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【連載小説】バックミラーの残影 2

            見えない道程

 退院してからしばらくの間は、澄子は、ベットに寝たきりの状態で、夜中も橙太と息子の雅之がベットの近くに寝て様子を見守った。家で暮らすようになって二日三日は、澄子も家に戻った安心感からか穏やかな状態だったが、そのあとは次第に自我をあからさまに表すようになっていった。
 病院の先生からは、認知の状態が幾分低下していると言われていたが、確かに、今日は何日で曜日はというようなところで、分からなくなることが散見された。ちょっとした物忘れとは違うように橙太には感じられたのだった。
 日常の家事の分担は、大まかに分けると、橙太は、一階の掃除と、食料の買い出し、食事の準備は、朝食と月曜、金曜の夕食ということにし、息子の雅之は、二階の掃除と洗濯、食事は、昼食と月曜、金曜以外の日の夕食とした。澄子の身辺の世話は、二人でやることにしたが、かって介護職の経験があり、また若くて力のある雅之に負うところが結構あった。
 そのためとは断定できないが、しだいに澄子の雰囲気に夫の橙太を軽んじる言動が見られるようになった。

「お父さんは、私の面倒を見たくないんでしょう」
「そんなことないよ。雅之と分担してやっているんだから」

「服の着せ替えも全部雅之じゃないの」
「朝食は、私が準備しているから、雅之が着せてるんだよ」
「噓つき。やりたくないのは分かっているんだから」

 こんな調子で、かみ合わない話のやり取りがその後も毎日のように続くようになった。事態の理解がまるで無いようで、澄子の欲求面からみれば表面的には辻褄があっており、それに応えられない夫に不満がつのっていったように見受けられた。
 病院で現れた、せん妄については、家に帰ったら消えるのかと思ったがそうはならなかった。帰宅してからの蜜月の期間が過ぎると、突然あの言葉が発せられた。橙太が健康維持のためのウオーキングから帰ると言い出した。

「さっちゃん、元気だった?」
「さっちゃん?誰の事?ひとりで散歩してきただけだよ」

 もちろん橙太には、何のことか分かったのであるが、妻は、何十年も前のころに気持ちが若返ったのかと訝しんだ。男の人は、妻が出産とか病気で入院した時に浮気するんだそうよと、澄子が冗談めかして言ったことがあるが、まさか本気で心配していたのかと、今更ながら唖然とした。妻のこのセリフは、言い方を変えながら、ずっと続く事になった。
 この齢になって、もはや浮気も何もないのだけど、気持ちの若返った澄子には、病院でのせん妄を事実と思い、嫉妬しているのだと橙太には思われ、現実が把握できない妻に悲しみを覚えた。本当はすべて分かっていてわざとからかっているのではないかとも思い、それならそのほうがずっといいと思ったりもした。
 退院してすぐのころは、澄子は、ベットの縁に座らせても、自力ではその姿勢を保てず、すぐに倒れてしまったが、日数が経つにつれて、在宅リハビリの効果も出てきたのだろうか、だんだんとそのまま座っていられるようになった。ご飯も普通に食べれるし、体重も徐々に増加していった。
 そのように体力が回復したこともあり、ケアマネジャーの村越さんにお願いして、近所の介護施設を紹介してもらい、週二回ディーサービスに通うことになった、もちろん歩けないので車いすに乗ったままであるが、橙太と息子、雅之の心身の負担軽減に大いに役立ったのは言うまでもなかった。長男の健太は、遠方に就職し滅多にうちに帰れないし、結婚して家を出た娘の真奈がたまにうちに来て面倒を見ることもあったが、ほとんど当てにできなかった。そんな訳で、橙太と雅之の二人にとっては、本当に息抜きのできる日となった。

 これで、いつの間にか行けなくなったウオーキングもできるようになったし、と安心していたのも束の間で、心の問題は少しずつ増幅していった。橙太の家事分担の一つに食料の調達があり、週に二回ほどはスーパーマーケットに買い出しに行っていたのだが、これに時間がかかりすぎると澄子が言いだしたのだ。

「外に出かけてから帰るまでずいぶん時間がかかるわね。何してきたの。さっちゃんと遊んできたんでしょう」
「スーパーに食料品を買いに行ってきたんだけどね。遊ぶ時間なんかないよ」

 家族の食べ物を買いに行ってるのに、礼も言わない妻に、橙太はさすがにむっとして、幾分きつい口調で言い返した。

「本当のこと言われたから怒るんでしょう」

 澄子のとことん逃げ場のなくなるまで相手を追い詰める追及が始まった。

「根も葉もない嘘だから怒るんだよ」
「嘘じゃないわよ。近所の人たちが皆見ていて教えてくれるのよ」

 この病気になって以来、近所との接点はないはずなのに、ぬけぬけと本当のように言う妻の澄子に、橙太は病気であることも忘れ大きな声を出していた。それに対し、澄子は、一瞬驚いたような表情を見せたものの、それほどの恐れの反応は見せず、むしろ夫が怒りだしたことに自分の問い詰めとの連動とは思わないのか
「もっと怒れ、もっと怒れ」とはやし立てるのだった。

 橙太にとってどうにも始末に負えない厄介な相手になった感があった。時々、何もない時は、二人で昔話をして共通の郷愁に浸ることもあり、ことのほか嬉しい気持ちになったりもしたのだが、介護の扱いに気に入らない事があると、澄子は、橙太をこっぴどくこき下ろすことが常になった。無骨な男手だけでは優しさにかけ、介護を受ける立場に立ってみれば、行き届かないところが多すぎて安心感が出てこないとも考えられるが、理屈では考えられない体感上の問題であり、橙太にはどうしてよいか分からなかった。できることは、可能な限り相手の立場に立つという思いやりの心掛けが必要だと考えるのだが、二人の微妙な感情のやり取りの中で、冷静な対処にかける場面が出てくるのは、必然の経過と思えた。時には、やり場のない怒りと憎しみの感状が胸に渦巻くこともあったのだ。

「お父さんは何をやっても遅いんだから。おそまつ。おそまつ」
「慌てては、何ももらえないよ」

 橙太は、妻は病人なんだからと自分に言い聞かせ、極力自制は試みたものの、我慢しきれず、時には感情を顕わにすることがあった。それを見ても、澄子は自分のストレス解消を制御できないのか、いつの間にか、同じように橙太に悪態をつくのだった。
 考えてみると、自分では歩けないし、一人では人並みのことができない身体となっては、情けなさがつのるばかりで身近な人にぶつけたい衝動が起きるのは当たり前と、橙太には理解ができ可哀そうと思っていた。気持ちが高ぶっていないときには、穏やかで普通の会話のやり取りができているのは、橙太にとっては心休まるひと時であり、救いでもあった。普通の時と嵐の時が、ある期間を置いて交互に起こるようなのだ。だからと言って、橙太には何もできない、澄子に成り代わることはできないし、同じ感情を持つこともできない。ただひたすらに、同情しながら澄子の不満の受け皿となり、言葉の暴力に耐え続けることが宿命とも思ったりした。

「あなたとは結婚しなければよかった。何もいいことなかったんだから」
「そんなこと今更言っても遅いよ。五十年も前に自分で決めたんじゃないの」
「あなたは馬鹿だから。あーあ。損した、損したわ」
「そうだろう。結婚前に気付けばよかったのに。後の祭りだね」

 橙太は、自嘲気味に澄子に同調したものの、あの時は、二人とも未来に甘い夢を見ていたのは間違いのない事実だった。とにかく、まだ二十代前半で老後のことはこれっぽっちも頭になかったし、考えようともしていなかった。それがどうだろう。せっかく築き上げてきた家族の絆が今にも壊れそうな状況になろうとは、予想もしない事態が橙太に襲い掛かっていた。齢を取ることは、だれにも止めることはできない。古来不老不死の薬を求めた逸話はいくつかあるものの現実にはあり得ない話で、昔より寿命が延びたのは事実ではあるが、橙太には、そのため、その老後が返って幸せに全うできない事態を引き起こしているような気がしてならなかった。
 橙太と澄子のこのような相克を見て、息子の雅之が慨嘆したことがあった。

「家で介護すれば、お互いを思いやり、感謝しながら家族愛でうまくやっていけると思っていたんだけどそうならなかったなあ。昔は、家族ですべて助け合いながらやっていたんじゃなかったの。どうしてそうならないんだろう」
「昔は大家族制で、社会で介護する仕組みもないし、家族で面倒を見る以外なかったんじゃないの。それが当たり前の世の中で、疑問の余地はなかったんだと思うよ」
「ふーん。そうかなあ」

 雅之は、自分の良かれと思っている家族の在り方とあまりにもかけ離れている現実に、どうにも腑に落ちない風情で天井を仰いだ。
 その現実をみれば、雅之が母の介護に一生懸命に取り組んでいるのだけど、物の弾みで、痛みを与えることも出てくるのだ。そんな場合でも、澄子の怒りの矛先は息子ではなく、夫の橙太に向けられた。橙太はそのことに気付いたのだが、それを言いだせば、今度は、母の介護でストレスを抱えているのであろう息子との間に相克の火種をまくことになるし、そんな事態は避けたかったので、ずっと心の中に秘めることになった。

 橙太の大学生活は四年目を迎えていた。時間的に余裕のない中で、澄子の眠っている時間にやるとか、早朝にやるとかで、何とか計画通りに進めており、後はこの一年間で十五科目を履修すれば卒業できるまでになっていた。今ではその学業が、澄子の介護で生じる重苦しい気分から一時でも解放される貴重な気分転換となっていた。
 その時、橙太は、残る科目のうちの一つ(都市デザイン論)に取り組んでいた。この科目のテキストは、イタリアの美しい町のことを扱っており、その美しさの理由を余すところなく述べていた。自然環境と程よく調和した町の美しさは、そこに住む住民が、長年にわたってその町をこよなく愛し、大事にして作り上げてきたというのだ。その町の美しさの秘密に触れ、橙太はとても感銘を受けた。美しいその町の写真を見るにつけ、古くからの伝統がそのまま現代に続く景観美に心打たれた。その景観は、その町だけではなくイタリアの至る所にあるというのだ。
この科目のレポートの課題の中に、日本の町の美しさをあなたの知っているところについて述べてくださいというのがあった。橙太は、それを見て、東北にも秋田県角館の武家屋敷とか、酒田市の山居倉庫あるいは弘前城などの景観を思い浮かべたが、そんな著名なところでなく、本当に身近な自分の住んでいる団地に美しいところはないのかなと考えてみた。
 日頃から団地内外をウオーキングしているので、おおよその見当はついていたが、やはり実際に歩いて探査してみて確認しようと考えた。時間帯は、妻の面倒を見る日中は無理があるので、早朝に歩き回ることに決めた。初夏の気候の穏やかな時で、朝早く外に出てみると、空気もすがすがしく程よい冷気で、眠気もすぐに吹っ飛んでしまっていた。
 まずは、団地内にあるいくつかの公園を回ってみようと思い、自宅より遠いところから始めようと考え、一丁目の公園を探査した。公園内の遊具の配置や樹木と花壇の状況を観察し、周囲の街並みとの対比も見たりして、美観の度合いを思料した。写真を何枚か撮って、次の公園に向かった。
どの丁目にも公園は複数あったが、大きさは色々だった。三丁目に小さな公園があった。中に入っていくと、ベンチに高齢の男の人が座っていた。

「お早うございます」
「はい。お早うございます。早朝散歩ですか」

 男の人は、かむっていた緑色の帽子を取り、コロナ流行のためマスクは取らなかったものの、白髪をあらわにして挨拶を返してきた。

「え。いや、散歩じゃないですが、通信教育のレポートを書くため団地内を見て回ってます」
「通信教育?放送大学かね?」
「それじゃないです。芸術大学です」
「はっ。芸術?」

 男の人は、驚いたように声を上げ、マスクをしていて表情もはっきりしない橙太の顔を見た。

「齢も齢だし、勉強するのも最後だと思いましてね。ところで、この団地は永いんですか」

 橙太は、多少気恥ずかしさを感じながら言い訳をし、話題を転じようとした。

「造成直後に入ったんだけどね。高台にあるから、家も今と違って建売じゃないから、ほとんど建ってなくて、宅地ばかり広がっていて、遠くに仙台の中心部にあるビル街がすっかり見えたねえ」

 男の人は、昔を懐かしむようにしみじみした口調で、今では団地の家屋しか見えない南東の方角を眺めた。

「この公園は、住み始めたばっかりの数少ない住民が、子供たちの憩いの場所ということで空き地を整備して手作りで作ったんだよ。当時は蛇もいたんだ」

 道理で、面積はあまりなく遊具も少なめで、コンパクトな公園ではあった。それでも住みよい新たなコミュニティづくりのため知らない人達が集まって協力し合ったのだ。新たな少家族つまりは核家族が居宅とともに根付く愛着のよすがともいえた。

「あれから五十年余りになるが、あの当時の人達は、すっかり年老いて、亡くなったり、介護施設に行ったりで、家の跡地に新しい住宅が建ち、若い人達が入ってきている。世代交代の時期になって、私らの子はみんな外に出ちまって、一人も残らない。なんか寂しい気がしてねえ」

 男の人は、自嘲とも愚痴ともいえる言葉を漏らし、橙太を仰ぎ見た。

「うちも同じようなものですよ。私もこの団地に家を建て住んでますが、たぶん私のほうが貴方よりも若いと思いますが、早いか遅いかの差で状況は変わりません。いずれ介護施設か何かでしょうから家はなくなるでしょうね」

 妻の澄子の介護で、行く末のことを思い悩んでいる心情が、橙太の言葉にもにじみ出た。確かに橙太の自宅の周辺でも、何軒かの家屋が壊され、更地になり、家が建てられ、新しい若い家族が住みついている。世代交代は、確実に進んでいるのだ。家が変わり、人が変わり、街並みが変わっていく。この変化は、イタリアのあの町とは異なり、ほとんどが古い家屋は壊され、新しいものに置き換えられるというもので、伝統の調和美の破壊で進行していく。

「あの鉄棒でね、息子の逆上がりの練習をね、懸命に手伝ったんだよ。何日かしてできるようになった時は、息子と一緒に喜んだね。家に帰って、息子が母親に報告しているその場では、私も夢中になって息子の快挙を妻に、息子よりも声高に話していたんだね。後で大笑いになったけど。あの頃が一番良かったのかなあ」

 男の人が、家族の絶頂期ともいえる思い出話を橙太に披露し、その時の情景を思い出しているのか、鉄棒をしばらくの間見続けていた。マスクの上の両目は、心なしかわずかに濡れているようにも見えた。美しい町の探査で美しい家族の話に会えたような気がして、橙太の心も潤んだ。美しいのは、何も外見だけではない、むしろ、人々の美しい心の発露が外見となって表出し、美しい町になるとの理を見つけた気がしていた。


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