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2025/02/20 「文」には「脈」が含まれるのか?

【2025/02/20】豆日記:文(ふみ)には、脈(みゃく)が含まれるのか?ということについて考えてみる。

「文」とは、書き記された言葉であり、意味が汲み取れるようにまとまったもの。「脈」とは、モノゴトの繋がり、続いている様子。

まず、「文には脈が含まれている」と仮定してみる。文脈という言葉どおり、言葉と言葉が繋がり、流れているからこそ、「意味」が汲み取れる・見いだせる。

たとえば、文の、ある箇所の、特定の言葉「だけ」を拾い読みした際、そこから意味が見いだせなくなるのは、その言葉に含まれているはずの「脈」を見失ってしまうから。

では、文には脈が含まれており、だからこそ「文」と呼ぶのだとしたら、「脈がない文」は「文」とは呼べないのだろうか?そもそも、「文脈がない文」など、ありうるのか?

たとえばここに「ケータイさささTAKARA」と、書いてみる。

上記の文字を読んでも、正直、意味が分からない。これはいったい「どういう意図で書かれたものなのか?」という疑問が湧いてくる。

ケータイを使って何をするのか?さささって何?TAKARA?おもちゃメーカーがどうかしたのか?などなど、疑問は湧いてくれど、やはり、そこから「文脈」は見いだせない(無理やりこじつけることはできるが、一見すると意味不明だ)。

ということは、「文脈がない文」は、「文」ではなく、ただ単語が並んでいるだけの文字列であり、記号であり、読解を拒む無意味の塊なのか?

…いや、一概にそうとは言えないかもしれない。

なぜなら、仮に「ケータイさささTAKARA」という文字列に対して、書いた本人(僕が)がなんらかのメッセージを込めていて、一見すると文脈が見いだせないだけで、しっかりと「意図が込められた文である」という可能性もあるからだ。

それは結局、「脈が含まれている文」と、呼べるのではないのだろうか。

たとえ意味不明な文字列に見えたとしても、文脈が含まれているかどうかを読者が判断することはできない。

であれば、極論を言えば、どんな文字列にでも「脈が含まれている」とも言えるような気がしてくる。

…まあ、だからなんなのだ、という話ではあるけど、考えたくなったから考えてみた。そして、なぜ、「文と脈」について考えたくなったのか、というのが、正直思い出せない。今日の行動・着想メモにもそれっぽいものが見当たらない。…という背景も、一種の「文脈」と言える。

日記なんてまさに、無数の「脈」が含まれている「文」ではないだろうか。

たとえば今日、突然に「〇〇さんと喧嘩した」と書いたとして、その文には、それまでの日々の中での喧嘩するに至った経緯(脈)が隠れているわけで、その見えない部分を観ようとせず、表面上の言葉だけを捉えると、大変な勘違いをしかねない。

もちろん、いまこうやって書いている文にも、僕が普段から考えている「脈」がなにかしら含まれているわけで、自分自身の思考の「脈」を知ることができるのも、日記の効能かもしれない、なんて思ったりもした。

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