名古屋増税反対デモに参加して
昨日、れいわ新選組の増税反対デモに参加してきた。
自身にとっては、人生初のデモらしいデモである。市民運動では先月から入管法改悪反対スタンディングはやったが、それは行進とまでいかない。それも示威行動に含めるならば別だが、行進までできれば一般的なデモという固定概念が自身にはある。
何故、参加等しているのかと言えば、一口には言えるものは無い。勿論、かつての共産党支持かられいわ支持に変えたということ、しかもオーナーズに登録までしているということはあるが、それだけでは無い。
山本太郎代表はあちこち飛び回っている。何たるバイタリティ。敬服である。今日は兵庫でもデモを企画しているとのことである。
そして、様々なボランティアの人がいると感じられる。参加で驚いたのは、ミサオ・レッドウルフさんがスタッフとして来られていたりもしていた。統一教会系のユナイトみたいな組織的動員と言えるのは、ゼロだろう。
それなのに、やはり熱いのである。山本太郎代表のカリスマ性というのも勿論ある。が、それだけでは無いように思えた。自身はそういう生命力を求めていたとも言えるのかもしれない。
一応、念のために述べておけば、別に松竹事件とか云々で共産党支持から変えたとか、そういうものではない。寧ろ今でも敬服はすべきだろうと思う。かつては野党共闘を応援する人間だったが、共産党の献身性無くして、21年の衆院選はリングにすら上がれなかったのだ。
れいわ支持者の中でも色々といると思うが、少なくともデモの後のおしゃべり会でも、山本太郎代表は敬意を表すると述べていたとも付け加えておきたい。今後も地域毎に協力などはできようし、現状は難しいが、また信頼関係を構築した上での野党共闘だってあるかもしれない。まぁ全ては野党第一党の態度如何であろうが。
こういうデモとか参加して、ヒマだなという人もいるかもしれない。実際に署名活動もあるわけでもあるし。しかしワンイシューだけ熱くなる人間はあり得ないだろう。寧ろ、幾つも気が向く限り、社会にコミットした運動は為されるべきなのだ。
日本人はデモとかを避ける。それは無関心というのだけが要因では無いだろう。万事全て中立、且つ公明正大で判断せねばならぬ、恐らくそんな固定概念があるからだ。「中立教」とでも言い換えられるかもしれない。
意見表明しないのが無難になるのは、当たり前である。与党支持も「みんなが支持しているから」というのも大きい気もする。実際にはそのような「みんな」など存在しないのにも関わらず。
所謂、冷笑系にしても同じだろう。根っこは皆同じだが、それが一番、最悪な形で現れている事象が、維新支持者のような自称ネオリベが唱える自己責任論者なのである。
自身は自己責任という呪われた日本語の撲滅支持者である。そういう意味では反維新である。大阪では公明党と維新が全面対決するかという話があるが、もし維新VS公明の構図の時にその地の有権者であったならば、公明党に入れるだろう。昔の自身ならばあり得なかっただろうが、それ程までに維新を警戒せねばならぬと思うのである。
その反維新の精神は、立民には無理だろう。彼らに深い社会への洞察があると思えないのである。結局、支持層が一定の社会的に恵まれた人が多いであろうせいだろうか。消費税増税は年貢である。国庫という名のバケツの穴は空いたまま、国民をいたぶる緊縮財政である。その穴を修繕する気もなく、寧ろ法律や制度の抜け穴で既得権益確保に勤しむ政治家や官僚が多過ぎる。それを放っておいて、社会保障の大義名分の増税は、通るものでは到底ない。
これこそ、真っ当な感覚では無いだろうか。日本人は年貢に対して、一揆を起こすべきだ。いつのまにか収奪され、個人の尊厳も失わせられる。それを当たり前の光景として眺めるなんて、地獄では無いだろうか?それが今の我が国である。
人々がれいわ新選組に希望を感じ、自身にもそう思わしめたのは、「カネを刷れ」スローガンよりも深い所にあるのでは無いだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?