【連載小説】バックミラーの残影 7
残影の5
真奈の結婚式が終わった後は、橙太の家族に特段の変化はなく、澄子との二人の生活は淡々と過ぎていった。ある日、生涯の記念に外国旅行に行こうかとの話になり、新聞に出ていたタイ観光旅行の広告を見て申し込み、その年の年末に二人は初めて外国に向けて飛び立った。
仙台空港を午後に離陸し、韓国の金浦空港でかなりの時間待機してから、タイ行きの飛行機に乗り換え、バンコクの空港には夜遅くに着陸した。そこからバスでホテルに向かい、到着して降車すると、待ち構えていたコンパニオンからツアー客の一人一人の首にレイがかけられ、歓迎された。その晩は、そのままホテルに泊まり、翌朝からバスに乗っての観光旅行となった。
南国タイは、十二月でも気温は高く、日本の真夏並みだが、湿度が低く意外とカラッとしていた。澄子は日よけの帽子をかむり、二人とも半そでのシャツでバスに乗り込んだ。二人にとって初めての外国だが、日本と同じような大きなビルも立ち並び、そんなに異郷との感じはしなかった。
「あなた。見て。この寺は日本とは違いカラフルできれいだわ」
澄子がバスを降りて、エメラルド寺院を見た途端、感嘆の声を発した。
「そうだね。仏舎利は黄金色だし、とにかく全体が美しいね」
橙太も魅了され、ガイドの説明を聞きながら、陶然と見入った。
「中に安置のエメラルド仏陀は、一心に祈ると金運を授かるとガイドさんが言ってるよ。念入りに祈らなくては」
「楽をして金儲けようとしても無理よ」
澄子は、橙太の良からぬ願望に、笑いながら釘を刺した。
「アハハ。まったくその通りだね」
橙太もたわいなく笑い、澄子に同調した。
この日は、王宮を見たり、遊覧船に乗って、川から暁の寺院の美しい景観を眺めたり、浮世を忘れての旅心を満喫した。水上マーケットでは、遊覧船に近寄る売り船から、添乗員がアボカドを買い上げツアー客に分けて食べさせてくれた。食べてみると、舌にトロっと溶けるようで橙太には、バターの様な、今まで経験したことのない青っぽい微妙な味に感じた。澄子も食べていたが、形容しがたいのか何も言わなかった。
一日のスケジュールが終わり、レストランで宮廷料理を食べることになった。レストランの中に入り、橙太と澄子が四人掛けのテーブルに座ると、添乗員が年老いた男の人を連れてきた。
「すみません。この方、添島さんと言うんですけど、一人なのでご一緒させていただけませんか」
「はい。いいですよ。どうぞ」
澄子の顔を見ると、頷いていたので橙太が澄子の隣に移り、空いたほうに座るよう促した。
「よろしくお願いいたします」
丁重にお辞儀をして、添島は、橙太の向かいの椅子に座った。七十代後半だろうか、ほとんど白髪となり、顔の皮膚も年相応に皴があった。この年で一人で海外旅行とは、どんな目的があるのだろうと橙太はふと思った。それを察したのかどうかは分からなかったが、添島が穏やかな笑みを浮かべて挨拶した。
「お初にお目にかかります。お二人でお楽しみのところ申し訳ないです。一人でいいと言ったんですけど添乗員さんが心配してくれましてね」
「いや構わないですよ。僕達はいつも一緒だから、時には変化があったほうが楽しみですよ」
「その通りですわ。二人だけだと退屈することもありますから賑やかな時もなければね。ちょうど良かったです」
澄子も柔らかな微笑みを浮かべて、添島の同席を歓迎した。
「ちょうどビールも来たようですから、乾杯しましょう」
橙太が三つのコップにビールを注ぎ、各人の前に置いた。
「老人一人でツアー参加かと不審に思うでしょうが、実は一人じゃないんです」
添島がビールを一口、口に入れると、誰かに聞いてもらいたいのを堪えていた思いを一気に吐き出した。
「一人でないとおっしゃいますと、別の席ですか」
橙太が急にそわそわとあたりを見回した。
「あなた。事情があるのでしょうから、黙って話を聞きましょうよ」
察しの良い澄子が、落ち着いてと橙太の手を抑えた。
「これここに妻の写真があります」
バックの中に手を入れた添島は、小さな額に入った写真を取り出して橙太と澄子に示した。その写真には、温和な表情の品の良い初老の女性の姿が写っていた。
「妻が二年前に病気で亡くなりましてね。私は一人暮らしになったんですが、数えると、今から二十年ぐらい前に妻と二人でここに来たんですよ。子育ても終わり、気持ちにゆとりも出来た頃で、一生の思い出にと妻の家族献身への感謝も込めて、発奮して初めての外国旅行へ出たんです。それは、見るものすべてが珍しく美しく、夢のような幾日かでした」
添島の話は、橙太と澄子にとって、自分達の現在の状態と鏡に映ったように同じであり、何か身につまされるような思いを二人とも抱いた。
「旅が終わって、家に帰ってからも、事あるごとに話に出し、またいつか一緒に行こうねと言い交していたんです。それなのにこんなことになって。いえね。それを知っていた息子夫婦が後押ししてくれて、来てみたんだけど、思い出だけが心を駆け巡り、やはり一人は寂しいですね」
添島がしんみりと話し終えると、澄子は涙ぐみ、橙太は料理にぱくつき、やたらとビールを口に運んだ。
「いやいや。湿っぽい話は、これで終わり。せっかくの楽しい旅行が台無しになる。さあさあ。おいしい料理を頂きましょう」
添島はそう言うなり、目の前の料理に元気よくかぶりついた。
翌日は、アユタヤ王朝の遺跡群を見学した。外に横たわる巨大な涅槃仏に目を見張ったが、それ以上に心に焼き付いたのは、廃寺における当時のビルマ軍の徹底した破壊のすさまじさだった。頭のない胴体だけの仏像群が並んでいたり、仏像の顔が、木の根に取り込まれ、根の中から前方をにらんでいたり異様な風景が展開されていた。
ビルマの侵攻により王朝は滅びたと聞いたが、神仏の果てまでこれほどに破壊する必要があるのだろうかと、橙太は、同じ仏教徒でありながらと思いつつ、人の所業の恐ろしさを感じた。
「見て、見て。向こうの木の根の中から人の顔が覗いている」
澄子が訝しそうな表情で目を細めて、橙太にすり寄った。
「あれはね、ガイドさんが説明してたけど、ビルマ軍に切り落とされた仏像の頭が木の根に取り込まれたんだって」
「だって、二百年以上も木に絡められているのよ」
澄子がなおも言い続けると、傍にいた添島が遠い記憶を手繰り寄せるかのように言った。
「私の妻もね、奥さんと同じように同情してたなあ。だけどね、これは、徹底的な破壊を見ていた歴史の証人だから、いつまでもこのままでい続ける運命にあると思う。仏さまもそれを望んでいるんじゃないかな」
さすがに、だてに歳は取らないと、橙太は感心して添島を見た。この日は、三人が、本当の親子の様に固まって歩いていた。澄子も本当の父親に対する様に世話を焼いた。添島もそれを素直に受け入れていた。孤独な寂しい旅が、添乗員の機転で楽しい思い出の残るものに変わった。妻も喜んで見ていてくれるだろうと、添島は、二人の厚意に甘えることにしたのだ。
アユタヤ遺跡の南に、往時の日本人町の跡がある。江戸時代初期に日本人の山田長政がリーダーをしていた町の跡だが、今は石碑のみで何も残っていない。ガイドの説明によれば、長政は、アユタヤ王朝の傭兵隊長として功績を残し、王女と結婚して王朝支配下の国、リゴールの王になったという。
「へー。江戸時代にそんなすごい日本人がいたなんて信じられないわ。後に鎖国してしまったから、視野が狭くなり、島国根性なんて言われるようになったのかしらね」
「確かにね。江戸時代は平和になったんだから、人々の心が内向きになるのも仕方なかったかもしれない。だけど江戸の終わりが劇的過ぎたけどね」
日本人町跡での二人の会話は、日常生活では考えられないような歴史の話となった。しかも外国の地で。この時、二人は非日常的な旅の時空を楽しんでいたのだ。アユタヤの帰りにバンコク郊外の象園を見学した。象のショーを見、また象乗り体験をした。
「やだ、やだ。怖い、怖い。私、乗りたくないわ」
いざ乗る段になって、澄子がしり込みした。
「大丈夫だよ。僕も一緒に乗るんだから。それに前の方には象使いの人も乗るんだから安心だよ」
橙太が澄子の手を引いて、ようやく象の後部のかごの中に二人で納まった。
そして、象がのっし、のっし、歩き出すと澄子は、下を見て
「わあ。高い、高い」と怖さを忘れ、はしゃいだ。まるで幼児に帰ったような屈託のない表情で周りの人達に手を振った。
その日の観光の最後は、タイ舞踊を鑑賞しながらの夕食となった。タイ舞踊は、仏塔を頭にかむる独特の衣装で、独自の音楽に合わせ、指の動きに特徴がある優雅な踊りだとガイドに記されていた。橙太はそれを読んで、タイの伝統的文化に触れることができると期待した。そして実際に見て感じたことは、本当は違うかもしれないがこれは、仏教国タイの仏像の踊りではないかということだった。
「私も踊ってみたいわ」
澄子が舞台を見ながら、見よう見まねで指を動かしていた。その場の雰囲気に共振し、日常の茶飯事を忘れ、夢見る様な眼差しでタイの踊りに没入していた。
「うん。今回はだめだけど、この次は踊りを習いに来ようよ」
「嘘ばっかり。出来もしないことを口約束してはだめよ。私は踊ってみたいと夢を見ただけだから」
意外と現実的な反応で、橙太の夢を一緒に見ようとの目論見は外れてしまった。
「そうだね。先のことよりも今が大事だね、今を大事にしなければ」
橙太はそうは言ったものの、最後の語句は、つぶやくような声になった。将来は何が起こるか分からない。楽しく満ち足りた今が大事なんだ。橙太は心の中で反芻しながら食べ物を口に運んでかみ砕いた。
旅が終わり、いよいよ帰ることになった。空港に至る道路は、年末帰郷の車で混雑していた。ああ、タイも日本と同じだなあと、橙太はバスの外を見て気が付いた。小型トラックの荷台に冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの家電を乗せた車が何台か走っているのだ。
不思議に思って添乗員に訊いてみると
「あれは、故郷の家族にお土産として持っていくのです」との答えが返ってきた。
「私たちもお土産買ったけど、大小の違いはあるものの人情はどこも同じですね」
澄子が納得したように橙太に言い、並走する車の荷台を眺めていたが、やがて軽いい寝息を立てて眠ってしまった。
旅行といえば、郵政を定年退職後に、山形の母親を湯の浜温泉に招いたことがあった。姉夫婦と妹夫婦それに大阪と実家の二人の弟夫婦も一緒に同宿しての母の慰労会だった。
「どう私の運転は安心して乗っていられるでしょう」
「うん。穏やかで、眠くなってきた」
助手席でうつらうつらしながら、橙太が答えた。車は、二人で交代しながら運転して、宮城県の鳴子から西に向かい、山形県の新庄を経由して、最上川沿いにさらに西進して、日本海の目的地に向かった。その時点では、すでに父親の正治は亡くなっており、橙太にしてみれば、母親の長年の労苦に対する感謝を込めての恩返しの意味があった。本来は家を継ぐべき長男が家を出てとの後ろめたさが常に心のどこかに潜み続けていた。
「ようやく、親孝行の真似事ができるなあ」
最上川のゆったりした流れを右に見ながら、橙太は独り言を漏らした。
「あら。お母さんが元気でよかったわね。私の方は、両親とももういないのよ。兄弟会の時は、思い出話だけになっちゃう」
澄子が運転しながら橙太の話を聞きつけて、うらやましがった。
確かに、澄子の二人の兄夫婦と姉夫婦それに弟夫婦との兄弟会は、関東東北の温泉や景勝地で何回か開かれた。兄弟が順番に開催地を選び会を主催した。澄子が鳴子温泉で開催した時は、いつでもそんな傾向だけど、母親の思い出話でとくに盛り上がったと橙太は記憶していた。その時は、美しい鳴子の紅葉や鳴子ダムを見、鬼首の間欠泉の噴出を見、皆が満足して散会した。
湯の浜のホテルに到着し、中に入ると、ロビーで待っていた兄弟達が出迎え賑やかな挨拶が飛び交った。まるで、佐山家一族の貸し切りかと思わせる歓声がロビーに響き渡った。父の正治が貧乏のどん底から築き上げた一族で、橙太は後を継がず、早々と離脱したのだが、この時も父がいたらどんなに喜んだかと、幾ばくかの悔恨の念が胸をかすめていった。
「賢二。遠い大阪からよく来てくれたね。園子さんも大変だったね」
「そんなことあらしまへん。なあ」
橙太が遠路をねぎらうと、賢二は妻の顔を見ながら答え、園子は頷いて微笑みを浮かべた。
「お母さん、しばらく。お元気でしたか」
「おーおー。橙太か。良く来たね―」
橙太が声をかけると、ソファーに座っていた母の彩子は、顔を皴にして喜んだ。夕食時になり、各人が風呂上がりのさっぱりした顔と浴衣姿で、三階の宴会場に姿を現した。夕食会は、しばらくの再会で、アルコールも入り、賑やかな宴となった。
その間、年老いた母、彩子は三人の嫁に世話を受け、終始、目を細くして、幸せそうな笑みを浮かべ、宴の喧騒の中で、子供達の顔を見比べていた。どんなにか連れ合いの正治にも見せたかっただろうと考えると、橙太はやるせない気持ちで一杯になった。
宴会は進み、酒の効果もあり、だんだんと歌は出るやら、かくし芸が出るやら、話も弾み、誰もかれもが喜色満面で場の雰囲気を盛り上げた。
「親父はね、本当は兄貴に家を継いでもらいたかったんだって。だいぶがっかりしてたけど、でも兄貴の出世を喜んでいたよ」
弟の末治が、赤い顔をしながら橙太に父の心情を明かした。
「いやすまなかった。お前にも予期せぬ家を継いで、苦労を掛けているけど、本当にすまなかった」
それを聞いて、橙太は、何も言えず、ただ謝るしかなかった。
「お兄さん。謝ることはないわよ。お兄さんは家の誇りなんだし、お父さんも周りの人に自慢げに話してたわよ、私は尊敬してるから」
妹の玲奈が、横から橙太をカバーした。
「いやいや。それほどでもないけど。でもありがとう」
橙太は苦笑いを浮かべながら、妹への礼を口にした。
「親父はね、一本気で口下手で金儲けはできなかったけど、正直者が取りえで悪い事はしなかった。金はないけどここまでしたんやから、たいしたもんやと思はへんか」
大阪の弟、賢二が父、正治を褒め上げた。
「そうだ。その通りだと思うよ。お父さんもたくさんの家族を抱え、大変だったんだよ」
橙太は、あの厳しい父の顔を思い浮かべながら、きっと家族を支えるのに人一倍苦労したんだなと考えつつ賢二に同調した。
それを聞いて、母の彩子が安どの表情を浮かべ、部屋に戻ると言い出した。三人の嫁達がすぐさま母の手を取り、引きあげていった。嫁達に付き添われ、幸せそうに話しながら、歩いていった母親の姿を橙太は、その後いつまでも忘れることはなかった。父、正治が苦労しながら築き上げ守ろうとした家族の元気な姿を見て、さぞや安心した事だろうと思うと、橙太は。今回の慰労会を開いてとても良かったとしみじみ思った。