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【連載小説】バックミラーの残影 3

              残影の1

 今から六十年余り前に、橙太は、山形県庄内地方のある村に家族六人と暮らしていた。あまりにも遠い昔のことで記憶も曖昧なところがあるが、家族の構成は、両親と姉と妹、それに弟二人の七人だった。当時は、どの家庭でも子沢山で大家族が一般的となっていた。
 この地方は、日本有数の米の生産地で、どの農家も田んぼで働く多くの人手を必要としていた。農作業は、人力に頼るところが大で、特に春の田植え期と秋の収穫期は、猫の手を借りたいほどの繁忙を極めた。非農家の佐山家からも、子供も含め近所の農家の手伝いに駆り出され、決して楽ではない田植えや稲刈りの苦役に従事し、幾ばくかの報酬を得た。
 この地方で、田んぼを持たず、正業も定まらぬ家庭は、貧乏の極みで、生活が困窮した。橙太の父親、正治は、この村の大農家の二男で、大阪に出ていたのだが、アメリカとの戦争で空襲が激しくなる中、家族を連れて、故郷に戻ってきていた。そんな正治の家族に何か訳があったのか、実家の対応は冷たく、田んぼの一枚も分けようとはしなかった。
 正治は仕方なく、農家の手伝いとか、農機具の行商をするとか、冬には東京に出稼ぎに行くとかでその日暮らしの糧を稼いだ。定職がなく、五人の子供を育てるのは大変なことだが、貧乏のどん底にいながらなんとか毎日をしのいでいた。子供達の学校については、長男の橙太は成績が良かったので、高校に進学させたが、他の四人は中学止まりとなった。
 橙太の高校は、酒田の進学校で大半の学生が大学に進学した。橙太自身も進学したかったし、勉強に懸命に打ち込み常に成績は上位にあった。だが、家庭の事情があり、一抹の不安を抱きながら毎日を過ごしていた。

「お父さん。俺は進学したいんだけど、だめですか」
「うーむ。前にも言ったけど、お金がないから無理だなあ。結子も中学をでると働きに出ている。お前にも就職してもらわないと」
「奨学金ももらうし、アルバイトもするけど無理ですか」
「高校入っただけありがたいと思え。中学出ただけで働いている人がいっぱいいるんだ。お金のない家に学問はいらないね。とにかく働くことだ」

 まるっきり取り付く島もない話でどうにもならなかった。それでも橙太はあきらめきれず、苦し紛れの代案を出した。

「就職はするからさ。せっかく勉強してきたんだから、力試しということで受験だけでもやらせてもらえないですか」
「あなた。試しなら受けさせてもいいんじゃないの」

 母の彩子が話を聞いていて、しびれを切らして助け舟を出してくれた。それを聞いて、頑固な正治がしぶしぶ頷いた。そんな訳で受験して合格したらどう転がるか分からないと橙太は一縷の望みを託すほか道はなかった。

 それより二年前の四月末のことだが、淡紅色のつつじが美しく庭に咲いている季節に、橙太の姉、結子は中学を出たばかりですぐに家から一里先にある村の農家に奉公に出された。年九俵の米でと橙太は聞いたような気がするが定かではない。いずれにしても一定期間、住み込みで田んぼ仕事の外、家事も行う重労働だ。
 その日の朝、結子は、父の正治に連れられ家を出た。その姉を橙太は、母や弟妹とともに玄関先で見送った。

「行ってきます」

 姉の結子は、気丈にも笑顔を浮かべ家族に別れを告げた。

「ばいばい」

 子供達が一斉に手を振った。

「おーおー。体に気を付けてね。無理をしたらだめだよ」

 母の彩子が、涙目になりながら、結子の労苦を思いやり、声を震わした。

「うん。大丈夫だから。お母さん。笑顔で送って頂戴。私まで悲しくなっちゃう」

 結子は、そういうと思いを吹っ切るように歩き出した。父の正治が後を追った。母の涙が止まらなくなり、ボーっと風景がかすんで、よろよろと二人を追った。それを歩きながら名残惜しく振り返った結子が数メートル先から駆け戻り、母を支えた。母の彩子は、駆けよった結子を抱きしめた。彩子はこの時、娘を不憫と思うとともに、そのような境遇に送り込む己の不甲斐なさにも腹が立っていた。

「結子。ごめん。ごめんね」
「お母さん。謝らなくていいわよ。私はいなくなる訳ではないのですから。また帰ってきます」

 結子は、目を潤ませながらも直にゆるやかに母の手を振りほどき、父の後を追った。その二人の姿を母の彩子は、涙をこらえながら、見えなくなるまで見送っていた。

 受験勉強とともに橙太の就職活動も続いていた。国家公務員の初級職試験を受験したり、ラジオ放送局事務職員の採用試験に応募したり、地元会社の採用試験を受けたりと、絶対これだとの希望もなかったし、とにかく高校の就職案内をもとに色々チャレンジしてみた。
 ラジオ放送局の採用試験では、ペーパー試験に合格し、面接試験に臨むことができた。その面接には、男女合わせて二十人位がいたと思うが、いよいよ順番が来て、橙太が面接室のドアーをノックして中に入ると、正面のテーブルに三人の面接官が座っており、こちらを見た。

「佐山橙太です。よろしくお願いします」

 橙太が慇懃に挨拶をすると、真ん中の試験官が、テーブルの前に置いてある椅子に座るよう手で指示した。橙太が座ると、早速、向かって左側の面接官が質問の口火を切った。

「放送局に入りたいと思ったのはどうしてですか」

 想定問答で用意したつもりが、ちょっと緊張気味で言うことが頭にすんなりと出てこない。橙太は、顔が熱くなるのを感じながら答えていた。

「ラジオ放送で『笛吹童子』を聴いていましたが、うんと面白かった。皆に喜んでもらえる仕事をしている放送局で働きたかったからです」

 北村寿夫原作の『笛吹童子』は、室町時代、応仁の乱のころの物語で、橙太の記憶によれば、野武士に城を落とされた城主の息子二人が、野武士を討って城を取り戻す物語だった。橙太はとっさに、ラジオで夢中になって聴いたのを思い出し、試験の答えに取り入れた。
 続いて、他の二人も加わっての質問がいくつか続いた。

「学校で部活動はしてましたか」
「卓球部に入っていました」
「友だちは何人ぐらいおりますか」
「親友といえるのは三人ぐらいですが、普通に付き合っているのは十人ほどおります」
「自分の性格をどう考えていますか」
「うーん。とことんやるほうです」
「放送局の仕事のイメージは、先ほどもちょっと出たけど、本質的には何だと思いますか」

 いよいよ核心に触れてきたと思い、橙太は戸惑いながらちょっと考えた。三人の試験官が答えを待って橙太を見ている。

「そうですね。まずはニュースを伝えることでしょうか。次には、人々に娯楽を与えることです。それに、正しい世論の形成もあるのではないでしょうか。帰するところ、日本文化の向上に寄与することで、社会生活を豊かにすることだと思います。俺もそんなアナウンサーの仕事をやってみたいです」

 試験管たちは、橙太の答えを聞いて、一瞬顔を見合わせた。それからさらにいくつか質問があって、橙太の面接試験は終わった。自分ではまずまずの出来かなと思っていたのだが、結局、放送局からは合格の通知はもらえなかった。それどころか、外の事業所からもなかなか採用の朗報は得られなかったのだ。

「その気がないから駄目なんだ。もっとしっかりやれ」

 業を煮やした父の正治からは小言を言われ、手を抜いている訳ではないと思いながら、気の晴れない毎日が続いた。大学入試は受ける、就職試験は受けると目的の相反する試験に神経をすり減らし、橙太は、へとへとになりながら自分の境遇を恨んだ。
 入学する訳でもない試験を力試しの様に受け、仙台の国立大学教育学部に合格した時、橙太は、近くの郵便局に就職することが決まった。親は安心したと思うものの、橙太は心に大きなダメージを受け、その傷をいやすための一人だけの闘争が始まった。これにより、橙太は、出口の見えない迷路に入り込み、不毛の旅路を歩むことになった。誰の助けも期待できない孤独な旅路の終着駅はどこなのか、橙太はあてどなく彷徨い続けた。

 この時、中学を卒業した橙太の弟、賢二は、高校には進学せず、大阪の叔父、佐山勇作の家に働きに出されることになっていた。勇作は、自宅の庭に小さな作業所を造り、下請けで機械のネジを作っていた。父の正治は、幾ばくかの支度金を受け取り、子供をネジづくりの労働力として送り込んだのだ。働けるようになったら働く、これは生きていくために当たり前のことだが、橙太は、自分のことで精いっぱいで深く考えるゆとりはなかった。橙太も、高校を出て働くという点では同じなのだが、貧乏な家は、親の思惑で動きが限定され、まるで自由がなかった。
 親としては、家族の維持のため精いっぱいなのだろうが、橙太には、何か釈然としない思いがいつも心の中にあった。大学に進学できない心のうっ憤を和らげようというのか、父からニコンのカメラを買い与えられ、賢二を大阪に連れて行くにあたって、橙太も一緒に行ってみるかとなった。父は懸命になって、長男を家に引き留めようと、橙太を慰撫しようとしていた。
 橙太と賢二が学校を卒業した三月末に、父の正治に連れられ、三人は、国鉄の酒田駅から鈍行の夜行列車に乗って大阪に向かった。家を出るときは、母の彩子と中学生の妹、玲奈と小学生の弟、末治が送ってくれた。

「体に気を付けて、頑張るんだよ」と彩子が言えば
「お兄ちゃん。バイバイ」と弟妹が口をそろえて、手を振った。

「行ってきます」

 賢二は、神妙に挨拶し、弟妹に手を振り返した。いつ帰れるか分からない出発なのに、わりと平然としているように見えた。
 彩子は、姉の結子の時と違って、今度は泣かなかった。大阪は遠いところだけれど、親戚の家に行くのだからとの安心感もあるのだろうが、その顔には笑みも見られた。

「橙太は、お兄ちゃんなんだから、賢二の面倒をきちんと見るのよ」

 あげくの果てに、橙太には、弟の面倒を見るという役割が与えられた。

「うん。大丈夫だから、任せておいて」

 橙太は、母にそう答えて、賢二の面倒といっても何なのかと思いあぐねた。
 酒田駅から乗った汽車は、羽越本線を南へ南へとひた走った。日本海を望みながら、鶴岡、あつみ温泉、鼠ヶ関そして、新潟県に入って村上、新発田と進んでいった。新潟県に入ってからは、いつ果てるということもなく、その長さに驚かされた。

「お父さん見て。夕日が海に沈もうとしているよ」
「うーん。何だって。夕日?」

 橙太が写真を撮りながら、居眠りをしていた父に告げると、父は、眠い眼をこすりながら、窓の外を見た。空も海も真っ赤に染まって、白く輝く太陽が海に向かって落下していった。黄金色から、徐々に赤みが増してゆき、さらには、赤色に青が混ざり、紫がかって色が濃くなっていった。

「これはきれいだ。感動ものだね」

 いつもは、渋い顔の正治も、太陽の光を浴びて、赤く染まりながら笑みを見せていた。それを見て、なぜか二人の子供も心の緊張が和らぐのを感じていた。

「お父さんが笑った」

 賢二が嬉しそうに言うと、橙太も父の顔を見て、弟に頷いていた。

「何を言うか。お父さんだって笑うことがあるさ」

 実際に、旅心というか、しばらくぶりの汽車の旅で、正治は、日々の生活の心配から解放され穏やかな気分になっていたのだ。
 夕日が沈むと、間もなく外は漆黒の闇となり、三人は、彩子の握ったおにぎりを食べた後、直角の背もたれに寄りかかり、がたこと走る汽車の座席で熟睡とはいかぬ浅い眠りについた。

 橙太が就職して、二年目に、姉の結子が農家への奉公をやめ、二つほど先の村にある小農家に嫁に入ることになった。七年の農家奉公ですっかり二十三歳の大人の娘になりきっていたが、母の彩子に似て、丸顔の柔和な顔立ちで、花嫁衣装がよく似合い、橙太がみても、その日は、格段に美しかった。
 嫁入り先は、父の正治が探してきたもので、結子が見初めた相手ではなかったが、当時は、恋愛結婚というよりは、仲人紹介の見合い結婚が普通に行われていた。それによらずに、父が直接探したのは、姉の結子が家庭に尽くしてくれた労苦をおもんばかり、幸せになってほしいとの思いが強かったのだと考えられる。

 文金高島田の髪形と角隠し、それに白無垢の花嫁衣装で身を包んだ姉、結子は、父と母、それに弟妹に「これまで本当にお世話になりました」と挨拶し、しおらしく家を出ていった。

 これまで文句も言わず、親の言うことに素直に従ってきた、姉の結子がどんな思いだったのかは、橙太には、計り知れなかったが、それにしても従順な姉に頭の下がる思いがした。親の言うことに文句を言わず従うのが、その当時の社会の道徳律だったとは思うが、戦後の社会変化はあったものの、農村地帯には、古い時代のしきたりが根強く残っていたのだ。
 家の周りには、姉の花嫁姿を見送ろうと近所の人達が集まってきていた。結子が出てくると、期せずして感嘆の声が上がった。

「綺麗ねえ」
「三国一の花嫁だわ」
「幸せになってね」

 場の雰囲気を盛り上げるため、橙太は、周りへの気兼ねを吹っ切り、これまでのうっ憤を晴らすがごとく、五月の真っ青な青空の下、大声で触れ回った。

「嫁だ。嫁だー」

 花嫁が車に乗り、その後に、ミシン、自転車、タンスなどの嫁入り道具を積んだ車が続き、皆が見送る中、花嫁の一行は嫁入り先に向かった。

「タンスには、隙間もないほどたくさん衣類を詰めてやったよ」

 その後、母の彩子は、事あるごとに、子供達に向かって、結子が嫁入り先で肩身の狭い思いをしないための、家に文句も言わず尽くしてくれた娘への心づくしを語った。母にしてみれば、貧しい家庭の精いっぱいの矜持だったのだ。


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