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【連載小説】峠の向こう側 2

            剣術の道場

  今朝は、昨晩の土砂降りが嘘のように晴れており、明るい太陽が地上を照らしていた。家の縁側から見える庭には水たまりができて、トンボがおしりを水に突っ込み、卵を産んでいた。そんなところに卵を産んでもすぐ干上がってしまうのにと藤高は余計な心配をしながら、トンボの徒労をぼんやりと眺めていた。

「藤高。ちょっと来てくれんか」

 その時、奥の間から、父、創見の呼び声が聞こえた。

「はい。何か御用でしょうか」

 藤高が部屋に入ると、創見は書見をやめて、藤高に顔を向け、前に座るよう手で示した。

「家に戻って、だいぶ落ち着いたかな」
「はい。何やら平穏すぎて、気抜けになりそうです」
「ははあ。そうか。まあ、しばらくはよいではないか。忍者村では、お前の剣術の試合でわしも留飲を下げれたし、しばし骨休みと思えばよいだろう」「このままでは軟弱になりそうで、堪りません」

 藤高がなおも言い続けようとすると、創見は手で制して、意外なことを言った。

「ところで、お前があの村にいる間に何か変わったことはなかったかな」「はあ。別にないですね。毎日修練で忍者は大変だと思いましたが。私には務まりません。技も向上したとは思えないし、忍耐力はついたといえますが」 
「お前の修練の感想を聞いているのではない。村の動きのことだ」

 藤高の的外れな答えに創見は渋い顔をして、多少表現を変え、問い直した。

「村の動きですか。毎日変わりないですね。来る日も来る日も同じ顔ぶれで、同じようなことを繰り返していましたよ」

 あんな山の中の小さな村にそんなに変わったことが起こる訳がないじゃないかと藤高は、かえって不思議に思って父の顔色を窺った。

「ふむ。なければよいわ。楽天家のお前に訊くほうが阿呆というものだ」

 ついに父が諦めて、矛先を収めたのを見て、藤高は急に思い出したことがあった。

「そう言えば、たいしたことじゃないと思いますが、去年の秋に頭巾で顔を覆った侍が一人、頭を訪ねてきたことがありました」
「何。頭巾の侍じゃと。それよ。それ」

 創見はそれを聞くと、色めき立って目を光らした。

「だけど、その侍は長くはいないですぐ帰りましたよ」

 藤高には、頭巾を被っていたとはいえ、記憶の中をまさぐっても特段に変だとは思えなかった。そのことと関連があるとすれば、変になるのだが、その日から数日たって、村の男たちが黒装束姿で村の外に走り出ていったことがあった。そのことが記憶によみがえり父に告げた。

「何。黒装束で村から走り出ていっただと。ふーむ」

 創見が腕を組み考え込んだ。

「父上。何か懸念があるのですか。忍者ですから黒装束は当たり前じゃないですか」

 藤高は父の胸の内も分からず、無責任な意見を言った。

「アハハ。それもそうじゃ。何もないのに考えすぎというものだな。話は戻るけど、先ほどお前がこのままでは軟弱になるとか言っていたが、それでよいのじゃ。実を言えば、もっと軟弱になる話だが、お前もこれからは外に出る機会も増えることになるだろうが、人前では決してでしゃばるでない。言動を控えめにしてほしいのだよ」
「えっ。控えめな言動?どうしてですか」
「出る釘は打たれる、能ある鷹は爪を隠す。つまりはそれだよ」
「はあ。何のことだか分かりません。何か仔細があるのですか」
「これは我が家の代々の家訓じゃ。いずれ分かるときがあるだろう。それまで心して遵守せよ」

 まるで理屈抜きの一方的な話で、藤高は承服しかねたが、家訓とまで言われ、父のかたくなな態度に不満が募ったものの、それから先は、創見は何も言わず黙りこくった。開いた明かり窓から、庭に咲く白百合の花が見え、藤高の脳裏に忍者村の柴乃の顔がほのかに浮かんでは消えた。

 居間に戻ると、弟の宏大と妹の千鶴が二人で戯れ、母の玲が着物の繕いをしていたが、三人とも動きを止め藤高の顔を見た。

「藤高どうしたの。まるで腑抜けの様にひょろひょろして」

 母が心配そうに藤高に声をかけた。

「父上が、これからはあまり目立たないよう心掛けよと言ってた。何だか分からなくって。母上はご存じですか」
「あたしには分かりません。日頃から旦那様は、つつましく奥ゆかしくとおっしゃいます。人として、当然の振る舞いと思いますが」

 そう言われればなるほどと思いもするが、なんか釈然としない思いが藤高の胸に渦巻いた。その時、弟の宏大と妹の千鶴が両側からまとわりついてきて、藤高の思考が途切れて、気持ちがその二人に向かった。 

 仙台城下の北一番丁にある自分の家から凡そ半町離れた宮町の一角に剣術道場があった。この道場は練成館といい、道場主は、道村幸之進で伊勢の国の神坂宗乃丞が始めた木の葉真流の奥義を究めた剣の達人だった。
 この道場で、藤高は、忍者村から帰ったのち、剣術の修業を始めたのだが、父の言葉を聞いて以来、迷いが生じ、修練に打ち込めない日々が続いていた。今日も同年配で精悍な顔つきの彦治と申し合いをしていたが、何回やっても打ち負かされていた。

「どうした。藤高。今日は気合が入っていないじゃないか」

 それを見て。師範代の牧園源之進が藤高に活を入れた。

「はっ。どうにも力が入りません。今日はこれにて」

 藤高はそう断わりを入れ後ろに下がった。

「そうか。しばらく休んだら、今度は、助蔵の相手をしたらよい」
「はい」

 すると、一人置いて座っていた藤高と同年齢のふくよかな顔立ちの若者が目礼して挨拶した。

「よろしゅうお願いいたす」

 明るい明瞭な声だった。藤高も思わず目礼し挨拶を返した。

「よろしゅうお願い申す」    

 助蔵と相対して、藤高の目についたのは、剣というよりは、その物おじしない何の屈託もなく、心の屈折もないようなおおらかな身のこなしだった。見れば全身隙だらけで、どこからでも打てそうな気がしたが、なぜか打とうとの気構えがしぼんでどこかに消えてしまったような感じがした。助蔵はそんな相手の気持ちに関係なく、自信満々の体で恐れの気配もなく打ちかかってくる。まるで打たれるとは全然思考の中に無いようなのだ。藤高はなすすべもなく後退した。

「どうしたのだ。藤高。まるっきり剣になっていない。今日はこれまでだな」

 師範代の牧園があきれて藤高の稽古をやめさせた。

「何かあったのか。腑抜けのようだ」
「どうしてか分からないけど、とにかく意欲が湧かないし、力が出ないんです」
「そうか。今日は帰って、しばらく休んだらどうだ」

 師範代も手の施しようがなく、家に帰ることを勧めて、藤高から離れていった。 

 二日ほど家にいて、藤高は考えた。控えめな生き方とはどんなことなのか。それは他の人と競い合って勝とうとしないことではないかとの考えに到って心のつかえがとれたような気がした。面長で端正な顔に生気が戻った。父の創見はいずれ分かるときが来るというし、何もあわてて結論を出すことはないとも考え、とにかくそれまでは何事も中庸につこうと心に決めた。藤高は、わだかまりが消えると急に腹がすいたように感じ何か食べたくなった。

「母上。腹がすいてしまった。おやつないですか」
「どうしたの。あんなに落ち込んで、食欲がなかったのに。あら、顔色が良くなっているわね。それじゃ、干し柿があるから、それ、食べましょう」

 母の玲が茶棚を開け、干し柿を取り出し卓の上に置いた。

「さあ。宏大も千鶴も一緒に食べよう」
「わーい」

 部屋の中を走り回っていた二人の子供は歓声を上げて卓に寄り付き、干し柿に手を伸ばした。

「母上。ちょっとお聞きしますが、父上は郡奉行の配下と伺っていましたが、どんな役目なのですか」

 藤高は、いずれ継ぐかもしれない父の務めの内容をなぜか急に知りたくなって、口をもぐもぐさせながら母を見た。

「あたしには表のことは分かりません。旦那様に直接聞いたらいいじゃないですか」
「そうですよね」

 どうせ分からないというのを承知で出した質問でもあり、藤高は、それ以上は言わず、卓の上の干し柿にさらに食べようと手を伸ばした。宏大と千鶴も負けずと手を突き出し、三人の手がぶつかり合った。藤高は、サッと手を引っ込めたが、弟と妹はそのままで、残りのふた切れを一つずつ手に取り嬉しげに笑った。 

 宮町の北側に徳川家康をまつった東照宮がある。うっそうとした緑の立木に囲まれ、金色の葵の御紋をちりばめ、荘重な輝きを周りに放っている。この時、藤高と彦治そして助蔵の三人は、剣術の稽古が終わった後、連れ立って東照宮に参拝しようと道場を出たのだった。入口の石鳥居を過ぎると、彦治が突然言い出した。

「のんびり行くのもいいけど、鍛錬だ、ここから走って上ろうよ」
「えっ。走る?」
「本気かい?あの石段を」

 藤高が驚けば、助蔵も目を見張り彦治を見た。

「そうだよ。行くぞ」

 そういうなり彦治が走り出したので、慌てて二人も後を追った。随身門までの緩い石段を上り、その後の拝殿前の石段を上がると、さすがに三人とも荒い息をはきへたり込んでしまった。

「どうしたの。彦治は?」

 ハアハアしながら助蔵が恨みがましく彦治に顔を向けた。

「うーん、何かね。わーとやりたかっただけだよ」
「あっ。分かった。さっきの師範代との立ち合いで、一本取ったからじゃない?」

 藤高が、師範代、源之進との打ち合いのことを指摘すると、彦治は図星を突かれたたという表情でにこやかに笑った。

 あの時は、二人とも竹刀を正眼に構え、隙を窺いつつ互いに右に回り、師範代が気をはいた瞬間、彦治が突進したのだ。刀身がわずかに上がり、師範代の左肩を直撃した。師範代はというと、彦治が動いたと感知するや、やはり突進して、彦治の左胴を押したたいた。この勝負は相打ちに見えたが、実のところ、師範代が気をはいた分、瞬時の遅れを取ったのだ。この精妙な剣の極意を会得した時、彦治は、木の葉真流の免許皆伝となるのだ。もうその域に達したともいえる立ち回りだった。

「ところで、藤高だけど、どうして助蔵の剣に打ち込みも出来ないで負けるのですか。不思議でしょうがない」
「不思議といわれても、助蔵の気力を感じるというか、気配を感じられないからといおうか、打ち込みの気運がどうしてもつかめないのですよ」
「何を言ってるんだか。とにかく助蔵の技は無策の剣ですよ。何ともありゃしない」
「だから怖いのですよ。彦治には分からないですか」

 その時まで黙って聞いていた助蔵が割って入った。

「彦治の言う通りで、私には、剣でどうしようとの思いは何もないのです。ただ持って振り回すだけです。何もしないと太るだけですから」

 助蔵が笑って話すのを藤高は聞いて、これまで以上の畏怖を感じ、まじまじと助蔵の顔に見入った。その顔は、どこにも影というものがなく、さざ波も見えない透明な水のようで、濁りがなく滑らかに見えた。これは勝てないと改めて思った。

「藤高に訊くけど、お主が助蔵と立ち会った後、師範が直接に相手をしただろう。そのときのお主の剣は、だいぶ闊達に動いたがどうしてなのか」

 助蔵の話を聞いて、呆れたような顔をした彦治は、だけどその話は聞き流して、藤高に向かった。

「うん。どうあがいても勝てない訳だから無我夢中でいったのさ。精いっぱいだよ」
「ふーん。そうなの。でも、面を取られて負けたようだけど、なんか褒めてたみたい。何て言ったの」
「えーとね。『常に間合いの外にいる。勝負は気からだが、対手の見極めも万全じゃ。励めよ』ということだった」

 師範には本意を見破られたなと藤高は感じながら彦治の顔を見た。彦治は表情も変えず聞いていたが何も言わなかった。

「藤高は師範に褒められ良かったじゃないの。私もうれしいよ」

 助蔵がそれを聞いて、自分のことのように喜んでくれた。藤高はその言葉を聞き、なぜか助蔵が心底からの仲間になった気がした。

「それはそうと、これは政の話だからどうなのか分からないけど、まあ、お主たちのことだから内緒で言っておくよ」

 父親が町奉行の配下にある彦治がもったいぶって、秘密めかして語りだした。

「仙台城下の北のほうに、根白石の向こうに宮床伊達家があるよね。この秋の米の収穫時期に盗賊が村を襲うとの噂があるんだ。一昨年には中新田の村が襲われたがね」
「盗賊が。それはちゃんと対策はしているんだろう?」

 助蔵がすかさず思案顔に東照宮の屋根を仰いだ。

「それはな。伊達本家からも応援部隊は派遣するようだけど、相手は素早いから。それに盗賊の頭は稀にみる剣の遣い手だというからどうなることやら」

 彦治が悲観的な見通しを述べると藤高が身を乗り出した。

「それだったら頭を倒せばよい」
「誰が倒すの?師範に頼めっていうのかい?」

 彦治がまぜっかえすと三人が顔を見合わせ笑った。

 夕方になり、藤高は家で夕食を食べていた。父の創見は相変わらず酒を飲みほろ酔い加減で機嫌が良かった。何やら仕事の策を提案したら上役から褒められたというのだ。よしよしと弟と妹の頭をなでたり、藤高にも冗談を言ったり、日頃に似合わず闊達だった。そんな父を見て母の玲も目を細めて幸せそうに笑った。

「おほほ。おほほ。旦那様は、今日は本当に優しいわね。上役に褒められてよっぽど嬉しかったんだね」

 こんな穏やかで和やかな家庭の団欒はこの後もあるのだろうかと藤高は思ったもののどうしても気になって父に訊いた。

「道場の稽古仲間から聞いたんだけど、宮床の農村が盗賊に襲われるとか言ってたんだけど父上はご存じですか」
「何、盗賊?政の話は家では話せん。何を言うのか」

 案の定、創見は苦虫を噛み潰したような顔に変わり、酒をぐいと飲んだ。そのまましばらく黙っていたもののやがて顔を和らげ藤高に向いた。

「お前も齢が齢だから話しておこう。ただし他言無用じゃよ」
「はい」
「実はね、宮床伊達家の嫡男が仙台藩主綱村公の養嗣子になった話は聞いておろう。端的に言えば、若君吉村様が後に座ることを心良からず思う輩がいるということなのだ。なんとかそれを阻止しようと企んでいるとか聞いている。このたびの噂もその一環じゃというのだ」
「何か事を起こして悪評を立て、ひっくり返そうとの話ですか」
「そんな目論見だろう。用心しなければ」

 創見は、藤高に言うというよりは自分に言い聞かせるように小さくつぶやき杯を傾けた。

「父上。私どもは何かすることがあるのでしょうか」

 藤高が義憤に駆られ、父の顔色を窺った。

「騒ぐんじゃない。若い者はこれだからいかん。我ら末端にはあずかり知らぬことじゃ。事の成り行きを静観していればよいのだよ」

 知らんふりをすること、これが世渡りの術と言わんばかりに創見は気色ばんだ。
 確かに上層部の権力争いには、下部の一侍風情に何とも致しかねる事態ではあるが、宮床の闘争は我が掌中に収まる程度のものでないかとも思い、色々考えてみたものの具体的なものはなにも浮かんでこなかった。

       

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