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その愛って(辛口注意)

「困ってる人を助けるのは尊い」
と思っていませんか?


誰にでも分け隔てなく

共感し

寄り添い

手を差し伸べる

自分にできることをする。

めっちゃ正論で
これを否定する人いないと思うので

あえて否定しようと思います。

誰かが困っていたとしてですよ、

「助けよう!」

「力になろう!」としようとしますよね。

でも「助ける」「サポートする」って
色々あるなぁと思っていて

その大変な目に合っている方の
成長フェーズにもよるのですが

その助けるが

突き落とす事、

現実に直面させること、

見捨てる事という方法が有効な場合も多いんです。

依存的な人に共感し
寄り添い手を差し伸べることは
さらにその方の依存心を煽る事になる。

依存が悪いのではなく

本来私たちは
自分のパワフルさ
自分の能力や知性をどこまでも
発揮したい生き物なので

依存フェーズの人には
本来持ってるパワフルさを
発揮させてあげる事

それには
突き放したり
見放したりが一番早い。

人はそういう時にこそ
立ち上がり
底力を発揮するから。

それが本当の助けるということだったりする。


優しさも愛もいろんなカタチがあって

寄り添う、共感、慰めは
時に、その人の本来の力を奪い
依存フェーズを後押してしまう。

本当に共感や慰めが必要な人もいますが
エネルギーヴァンパイヤ的に
弱いふりをしている人も多く

それを助ける事は
愛ではない。とわたしは思います。

またそういう人に
いつも手を差し伸べる方は

何かしらの承認欲求を満たしたいか

幼稚なヒーロー願望があるのか
(困ってる人を外側に作ってそれを助けるドラマで
悦に入る人達)

問題解決することで自分の無価値観を埋めているか

その助ける事で人と繋がろうとしているか

ようはエゴ。

人を助けたい!救いたい!と思っている人の
ほとんどは
自分が救われたいだけ。

ギフトで成り立つ社会は素晴らしい。
クラファンも嫌いじゃないし
寄付も毎月している。

でも、
わたしは動機を大切にしたい。
何故その人をサポートしようとしているのか?
それをする事で
自分の何かを満たそうとしていないか
自分の何かの不足感を避けようとしていないか

自分がエゴを動機でやったことで
相手が本質的に救われることは絶対にない。

いつも愛でありたいけど
愛に擬態したものになるくらいなら
何もしない方が、むしろ潔ぎいい。

わたしも今まで

散々エゴでのサポートを
してきたのでよくわかるのだけどね、
結局それは誰の為にもなっていない。
(むしろ欠乏でやっているのでさらに
欠乏を感じて結果疲弊するだけ)

わたしもさらに気をつけようと思います。

今日の言霊

「今、愛ならどうするか」
by 神との対話









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