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【短編小説】学園の事件簿 第5話

第5話         本当は私がゆりえ      

あらすじ
仙台の私立高校で、女子生徒が公園に置き忘れのブローチを持ち帰り交番に届けるが、その日からブローチの悪夢に襲われる。指導教員と担任が、持主の他校生徒の母親から事情を聴くと、その生徒も悪夢に苦しみ、ブローチは女子生徒にあげるという。終にブローチに潜む奇妙な話が明らかになる。

本文

 月日の経つのは早いもので、今年も五月中旬になった。さわやかな五月のはずが、薫風とは夢物語なのか、早くも真夏の到来のようで、二十度を超える日が幾日かあった。それでも夜になると温度は下がり、真夏のような熱帯夜はなく寝苦しくなることはなかった。
 今年、十七歳となった戸山友香は、居間で家族とテレビを見ていたが、二十二時には、二階の自室に戻り、ベッドに入った。すぐに寝息を立てて、眠りに入ったものの一時間位過ぎたら、家の近くに火山が炎を噴いた気がして目が覚めた。寝ぼけ眼で周りを見たが、薄暗い豆電球の光の下で、天井の茶色の板や机や書棚、窓にひいた緑色のカーテンといつもと変わらない部屋の情景がぼやけて浮かんだ。

「さっき観たテレビのドラマのせいだわ」

 友香は独り言を言って、デジタルの置時計を見たら、午後の十一時二十分を過ぎていた。

(ケッキョ、ケキョ、ケキョ、キョ、キョ、キョ)

 その時、夜中にもかかわらず、暗闇の中を、おかしな鳥の鳴き声が急速に家に近づいてきて、すぐに遠ざかっていった。鶯の幼鳥かと思い、小学生の時に鳥類図鑑で調べたことがあるが、それは、ホトトギスという渡り鳥で、鶯の巣に卵を産み、鶯にひなを育ててもらうのだという。それだけでも大変なことなのに、ホトトギスのひなは早く孵り、まだ孵らない鶯の卵を巣の外に背中で押し出すのだという。
 それを読んで、友香はホトトギスをずるくて怖い鳥だと思った。鶯が何も知らず、自分の子として育てると知って、そのおぞましさに小さな胸をおののかせた。ある日、小学五年生の時と覚えているが、横にしたり、斜めにしたり、鼻を押さえたり、目じりを指で上げ下げしたり、口角を上げたり下げたり、笑ってみたりと鏡で自分の顔を丹念に見て、全然母親に似ていないことに気が付いた。何日か悶々としていたが、思い切って母に尋ねて見たことがある。

「あのね。私、本当にママの子なの?」 
「えっ。どうして。ママの子に決まっているじゃないの」
「だって。顔の形が違うし、鼻だってママのは高いし、私のは丸い。唇は、ママは厚ぼったいけど、私は薄っぺら。眼の形も違うし、まるっきり似てないじゃない」
「馬鹿ねえ。大人になればママと同じようになるよ。えくぼは今でも同じところに出るじゃないの」

 そう言って、母の君子が友香を抱きしめてくれて、無性に涙が出て、泣き続けたことが今になって思い出された。それでも自分ではなく、鳥の世界ではあるが、本当の子でないのに自分の子と信じて育て育てられる親子の不条理を思うと、ホトトギスの鳴き声を聞くたびに、いつの年も、友香は憂鬱な気分になり落ち込んだ。

 次の日の夕方、仙台の私立高校二年生の友香が、学校からの帰宅途中、地下鉄を降りて、自宅までの途上にある公園のそばを通り抜けようとした時、何か光るものを見た。それは、公園の端に植えられた朱色のツツジの花の上からだった。友香が不思議に思って近づき目を凝らすと、真っ赤な夕日に照らされてツツジと同色の片手ぐらいの大きさの布袋が目に入った。
 夕日の照り返しで、何もかも真っ赤な景色の中で、友香はその袋を取った。触ると固いものが入っていたので取り出してみると、それは金色の地金にピンク色のサンゴをはめ込み、さらに周りに何やら光る石をあしらったブローチだった。友香はそれを見て、一瞬目がくらみ、慌てて袋に戻し、まるで悪さをしたかのように周囲を窺った。それから、その袋をもとのツツジの上に戻そうかと思ったのだが、なぜか人に取られてはいけないとの考えが頭をよぎり、ひとまずは家に持ち帰ろうと思った。

「お母さん。公園のツツジの上に落ちていたので拾ってきちゃった」

 家に帰ると、友香は、すぐに夕食を作っている母の君子に見せた。

「何これ。すごい高価なブローチじゃないの。ツツジの上に落ちてたといったようだけど、これは置き忘れたんじゃないの。明日、交番に届けたらいいね」

 君子は、ブローチを見るなり、そう言って、すぐに夕飯の支度に戻った。
 夕食には、仕事から定時帰宅の父の金吾と中学生の妹の喜乃も加わり、久しぶりの全員会食となった。父の金吾はビールを飲み、上機嫌だった。

「友香。お母さんから聞いたけど、置き忘れのブローチだって?見せてごらん」
「うん。これだよ」
「どれ。えっ。金が土台で、ピンクのサンゴがはめ込まれ、縁の石はダイヤモンドじゃないか。裏を見れば、名前かな、ゆりえと彫り込んである」

 父の金吾が目をむいて、びっくり声で友香を見た。

「そうなんですよ。あなた。持主が懸命に探し回っているんじゃないの。明日、交番に届けたらいいと思いますよ」

 君子が思案顔になって、先ほどと同じことを言った。

「私にも見せて。見せて」

 妹の喜乃が、身体を揺らして、金吾の持っているブローチに手を伸ばした。

 夜の闇が地上を覆いつくし、少しずつ日中の暑気を空中に巻き上げる。遠くで犬の遠吠えがした。するとそれに呼応するかのように別の方角で犬が吠えた。次から次と遠くで近くで、犬たちが一日の活動の成果を知らせあうのか、その吠え声が夜のしじまで木霊した。    

「お願い。私を離さないで、そばに置いて。お願い、お願いよ」

 その時、そんな声が耳元でしたので、友香が目を見開くと、目と口のついた大きなピンク色のブローチが飛んでいて、何度も何度も訴えかけてきた。

「私のものでないから駄目よ。無理よ」
「持主はあなただから、離さないで。お願い。お願い」

 友香が断っても執拗にブローチの懇願が続いた。

「ハッ」として友香は目を覚ました。そこは豆電球で薄暗い、いつものベッドのなかだった。

「ケキョ、ケキョ、キョ、キョ、キョ」

 ホトトギスが鳴き叫んで近づき遠ざかっていった。友香は身震いしながらスタンドを点灯し、机の上の布袋からブローチを取り出し眺めた。それは、スタンドの灯にピンク色に輝き、友香を蠱惑した。

「ケキョ、ケキョ、キョ、キョ、キョ」

 再び、ホトトギスの鳴き声が家の近くに迫り、すぐに遠ざかった。 

 次の朝、友香は眠い眼をこすりながら起き出し、身づくろいの後、朝食の席にいた。

「友香。やっぱりね。あのブローチ、交番に持っていきましょう。今日は土曜日だから、一緒に行こうね」

 母の君子が、食卓に座るなり、優しく言いだした。それに対し、友香はすぐに返事を出せず、黙々とパンを噛んだ。

「ねえ。どうなの。黙っていたんじゃ分からないわ」
「いや。あのブローチは私のものよ」

 なぜか自分でも分からずに、内なる衝動を抑えきれず、友香は母の話を拒絶していた。    

「私のものだって?あれは……」

 君子がびっくりして言いかけると、父の金吾が割って入った。

「何を言うんだ、友香。人様が置き忘れて困っているんだ。お前はねこばばをする気か。そんな風に育てた覚えはない。ここに持ってきなさい。私が届けてくるから」

 今まで見たこともない剣幕で、金吾が友香にまくしたてた。そこまで言われて友香は怖くなり、しぶしぶ金吾にブローチを預けた。

 その夜、夢に出てきたブローチは 
「持主はあなたよ」といった。

 この信じがたい夢の話を友香はなぜか信じたい気がしたのだ。この家族での何となく感じる違和感や疎外感の正体は何なのかを測りかねていた。両親と妹と何となく違いがある気がしてならなかった。あるいは、単なる思春期の反抗なのかもしれない。誰でもが大人になるための通過の門かもしれなかった。それでもと友香は思った。誰も知らない本当の話があるなら、ありえない話でも、とことん、それを突き詰めてみたいと思ったのだ。

 それから、毎晩、途絶えることなくブローチは友香の夢枕に現れた。

「私を連れ戻して。連れ戻して」

 ブローチの泣き声が友香に迫り、周りを飛び回る。

「私は持主じゃないわ。ないのよ」

 友香が必死に訳を言うが聞き入れず、ブローチは訴える。

「本当の持ち主はあなたよ。お願いだから、連れ戻して、連れ戻して」

 はっと目が覚めると、ホトトギスの鳴き声が近づき遠ざかる。鶯の巣を求めて、偽りの親子を作るため、暗闇の中をさまよい飛ぶ。何という理か。親子の情愛を捨象しての子孫の持続、偽りの親子、これらすべてがこの世の現実なのだ。

「ケキョ、ケキョ、キョ、キョ、キョ」

 ホトトギスがまた来て遠くなる。友香はホトトギスの鳴き声を聞き、ふと、鶯に育てられるホトトギスの子の心を思った。自分が先に孵って、鶯の卵を放り出すくらいだから、その運命を何とも思っていなくて、かえってそれを受け入れ、己が生き延びるため、果敢に戦っているのかしらとその強靭さをうらやましくも感じさえした。 

 五月に雨の降る日があった。低気圧が日本海から移動し、それに向かって南から湿った暖気が流れ込み、太平洋岸に大雨を降らせていた。たたきつけるような雨が風と共に教室の窓にまとわりついた。友香は、雨粒が窓を伝うのを眺めているうちに眠くなり、教科書の影でうつらうつらしていた。後ろの生徒が気付き鉛筆で背中をつついたが、気が付かず、果ては、突っ伏して寝息を立てて眠り込んでしまった。周りがくすくす笑うし、さすがに国語の玉置先生も知らんぷりも出来ず、近くの生徒に起こすよう頼んだ。すかさず、後の生徒が席を立ち、友香の両肩をゆすった。

「何。ご飯?」

 そんなことを言って、目を覚まし、周りをうつろな目で見まわした友香を見て、生徒の皆が笑った。

「おい、おい。ここはホテルではないんだから、寝るなら後にして」

 玉置先生も仕方なさそうに笑って、授業の続きに入った。友香はぼんやりした意識のまま、身を縮め、授業が早く終わるのを待った。この事は、早速、玉置先生から担任の畑石孝信先生に連絡され、呼び出された友香が教員室のソファーに座っていた。

「戸山。いったいどうしたの。何かあったのかな」

「ううん。何もないです。ただ眠かっただけです」

 畑石先生の穏やかな問いに髪を後ろで結んだ卵型の顔に精いっぱいの笑みを浮かべて友香が力なく答えた。

「そうでもないだろう。ここ三日ぐらいは顔色も悪く、元気がないじゃないですか。力になれるところは何とかするから、ざっくばらんに相談してくれたらいいよ」

「本当に何でもないです。授業は眠らないようにしますから」

 さらに畑石先生が元気のない友香の様子を見て、その訳を追求したが、満足な答えは返ってこなかった。

「おや、おや。戸山さん。眠そうですね」

 そんな言葉をかけながら、皆橋公子先生がニコニコ笑いながら現れ、ソファーに座った。

「すみませんでした」

 友香はそれだけを言うと、顔を下に向けて黙った。

「戸山さんのお母さんは、私と漢字は違うけどきみこさんというのよね。さては、お母さんに叱られたのかな」

「そんなことじゃないです。毎晩ホトトギスがうるさくて眠れないんです」

 母の名前を出され、いきなり垣根をはずされた友香は、母と同じ名前の皆橋先生に親しみを急に感じ、救われたような気持ちで甘えた。

「ホトトギスですか。先生が追い払いましょうか」

「先生は鳥じゃないから無理ですよ」

 皆橋先生の軽口に友香は顔に生気を取り戻して笑った。

「本当言うと、夢から覚めるとホトトギスが鳴いているんだ」

「夢。夢ですか」

「そうなんです。ブローチがね『私を連れ戻して』と毎晩泣き叫ぶのです」

「ブローチって、あなた、口をきくんですか」

 皆橋先生が友香の話にびっくりして訊き返した。その驚きの顔を面白そうに眺めて、友香はそのあとすべてを語り、元気な足取りで教員室を出ていった。

「どうしたものかしら。先生」

 友香がいなくなると、皆橋先生が畑石先生に問いかけた。

「えっ。お茶ですか。お茶はそこにありますが」

「あらまあ。お茶じゃないですよ。戸山さんのことですよ」

「それなら、これで解決ですよ。あんなに元気になって戻っていったんだから」

「おほほ。解決どころか、これからですよ。あの怖い夢が消えるとも思えないし、もうちょっと調べる必要があるわね」

「えっ。えっ。何を調べるんですか」

 また、皆橋先生の探偵ごっこが始まったと畑石先生は、恐れをなしながらも直ちに探偵助手に変身した。

「まずは、ブローチを届けた交番に当たってみましょうか」

「はい。了解しました。すぐに交番に電話してみます」

 そのあとは、お茶を飲みながら、段取りの打ち合わせをし、二人はそれぞれの席に戻った。 

 三日経って交番から電話があった。それは思いがけない内容で、ブローチの持ち主の母親が、直接交番に来て会って、話をしたいというものだった。その日取りは、交番から電話があった日の二日後の午後二時と折り合いがつき、皆橋、畑石の両先生はその日、連れ立って交番に向かった。交番には、先に母親が来ていて、交番の警察官の仲介でお互いに挨拶を交わした。母親は、花園直子と名乗り、娘の名はゆりえで、公立高校の二年生だという。

「いえね。娘の言動があまりにも不可解なので、そちらの娘さんも高二と伺ったし、何か分かりあえるものがあればと思って、直接お話ししようとまいりました」

 直子が姿勢を伸ばし、一重の切れ長の目を両先生に向け、語りだした。細いとがった顎に特徴があった。

「まずは、私の話をお聞きください。もう十七年になりますか。ゆりえが生まれた時は嬉しくてね。主人と相談して、記念に高価なブローチを買って、お祝いしました。ゆりえは元気な子で何事もなく順調に育ちました。
 ところが小学五年の時にね『私はママの子なの?顔の形が違うし、目も鼻も口も似ていないよ』って真剣な顔で問い詰められたことがあります。とっさにお父さん似だからと言い逃れして、抱きしめてあげましたけどね。声をあげて泣いていました」

 それを聞いて、畑石先生が思わず、横目でチラリと隣を窺うと皆橋先生が落ち着かない様子で眼鏡に手をやるのが見えた。直子は、愁えに沈んだ目で長いまつ毛の陰から二人を見比べながら、警察官の出したお茶を一口含んだ後、さらに話を進めた。

「いえね。今年もホトトギスの鳴き声が聞こえるようになったんですけどね。あの娘はね、子供のころ図鑑で調べて、ホトトギスが鶯の卵を蹴落として、その巣に卵を産み、先に孵ったホトトギスの子が巣に残っている鶯の卵を背で押して外に出してしまうというんですね。娘は、鶯が可哀そう、さらには、違う親に育てられるホトトギスの子が可哀想と泣いていました。
 それは昔の話だけど、今年の五月になってね。朝起きてきたら泣きそうな顔で、『ブローチが、持主に返してと迫る夢を見て、目を覚ましたらホトトギスの鳴く声が聞こえた』と訴えてきたんです。夢の話だからと言い聞かせ、学校へ送りだしたんですけど、帰ってきたら、ブローチは公園のツツジの上に置いてきたというし、びっくりして公園に駆け付けました。懸命に探しましたが、どこにもありませんでした。幸い、良い方が見つけてくださり、戻ってきましたけど、その晩から娘の悪夢がまた始まったのです。ブローチに目と口が付き、『持主に返して、持主に返して』と娘を追い回すのです。いえね。夢の話ですよ。夢から覚めればホトトギスの鳴き声で、娘はすっかり消沈してしまいました」   

 ずっと聞いていて、畑石先生は、直子の妖しげな雰囲気に酔い、話の内容に惑わされ、陶然としていた。皆橋先生も直子の話の奇妙な展開に思考を止められ、聞き入った。話の間、友香とのあり得ない類似に気付き、背筋に寒さが走るのを感じたりもした。直子は、そんな二人の様子にちろりと目を走らせ、最後の鉄槌を打ち下ろした。

「それで、ブローチの願いを聞き届けたいのですが、これを是非とも交番に届けた方にお預けしたいと考えました。どうか事情をお察しいただき、この通りお願いいたします」

 直子が深々と頭を下げ、袋に入ったブローチを差し出した。意外な展開に対応できず、畑石先生は、ぼーっとしていたが、皆橋先生に膝をつねられ、はっと覚醒し、無判断で手を伸ばし、ブローチを受け取っていた。

「よろしくお願いいたします。それでは、これで失礼いたします」

 すぐに立ち上がって、直子はお辞儀し立ち去ろうとした。耳のダイヤがきらめき、ピンク色のシャツと金色のスカートが旋回した。畑石と皆橋の両先生が慌てて立ち上がり、お辞儀した。そして、二人が交番を出た時には、本当に母親なのだろうか、ブローチの化身は消え、影も形も見えなかった。夢を見たような気分で二人は周りを見回した。

「ブローチを戸山さんに届けたら、私たちの役目は終わりね」

 皆橋先生が感慨深げに横を見ると、畑石先生が応じた。

「そうですね。これでブローチも静まればいいですが」
「おほほ。畑石先生。それはどうでしょうか。これは家族の問題で、終わりの始まりではないかしら。誰かさんを見とれている場合ではないですね」「あっ。そうですね。アハハ」

 そう言われて、照れ笑いをした畑石先生の脳裏に、先ほどまで目の前で一心に話をしていた花園直子という美しい女性の面影が浮かんだ。ブラウンの髪に覆われた卵型の顔で、細い眉毛を上にして、一重瞼の切れ長な目が憂いを含み、緩やかな鼻梁の先の小丘の下で、淡いピンクの唇が切なげに言葉を紡ぎ出す。頭の動きで、ダイヤの耳輪が揺れる。ピンクのシャツに金色のスカート、ブローチの化身かこの女性。畑石先生が陶然と見とれていると、女性の顔に変化が起きた。徐々に、徐々に顔の年輪が消え皮膚が滑らかになり少女になった。時をさかのぼったその顔を見た時、畑石先生はすべてを理解した。

「先生。皆橋先生。分かりました。分かりましたよ」

 畑石先生が立ち止まったのを知らず、先に歩みを進めた皆橋先生の背に大声が届いた。

「そう。分かったのね。良かったわ」

 皆橋先生が、夕日を浴びて振り返り、淡紅の光の中で、生徒が難問を解いた時のように、嬉しそうに微笑んだ。  

 翌年の四月に戸山友香は三年生に進級した。三組の担任となった東馬寛六先生は、始業式前のクラスの顔合わせで生徒の点呼を取っていた。次から次へと名前が呼ばれ、いよいよ友香の番になった。

「戸山ゆりえさん」
「はい」

 ゆりえは、晴れ晴れとした顔で軽やかな声を出し立ち上がると、礼をして座った。寛六先生は、ゆりえを見て確認すると頷いて、次の人の点呼に移った。






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