。

ではなぜ、いつもこのようなパターンができてしまうのだろう。

なぜ、いつも誤解されてしまうのか


おそらく私の外見(雰囲気・話し方も含む)と、コミュニケーション(態度・会話)にギャップがあるのではないかと思う。
そう思う理由について考察してみた。

穏やかそうなのに、距離を感じる


私という人物は、「おとなしい」「優しい」「穏やか」「柔らかい」「一緒にいると安心する」などの言葉が羅列するらしい。

これは私を良く知る人達から得た「私のイメージ」に対する総評である。
自分では違和感を覚える点もあるが、おそらく「こんな感じの人」に見えるのだろう。

一方で、私は不安障害に陥ったこともあり、コミュニケーションには苦手意識がある。
顔見知りがいたらもちろんにこやかに挨拶はするが、近寄って世間話するほどまでの、勇気と話題性がない。

第一印象は「親しみやすそう」なのに、知り合ってみるとなんだかいつもよそよそしい。
おそらく非言語の部分で感じさせる「壁」が、人に距離を感じさせるのかもしれない。

話しかけやすいのに、相手には無関心


先ほどにも述べたが、私は世間話が苦手だ。
苦手な理由は、「相手の時間を奪いすぎていないか」が気になってしまうからだ。

もちろん、こちらの都合が気がかりになることもある。
私は過集中になりがちなので、会話に集中しすぎないかが気がかりになり、結果、「話を聞いていない」。
とくに動き回る子どもがいると、子どもたちのことも注意を向けなければならないので、会話どころではなくなる。
相当不器用な人間だ。

そのような態度であるから、相手に「自分には興味がないんだな」と感じさせてしまうのかもしれない。

誤解されやすい自分にできること


では、どうすればこのような誤解を避けられるのか。
考えあぐねた結果、もう「自分を受け入れる」しかないように思う。
トラブルを招いた原因をあれこれ考えても、結論が出るわけでもない。
社交的な人のように、積極的に話しかけ、世間話を広げられるわけでもない。
最低限、「笑顔で元気よく挨拶」することが、相手に「敵意はないよ」とアピールできる手法ではないか。
なんだか学校のスローガンのようだが。

また、自分に限らず、相手側の問題もあると思う。
たまたま体調が悪かったとか、急いでいたとか、認知にゆがみがあるとか。
それはどうしようもない。

一方で、非言語で与えてしまった誤解は、主張的コミュニケーションで誤解を解く方法もある。
私には勇気がいることだが、相手を不快に思わせてしまったことには変わりないだろうから、子ども同士がお友達として仲良くさせてもらっていることを、また改めてお礼が言えたらいいな。
そんな風に思っている。

Thanks!
TOMOさんの素敵なイラストを使わせていただきました♡

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