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マチュピチュ行くなら知っておきたいインカ帝国の歴史(書籍化狙い)

2024年の4月末〜5月にかけて、ペルー旅行に行ってきました。
その際、現地のガイドさんにインカ帝国の歴史を色々と聞いて面白かったので、備忘録がわりに書いておきたいと思います。忘れたところは自分調べです。

※専門家ではないので、内容が間違っていたらこっそり教えてください。白菜。

そもそもインカ帝国とは?

インカ帝国は、かつて南米を広く支配した昔の国です。インカの人たちは山を得意としていたので、南米に広がるアンデス山脈を中心に、国を広げました。

縦に長い茶色の山脈がアンデス山脈。

インカ帝国の首都は、現在のペルーのクスコ市。
マチュピチュ遺跡もクスコ市にあります。

インカの歴代国王

インカ帝国は約200年続いた国です。国王は全部で14代でしたが、1〜8代目まではクスコでひっそりと暮らしていました。(本当にひっそりだったかは知りません。ほっそりかも知れません)

というのも、8代目までのインカ帝国のことは現在でもほとんどわかっておらず、神話や伝説として残っているものがほとんどらしいです。

その神話によると…

インカ帝国の誕生

初代国王はマンコ・カパック。
太陽の子どもらしいです。

(左)インカの初代国王マンコ・カパック
(右)親の太陽

親子にしては似てなさすぎます。きっと母親似だったのでしょう。
あと太陽小さすぎん?遠近法?

そしてカパックは、インカ帝国を築くように親に言われ、妻と共に地球に降り立ちます。

マチュピチュ遺跡の麓のマチュピチュ村にも、
カパックと妻の銅像があります。

神話では、彼らが初めて地球に降り立った地が、現在のプーノ市のチチカカ湖。ウロス島があるところです。ペルーの観光地の一つです。

(ウロス島への旅行記は下記へ。楽しかったです)

プーノでは、湖から出てきた国王と妻を模したデザインを至るとこで見ることができます。

地面に描かれた国王と妻。
これ、現地の人からしたら踏み絵のようにならないの…?

チチカカ湖へ降り立ったカパックは、
「え、湖に降りてきてもうた…国作りにくいやん」と今のクスコに移動して、インカ帝国を作りました。(※関西弁だったかどうかは諸説あります)

伝説では、太陽の杖?のような道標を頼りに、クスコにやってきたようです。

カリスマ9代目国王

その後、8代目まではほっそりと暮らしていましたが、9代目インカ国王パチャクティによってインカ帝国の歴史は大きく動きます。
(パチャクティは最重要人物です。家康の徳川ぐらい重要です。)

9代目国王パチャクティは、とんでもないカリスマだったので、周辺の国を片っ端から征服・統合し、クスコにある小さな小さな国だったインカ帝国を、南米史上最大の大帝国に広げました。

インカ大帝国。
日本の約3倍の大きさです。

ちなみに、冒頭でインカの人は山が得意と書きましたが、そもそもクスコの標高は3399m。富士山が3776mなので、常に低酸素トレーニングをしているようなものです。
炭治郎の全集中の呼吸を、インカの人たちは皆、習得していたということです。違うか。

そして、山で暮らす知恵もたくさん持っていました。例えば、マチュピチュを始め、あらゆる所で見られる階段上の土地。これは斜面だらけの山で農作物(じゃがいもなど)を耕すための工夫です。

マチュピチュの段々畑。
入り口すぐ眼下に広がっています(この写真は別角度からの撮影)
キヌア、さつまいも、キャッサバなど様々な農作物が育てられていたようです。

9代目は、このような農作の知恵や工夫を近隣の民族に指導することで信頼を勝ち取り、大帝国の皇帝となったようです。いつの時代も知恵は武器ですね。

この9代目の時に、マチュピチュ遺跡も作られたようです。今の形になるまで約50年。もし20歳から働き始めたら完成は70歳です。もう定年退職しとるやん。

マチュピチュのことは今でも分かっていないことがかなり多いらしいのですが、神聖な儀式をしていたことは確かなようです。知らんけど。

マチュピチュ遺跡について

マチュピチュ遺跡の上部(写真で見えている部分)は皇室や儀式用の広場などが集中していたそう。
写真では見切れていますが、写真の右下部分(マチュピチュ遺跡の下部)に農地や住宅、工場がさらに広がっており、住民はそちらに住んでいたそうです。
3つある広場のうち最も上部にある大広場。
儀式などがよく行われていたとされます。
太陽の神殿。
マチュピチュ遺跡で唯一曲面のある場所です。
神聖な場所なので、レンガの形も他よりかなり綺麗です。ぜひ現地で見てみてください。

ちなみに、この太陽の神殿は、遺跡の崩壊により現在は見学が制限されています。他にも日時計やコンドルの神殿などの観光スポットも時間帯によって制限されています。

というのも、マチュピチュ遺跡の下には断層があり、遺跡は徐々に崩れているようです。100年後にも遺跡があるかは怪しいだとか…。

右側が崩れかけています。

100年以上生きる予定のある方は早めに来訪してくださいね。

ちなみに、2024年5月現在、マチュピチュ遺跡を回る際は4つのルートから1つ選ぶ形となっています。そのため、各ルートによって通らない遺跡などもあります。さらに時間帯によっても制限されているので、全ての場所を近くでみようとすることは一度では叶いません。

さらに、2024年6月以降は4ルートから9ルートに増えるらしく、遺跡見学はさらに回りにくくなります…遺跡を守るために、ペルーではあの手この手右手を尽くしているようです。(左手は添えるだけ…)

インカ帝国の終わり

さて、このような大発展をしたインカ帝国ですが、1533年、スペイン人のフランスシコ・ピサロによりコロッと征服されてしまい、終わりを迎えます。

ピサロさん。
約180人の兵と37頭の馬で征服できたラッキーマン。

そのため、現在のクスコなどではスペインの影響が強く、ペルーの中心言語もスペイン語です。

インカ帝国が負けてしまった背景には、スペイン人が持ってきた未知の伝染病や、インカ帝国内部での紛争(どっちが王になるかを兄弟で揉めてた)などがあるようです。

その後のマチュピチュ

マチュピチュ遺跡が世界に知られるようになったのは、1910年ごろ。およそスペイン人の支配から400年後で、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世によって世界に公表されました。

イェール大学講師でもあったビンガム。

といっても、地元の人たちはマチュピチュ遺跡の存在をすでに知っており、ビンガムさんは地元の人に教えてもらう形で遺跡を知ります。

そして探検隊や研究員と共にマチュピチュ遺跡を調査し、様々な憶測を立てたり、名称をつけたりしました。

現在、「マチュ・ピチュ遺跡」と呼ばれているのも、ビンガムさんが名付け親です。
でも、遺跡があるのはその向かいの山のワイナピチュ付近であり、実は「ワイナピチュ遺跡」の方が正しい名称なのでは、といった説があるらしいです。

「マチュピチュ」とは山の名前ですが、
よく見るこの写真の後ろに大きくそびえたつ山は
「ワイナピチュ」という別の山。
さらにその左にちょこんとある山は「フチュピチュ」。
「マチュピチュ」という山は、
ちょうど「ワイナピチュ」の反対側にあります。
遺跡を背にして撮った写真。
右上の方にそびえたつ山が「マチュピチュ」。

ちなみに、現地の言語で「ピチュ」は「山」を意味します。.........富士ピチュ。

さらに現在の研究によると、ビンガムさんの予想の8割くらいは間違っていたらしいです。期末テストなら補習決定です。
(それだけ謎の多い遺跡ということですね)

様々な謎に包まれたままのマチュピチュ遺跡。
ぜひ行かれる際は、インカ帝国のことを少し知ってから行くと、さらに楽しめると思います。

そして、ここまで読んでくださった出版社のお偉い方の皆さん、書籍化のご連絡、お待ちしております。絵本もいいですね。いやショートアニメとみせか(文字数)

他のペルー旅行記については、こちらからどうぞ。

それでは皆さま。
本日も一日、お疲れ様でした。

よくじら

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