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見ることも、聞くことも、話すこともできない奇跡

1887年4月5日。

この日、ある少女に"奇跡"が起こる。


僕の中で非常に印象深いエピソードとして心に刻まれているのが、

ヘレン・ケラーの物語だ。

コテンラジオで聴いたのが最初だったけど、その情報をきっかけに自分でも探ってみた。


1歳半に発症した高熱が原因となり、「見えない・聞こえない・話せない」という三重苦を背負うことになるヘレン・ケラー。


この三重苦とは、一体どういう状態だろうか?

試しに、耳栓をして、目をつぶり、自分の周りを歩いてみた。

もちろん、年中過ごしている家の中なので、ある程度は、何が・どこにあるかは分かる。


けど、やはり足元はおぼつかなくなる。

いつも過ごしている家ですらこの有り様だ。

一歩外に出ようものなら、たちまちその場に立ちすくみ、怖くて身動きが取れなくなってしまう自分の姿が容易に想像できた。

聞こえない、見えないという状態は、怖すぎる。

でも、この「怖い」といった概念も、幼い頃のヘレン・ケラーは持ち合わせていない。

なので、音が聞こえずとも、目が見えずとも、なりふり構わず動き周り、非常に活発に暴れまわっていたのだとか。

そんな「じゃじゃ馬ヘレン」のもとに、ある日、アン・サリヴァン先生がやってくる。


ちなみに、サリヴァン先生自身も、視力に障害を持ち、視界が良好とは言えない状態だったのだ。

そんな中、人生初の仕事として請け負ったのが「ヘレンの家庭教師」である。

いやいや、人生初の仕事にしては、超絶ハードすぎやしないか・・。


ヘレンとの生活は想像を絶するほど大変なものだったようで、癇癪を起こすヘレンに対し、

サリヴァン先生もしつこく、しつこく、指文字を使って「モノの名前」を教えようとする。


だが当然、すんなりいくわけもなく、非常に苦労する。

それでも、サリヴァン先生は諦めない。

ヘレンを甘やかすことなく、しつこく、何度も何度も繰り返し、指文字を使って「コップ」や「人形」などの「名前」を教えるのだ。


で、
そんなサリヴァン先生の献身的な教育が実を結び、

ついに、冒頭に紹介した「1887年4月5日」に”奇跡”が起こる。



サリヴァン先生がヘレンの手に「水(water)」となぞったとき、ヘレンの中で何かが繋がり、そして気付いた。


この冷たくてザバザバした何かって、「水」っていうんだーーー!!!


みたいな感じだろうか(あくまで想像だけど)。

「言葉・名前」という概念を知ったヘレンは、身の回りの「モノ」に付けられている「名前」をドンドン覚え、2ヶ月後には手紙を書くまでになったんだとか。

凄まじい知的好奇心。


そもそも、「言葉」という「概念」を知らない状態って、どういう状態だろうか?


残念ながら、想像すらできない。

想像するにしても、「言葉」を用いて想像するしかないから、その時点で矛盾している、不可能だ。


言葉を「すでに知っている」し、「いまさら知らないことにはできない」のだ。


ましてや、今この瞬間にも、「言葉」を用いて文章を書いているわけだし、「言葉という概念がない世界」なんて想像できるはずがない。


だからこそ、ヘレンのエピソードを聴いた時、僕は震えた。


ヘレンが「言葉」という概念を知った時、一体どんな感情だったんだろうか?と、すごく興味が湧いた。



そのときのインパクトたるや、世界がひっくり返るどころではないはず。


真っ白な霧に覆われて、どこもかしこも「モヤモヤ」している世界だったのが、一瞬にして「コップ」・「人形」・「水」という「名前」が浮かび上がっている世界へと変わったわけだ。まさに別世界。


身近な事例だと、「マツコの知らない世界」という番組が分かりやすいだろうか。

かなりマニアックな趣味を持っている方々が、マツコに対して自分の趣味嗜好をプレゼンする番組だが、

今まで観たことが無い「マニアックな世界」を知るということは、

まさに「自分の観ている世界が変わる・広がる」ということに他ならない。


そして、ヘレンにとって「名前」という概念の獲得という出来事は、「世界が変わる・広がる」という感覚を、何百倍、何千倍にも強めたようなものだったんじゃないかなと思う。


加えて、サリヴァン先生の気の遠くなるような教育にも感動させられた。

サリヴァン先生は、ヘレンが興味を示した「モノ」や「行動」の「名前」を、ひたすら手になぞり続け、「言葉・概念」を教え続けたのだ。


その行動がどれほど大変なことか、
イメージしてみるとこんな感じ↓

「人形」という概念を教える場合、

ヘレンが「クマの人形」に興味を示したとして、手に「人形(doll)」と、なぞる。

次に、「女の子の人形」に興味を示したとき、同じように「人形」となぞる。

そしてまた次も・・

という感じで、「〇〇の人形」をひたすらなぞり続けた結果として、

やっと「人形」という概念を獲得できるのだ。


つまり、「人形」という言葉はあくまで「概念」であって、”それ自体”を伝えることはできない。


なので、個別具体的な「クマの〜」とか「女の子の〜」をひたすらに教え続けることで、

ようやく「なんか柔らかくてふもふした何か=人形」という、「抽象的な概念」が獲得できるということ。

まさに、気の遠くなる作業。サリヴァン先生の姿勢には脱帽である。


以上、僕が印象に残っているヘレン・ケラー&サリヴァン先生のエピソードを紹介してみた。


ヘレンの話を聴くと、「世界が広がる気付き」というのは、まさに”奇跡”だと感じる。

そして、「気付き」という奇跡は、決して他人からは「見えない」し「聞こえない」し、言葉だけを話したところで「伝わらない」。


やはりそれは「自分で気づく」ことが欠かせないのだ。
(※「自分で気づくことの大切さ」は、こちらの記事でも紹介したのでよかったらどうぞ)

サリヴァン先生も、もちろんすごい。けど、やっぱりどれだけ熱心に教育したとしても、

最後のパズルのピースをはめるのは「自分(ヘレン自身)」なんだなと、改めて思う。


コテンラジオのヘレン・ケラーのエピソードはこちら↓
マジでオススメ。

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