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悟りの道

「悟りを開けたら、とても楽なんだろう」

多くの人がそう思ったことがあると思います。
確かに悟りが開けたらいいなと思いますが、本当に開いた人を僕は見たことがありません。かくいう僕も開いていません。ただ、悟りについて感じていることがあるのでその点を今日は書いていこうと思います。

「全ては無に帰する」

これが僕が行きついた悟りに対して感じたことです。何もない何も感じない世界が「悟りの世界」なので、人として現世で生きている以上は行きつくことができない世界ではないかと思っています。

「そんなことぐらいわかっている」と悟りを開くために頑張っておられる方に言われそうですが、その感情を持った時点で悟りから遠ざかっていると僕は思っています。なぜなら、悟りの世界には意見の対立すら存在しないからです。「無に帰する」とは

光と影
生と死
善と悪
正解と不正解
安心と不安
満足と不満etc

などすべての対立軸がなくなることなので「これが正しい」と思った時点で悟りの道と真逆の道を進んでいるように僕は感じます。悟りとは全てを受け入れ優劣をつけないことではないかと思うので「正しい」もなければ「間違っている」もないですし、無に帰することの考えからすると

「本来、悟りなど存在しない」

ということまで極論として行きつくように思います。それはなぜかというと悟りが

「全ての対極を併せ持つこと」

だとすると、すべてにおいて「1-1=0」に行きつく答えを出てしまうので、悟り自体にも「この悟りが正しいのか間違っているのか」のひき算が成り立ち最後には「0」だという答えに行きつくからです。

「悟りたい」

と思ってしまった時点で、悟りを開くと「自らの全てが正しくなる」という思いを抱いた時点で、それは単なる「我欲の終着点」を探しているだけではないかと僕は感じています。

そういう意味でも「自分という感情」や「煩悩の塊の自分」など「心の三毒」が抜けない僕は一生かけても悟りを開くことはできないですが、

普通の人でいるのが一番いい

ということだけは「悟れた」ので、のんびり日々を過ごしていこうと思っています。

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