【小説】二十七歳の恋(前編)
緊張した面持ちで教室に入って行った。
教室の中は、しーんと静まり返り、皆、それぞれ持ってきた本などを読んでいた。どこに座ろうかと迷ったが、一番後ろの席に座った。机は長テーブルで、横に三人ずつ座れるように並んでいた。そのテーブルが前から十席、置いてある。
真ん中に通路を空けて、全部で二十席。六十人座れる計算だ。
ところが生徒数は、わずか十六人あたりしかいなかった。すかすかに空いた席で、どうやら授業は行われるようだ。軽くため息をついた。この中で深い仲になれそうな人は見当たらなかったからだ。皆、歳は五十歳以上に思える。俊一郎は二十七歳だ。
友達探しも一つの目的だったのに、こうも歳が離れていると、友達になれそうな人は見当たらなかった。
そこにドアがガラッと開いた。俊一郎と同じくらいの歳の、若い女性が入ってくる。
その女性は俊一郎の一つ斜めに座った。心ときめいた。好みのタイプだったのだ。背は低く小柄で長い髪。目は意志的な目をしていて、子供のようだが決してそんな雰囲気を漂わせていない、芯の強そうな女性だ。席に座れば大人しく、手帳を眺めていた。ただただ、ぼーっと女性に見とれている。
すると講師と思われる、四十代くらいの男性が入ってきた。顔が丸く優しそうでおっとりとした顔つきで、それでいて背は高く、さっそうと教室の前のホワイトボードの前に立った。ぼこぼことマイクをいじり、それを首からかけてしゃべり始めた。
「今日から三ヶ月間だけ、エッセイ教室の講師を勤めさせていただきます。川辺と申します。皆さん、よろしくお願いします」
すると教室内に拍手が起こった。教室の広さに比べ、人数の少なさに拍手は寒々しいものになった。俊一郎も数秒間だけ皆に合わせ、拍手をした。
川辺は軽く自己紹介をし
「それでは皆さんも自己紹介をお願いします。今、みなさんがしたいことを最後に言ってください」
と言った。
前列の右端の者から自己紹介がはじまった。海外旅行に行きたい。本を出したいと答えていた。
斜め前に座った女性の番まできた。
「飯田和歌子と言います。二十八歳。図書館司書をやってます。細々とですが作品を書いています。ここへは、エッセイのスキルアップのために来ました。今、一番したいことは、歩きたい?」
皆、冷静にその話を聞いている。意識的に耳を傾けているのは、俊一郎だけかと思われる。俊一郎の番まできた。
「大西俊一郎と言います。フリーターです。作家を目指してます。今、一番したいことは、ご飯を食べたいです」
わっと、教室が笑いに包まれた。和歌子もくすくすと笑っていた。
よし。俊一郎は心の中でガッツポーズを決めた。
「ありがとうございました。エッセイと言っても、いろんな形のエッセイがあります。ここでは、皆さんの個性を残しつつ、得意を伸ばしていきたいと思ってます」
授業はそんな感じで始まった。
ざわついた中、一枚の紙が配られた。
まず、最初の課題は、今まで読んだ本の中で一番面白ろかった本の感想文を四百字以内に書くという内容だった。教室内がしーんとした。
一回目の授業が終わった。
終わると、前に置いてある箱の中に、原稿を入れていった。和歌子は原稿を提出すると、何もなかったように教室を出て行った。
声をかけようと迷ったが、次に何を話せばいいだろうかと思ってとどまらせた。
そして、そのまま見送った。
教室の外に出ると、むおんとした生温かい空気が体を包んだ。
八月だった。夏の真っ最中だ。
教室はエアコンが効いて、涼しかったが、外は依然としてして暑く、すぐにでも汗がにじみ出てくるほどだった。夜八時頃、教室を後にした。
一週間ほど経ち、次のエッセイ教室のとき俊一郎は、前回、和歌子が座った席と同じところに座った。教室の中はエアコンが効いていて、すぐにでも汗を吸い取ってくれるようだった。来てくれるだろうか……。
胸を踊らせた。
和歌子が教室に入ってきた。隣の席に座った。すると話しかけてきた。
「大西さん、どんなの書いていらっしゃるんですか?」
俊一郎は、戸惑って答える。
「本と言っても、まだ出版とまではいかないです。書き溜めてばっかりで」
「そうなんですね。私とおんなじですね。お互い頑張りましょ」
「失礼かも知れませんが、どこの図書館にお勤めですか?」
それを聞くと和歌子は口を閉ざした。まずいことを聞いたかな?何故、口を閉ざしたのかわからなかった。
教室内はざわついていた。皆、それぞれに知り合いを見つけたようで、色んな会話がかわされていた。
「ところで、前回はどのような本について、書かれたのですか?」
「はい。大学受験の頃に買った『チャート式英作文』という参考書についての感想文を書きました」
「それ、私もやってましたよ。すごくわかりやすかったですね」
するとくすくす笑い出した。
初めての授業で、大学受験参考書の感想文を書くなんて、自分でもばかげているとわかっていた。なので、つられてくすくす笑い初めた。気が付くと、二人ともくすくす笑い合っていた。
それからというもの、二人は毎回隣の席に座るようになった。
和歌子にやさしくされた日は、決まって家に帰りビールを買ってきて、お気に入りの音楽をかけながら、おいしく飲んだ。
その時書いていた短編小説があった。『君と結婚できないなんて』というタイトルの話だった。ある日、婚約していたカップルで、急に女性から、あなたと結婚できないわ、と告げられる話だった。男が散々悩んだ挙げ句、その女性がみるにみかねて、結婚をオーケーするという、少し情けない話だ。でも男にしてみてはハッピーエンドなので、その女性の名を、「和歌子」という名に書き換えた。当然内緒にしていた。
三ヶ月という月日は、あっという間だった。結局、和歌子の住んでいる家も、連絡先でさえ聞き出せないままだった。
最初に、働いている図書館はどこかとたずねたとき、口を閉ざしたのがひっかかっていたからだ。もしたずねて、ことわられたらどうしよう。
そんなことを考えていると、肝心なことは何も聞き出せないままでいた。
季節は十二月で、すっかり辺りは雪景色となっていた。
風の匂いも冬のものとなっていた。最後の授業はクリスマスだった。
連絡先を聞き出す、最後のチャンスだった。しかし、どうしてもそれを聞き出す勇気がなかった。
最後の授業の日、教室をサボッた。
一層のことサヨナラを告げないでおこうと思ったのだ。
連絡先を聞き出す勇気はないことはわかっていた。最後の授業に行ってしまえば、二人はサヨナラを告げ、きれいさっぱりもう会えなくなる。その展開が分かりすぎるくらい、分かっていた。
それは、子供じみたおまじないだった。行かなければ、サヨナラを告げないですむ。サヨナラを告げなければ、またどこかで会えるかも知れない。ばかげているとはわかっていた。そんな神様の偶然のような出会いが、この世にいくつもあるわけがない。
でも、どこかで偶然また、ばったり出会えたなら、今度こそ恋愛できるかも知れない。
でも、ここでお互いサヨナラを言ってしまえば、もうそれはできなくなるのではないか。そんな幼い想いがあったのだ。
最後の授業の日、牛丼屋にいってクリスマスを過ごした。
それから五ヶ月が過ぎた。その日、仕事が休みだった。少し家から離れた場所にある、本屋に行った。三冊ほど文庫本を買い、自転車でゆっくりと家路へむかっていた。
線路沿いには、マンションが立ち並ぶ。少しカーブになっていて、その道をぶらぶら自転車で走っていた。すると、その中の一つのマンションの一階のガレージのところに、眼鏡をかけた和歌子が立っていたのだ。
和歌子か?一瞬、眼鏡をかけていたので、判別がつかなかった。通り過ぎようとしたとき、「こんにちは」と和歌子があいさつをした。気づいたときはもう遅かった。顔をぼーっと眺めるだけで、あいさつもせずに通り過ぎてしまったのだ。
ところが半分あきらめかけていた頃に、また会えた。声こそかけられなかったが、家はちゃんと記憶した。
家に帰ってクローゼットを引っかき回した。書き終えた、『君と結婚できないなんて』という小説を探したのだ。それを見つけ、次の朝、渡しにいこうと決心した。結婚というものを暗に示したかったのだ。
朝六時、少し早い目に待ち伏せした。和歌子の出勤時に小説を渡そうとした。季節は、春を過ぎた頃で、そう暑すぎもなく、人を待つには苦労もなかった。
七時ごろ、和歌子が昨日会ったマンションから出てきた。よし、行くぞ。そう決めて向かっていったところに、隣に男がいた。
眼鏡をかけた中肉中背くらいの男だ。その男の腕をかかえ、肩を組もうとしていた。
仲むつまじきという感じだった。あまりの仲の良さに入り込む余地はなかった。二人に軽く頭を下げるだけだった。二人が通り過ぎころに、少し経ってから振り返り様子を見た。二人は駅のホームの中に入っていった。
それが、俊一郎の二十七歳の恋だった。
(後編に続きます)
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