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第二話 告白

もくじ 2,760 文字

 それは、ずっとごまかし続けてきたことだった。薄々気づきながらも、ばったり鉢合わせしないよう、周到に回り道を選んできた。時折頭をもたげてくる絶望的な確信に、こじつけじみた理屈で蓋をし、何とか意識の外へと追い返してきた。
 幻想の小島を守るためのバカバカしい努力。
 不毛な悪あがき。
 だが、それも今日で終わりだ。何の警戒もなしにビデオデッキに突っ込んだ一本のテープは、隠してきた事実を無慈悲に暴き出していた。目の前に動かぬ証拠を突きつけられて、もはや言い逃れはできない。
 冷蔵庫のか細い音が、暗闇に一筋の線を引いている。閉め切った部屋の中、現実の手応えを感じさせてくれるものはこれだけだ。いや、実際には、この音さえうっすらしすぎて、現実感は希薄と言っていい。夢と現のあわいから立ち昇っているような、実体があるようなないような曖昧な音……。
 薄い夏掛け布団をはいで上体を起こすと、束の間ぼーっとしてからベッドの縁に腰掛けた。
 起きたばかりで、すぐに動く気にはなれない。長い息をついて、意識にかかった霧が晴れるのを待つ。
 どこともつかぬ一点を見つめていると、暗闇に映画のカットが青白く蘇ってきた。
 飛ばない飛行機。ピンクのキャデラック。イヌイットの少年。犬ぞりに曳かれるレオとアクセル。空をゆらゆらと泳ぐオヒョウ。往年の名画を彷彿とさせる赤い風船……。
 冷蔵庫の高く細い音に導かれ、次々と現れては消えていく。記憶がフィルムなら、自分の両眼は映写機のレンズだ。漆黒のスクリーンに映し出された映像の数々は、驚くほど鮮明で、形のわからない現実よりずっと存在感がある。あたかもそれ自体が生命を宿しているかのように、生き生きと揺らめき踊る。自分が生み出した幻なのに、自分のものとは思えない。
 「俺は、もう若くない」
 不意に唇が動いた。
 声が掻き乱した暗闇を、冷蔵庫の音がすぐに均す。
 だが、鼓膜に引っかかった言葉は消えない。闇の中の体がびくりと動いた。
 決定的なことを言ってしまった。
 一語にすべてが集約されていた。
 もはや、罪を自白した罪人も同然だ。
「子供と大人の変わり目、か……」
 闇を仰いだのち、がっくりと肩を落とした。アクセルとレオの会話が、頭の中で、壊れたテープレコーダーのように繰り返されていた。
 若さは永遠ではなかった。
 青春には終わりがあった。
 真一が頑なに否定しようとしてきたこと――それは、自分が大人になってしまったことだった。

 変わるものなど何もない――。
 ずっと、そう信じてきた。
 今の自分に具わっているものは、どんなに時が経っても色褪せない。例えば、湧き立つ夏の雲のように高揚した気持ちも、あれこれ首を突っ込みたがる好奇心も、森羅万象に対する純粋で敬虔な感じ方もすべて。
 三つ子の魂百まで、と言う。若さも同じものだと思っていた。生まれてこの方宿してきた魂は、墓に入れられる寸前まで、ずっと同じ姿を保っている。
 それは、ちょうど常盤木の葉並のようなものだ。常緑の木々の葉っぱは、夏の陽射しに照りつけられても、冬の寒さにさらされても、雨に打たれても、風に吹かれても、常に青々としている。健やかで瑞々しい様は、いつ何時も変わらない。
 いつか青春の輝きを失くす――。
 ありふれた言葉だ。探そうと思えば、どこにだって見つけられるだろう。雑誌の記事にも、流行歌の歌詞にも、映画やドラマのセリフにも、人々の何気ない日常会話の中にも……。
 だが、その言葉の本当の意味を知ることはなかった。
 失くしたものは取り戻せない。
 それは、嘘偽りなく失われる。

 「若い」、「若くない」 は、人それぞれ。老いてなお、生き生きしている人もいれば、若いうちから早々と老け込んでしまう人もいる。「若さ」 は、必ずしも実年齢のものさしで測れるわけではない。
 「若さ」 を 「青春」 に置き換えてみた場合はどうか。
 二つの語は、似ているようで違う。「若さ」 が個人の体や心の状態を言い表すのに対し、「青春」 は人生における特定の期間を指す。「あの頃が自分の青春時代だった」 とか、「彼は今、青春の真っ只中にいる」 というふうに。
 ただ、若さと同様、青春の長さも、万人に一律ではないだろう。ツンドラの大地の草花のように短い青春があれば、永遠の青春を生きる人もいるかもしれない。
 後者の生き方は、究極の理想だ。一生青春なら、それに勝る人生はない。宝くじに人々が群がるのも、この夢を叶えたいから。けれども、普通はそうそううまくはいかない。やがて人生の現実が迫ってくる。無邪気に過ごした日々が名残惜しくても、そこに別れを告げなくてはならないときがやってくる。
 真一にしても、この程度の自覚がなかったわけではなかった。気の合う仲間と時間を忘れて語り合ったり、好きなことを第一に考えて毎日を生きたり……そんな特別な 「今」 はいつまでも続かない。
 しかし、だからといって、「いつか」 を憂えたり、そのことで思い悩んだりはしなかった。
 確かに、青春には終わりがある。だが、それで、いったい自分の何が変わるのか。人生に一区切りつくにしても、裸の自分は何も変わらない。
 これまでの人生を振り返っても、変化を感じたことはない。子供の頃はもちろん、思春期を迎えても、特に感じるものはなかった。ドラマや小説などで描かれる十代は、嘘とは言わないまでも、やはりどこか誇張されていて、実際の自分とは違っていた。
 高校を卒業して就職したときは、確かに大きな節目ではあった。就職先は、このあたりの人間なら誰でも知っている老舗のホテル。当時は、定年まで働くつもりだった。バブルが弾けて一年かそこらの話である。何年か前に、「デューダしよう」 なんて流行語があったが、就職は一生モノという考え方がまだまだ世間に根強く、真一も当たり前のようにそう思っていた。
 ホテルに勤めていたのは、去年の春まで。丸四年働いて、それなりに社会人らしくなったと思う。生活能力も身について、一人暮らしでも困ることはない。
 世間一般の基準では、それが 「大人になること」 だろう。
 社会の中で、自分の役割と責任を果たすこと。それによって収入を得、生活を成り立たせること。経済面でも、精神面でも、親の世話になっているうちは子供、一人で生きていけるようになれば大人……。
 誰にともなく、説教臭く言われてきたことだ。
 真一自身、漠然とそんなものだろうと思っていた。
 だが、今は違う考えを持っている。
 世間一般で言う 「大人になること」 より、もっと根本的な次元で人間は変わってしまう。それは、オヒョウの目が成長するにつれて体の片側に寄っていくような、目に見える変化ではないけれど、同じくらい決定的で重要な意味を持つ。

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鈴木正人
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