「郷に入れば郷に従え」とは?
みなさん、こんにちは。学祭号の入稿が完了したということで、執筆に携わらせていただいたものの、不完全燃焼だった私が考えついたことを書きたいと思います。
さて、「郷に入れば郷に従え」という言葉はあまりに有名なので、意味を知らない人はいないでしょう。ただ、この言葉に対して拒否反応を覚える人は少なくないかもしれません。排他的だと感じるからですね。
では、少し話題が逸れますが「文化資本」という言葉がご存知でしょうか。環境の違いが金銭でキャッチアップ出来ないほど経験に影響することを意味する、みたいな感じだった気がします。よくある例えでは、地方にはイオンモールがあるかもしれないが、東京のように気軽に美術館に行けないから、都会と田舎では金銭では到底埋められない文化資本の差がある、というものです。美術館に頻繁に行くことが文化資本にどう関係あるのか私には謎ですが(いい歳して、そんなことをしている人は厨二病だと思います)、例えとしては分かりやすいですね。
この文化資本という考えは、最近広まってきたぐらいでみんなが知っているほどではありませんが、賛否が激しく分かれるものとなっています。特に、地方出身の人からすると選民思想と捉えられるからです。そもそも、格差を指摘する言葉は専門家の内だけで使えば良いものです。そんなものを大衆に使いこなせるはずがありません。余計な分断を生むだけですから。しかし、何かの拍子で拡散されてしまったわけですから、今更嘆いたって仕方ありません。
ただ、これを都会の人がさっき用いた美術館の例えで凄むのには目に余るものがあります。そうした人々は、都会の田舎には無い独自性を享受しきれていないからこそ、そういう表面的なものを誇ろうとするのかもしれません。
では、文化資本は重要なのか。これは重要だと思います。人間は自分の生きている世界、すなわち環境によって形作られるからです。人類を英語で"individual"と言い、「これ以上分割できない存在」を表しますが、"dividual"「分けられる存在」すなわち周囲に影響されて生きる存在というのが正しいと主張する社会学者もいます。その考えであれば、文化資本は確かに重要と言えそうです。
さて、文化資本の豊かさを決定づける最大の要素は環境ですが、環境はどこで決まるのでしょうか。これこそが、"郷"です。繋がりましたね。
ということで、郷に入れば郷に従えということわざは、その者の文化資本を決定づける上で非常に重要な役割を果たすわけなのです。そして、これは都会人も無縁ではありません。例えば、都会で隣人の交際関係を聞き出そうとしたりすることは好まれません。そして、母親が働いている子供が、保育園に入れられずに親戚に預けられることだって、やはり異質な行為と捉えられるでしょう。つまり、都会人でも一定の郷の掟に従って生活しているわけなのです。
そうなると、郷の掟というものは、住むところに依らず、社会的階級にもありそうでは無いでしょうか?外資系大手投資銀行と町工場では、働く人の思考に大きな隔たりがあることは考えるまでも無いことでしょう。ただ、これは優劣の話ではありません。"郷の掟"はその郷の目的に適した掟が設定されているだけなのですから。ただもし、自分とは違う郷に行きたい場合(自分の社会的階層を上げたいなど)、その郷に従うことは必要でしょう。酸っぱいブドウ、すなわち合理化はその過程では無意味と言えます。
自分の生きている郷の掟とは違うからと、他所の郷を冷笑するようなことは控えたいものです。