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第三十五話 山水に遊ぶ その五 砂にまみれたオイカワ

もくじ 1,738 文字

 小一時間経ったところで竿を納めた。
 マサカズの所に戻ったらまだ釣りに熱中していて、背後に真一が来たことにも気づかず、食い入るようにウキを見つめていた。
「どう、釣れた?」
「来た!」
 声が重なった。同時に、竿を握る腕が持ち上がり、水面から飛び出した魚が迫ってくる。
「あっ、くそっ」
 しかし、マサカズが道糸をつかむ前に、魚が針から外れてしまった。ぽちゃん、と小さな水音を残して、黒い影が川波の下をくぐり抜けていく。
「惜しかったな」
 残念そうに魚の行方を見つめる背中に、真一は声をかけた。バケツを覗き込むと、三十匹は下らない魚が泳いでいる。実に、真一が釣った数の倍近い。
「へえ、やるじゃん」
 素直にマサカズをめる。
「エサをつけるのと針を外すのが素早くできてたら、もっと釣ってましたよ」
 まあ、そうだろう。ハヤ釣りでは、百を超える釣果も珍しくない。マサカズが釣りの初心者で、一時間も竿を出していないことを考えれば、この結果は上出来だ。
「この魚、食えますか」
 真一の向かいに回って、マサカズはバケツを覗き込む。
「食えるよ。唐揚げとか天ぷらにして。あとは甘露煮かな。でも、内臓は取ったほうがいい。苦味があるから」
「食ったことあります?」
「いや、俺はない。人から聞いた話」
 子供の頃、釣ったハヤを食べるという発想はなかった。竹竿を作っていた文房具屋の主は、昔は食べたと言っていたし、友達の父親にもそう言う人はいたが、海の魚が簡単に手に入る時代に、わざわざ川魚を釣って食べようという人は、少なくとも真一の周りにはいなかった。古くからの土地の人でも、たぶん限られていたと思う。
 しゃがんで竿を置くと、バケツに手を入れ、いちばん大きい魚に狙いをつけた。しばらく追い回して、何とかすくい上げることに成功した。
「おっ」
 手のひらに乗った魚を見た真一は、小さく目を見開いた。魚の下っ腹が、きれいな夕焼け色に染まっていたからだ。
「そうそう。この魚、オイカワじゃないですよね」
 マサカズが中腰になって訊いてきた。
「ああ、これはウグイ」
 昔、「ハヤ」 と一緒くたに呼んでいた魚のうちの一種類だ。
「赤いのは婚姻色ですか」
「そう」
 うろ覚えだが、ウグイはオイカワより早い時期から、婚姻色が出ていた気がする。まだ春が浅い時期に、下っ腹の赤いウグイを釣ったことがあったような……。
「それはそうと、あいつら遅いな」
 真一はふと気づいて、遊歩道のほうに顔を向けた。石畳の遊歩道に人の姿はない。階段や吊り橋を見上げても同じ。小林たちと別れて、かれこれ一時間。さすがに、こんなに長く風呂に浸かっていることはないだろう。
「湯あたりでもしてんのかな……」
「まさか。年寄りじゃあるまいし」
 マサカズは鼻で笑ったが、真一は見たことがある。
「いや、若いからって油断できないぞ。高校の修学旅行の時にいたからな。風呂から上がった途端、脱衣所でぶっ倒れた奴。口から泡まで吹いて、大騒ぎになった」
「マジっすか」
 実際に口にしてみると、その時の光景がありありと蘇って、心配になってきた。二人仲良く湯舟に浮かんでいなければいいが……。
「とにかく旅館に戻ろう」
 バケツの取っ手をつかむ。
 浅瀬に行って中身を空けると、たくさんの魚たちが水と一緒に落ちていった。一目散に深場へ逃げていく様子を見届け、バケツをゆすぐ。
 バケツの水を切って、振り返ったときだった。
 川砂の上で、何かが動いた。
 怪訝に思って目を凝らすと、また小さな影が跳ねる。
 近寄ってみると、砂にまみれたオイカワが一匹横たわっていた。
 マサカズが釣りに夢中になっている間に、バケツから飛び出してしまったのだろう。確かに、この魚はよく跳ねる。子供の頃、いつもバケツに網をかぶせていたことを思い出す。そうしないと、しょっちゅう外に飛び出して、拾い集めるのが大変なのだ。
 オイカワはかなり弱っていて、手のひらに乗せても暴れなかった。もし見つけてやらなかったら、砂の上で死んでしまっていたに違いない。
 浅瀬に持っていき、しゃがんで川の水に浸す。体の砂が落ちてからそっと手を引くと、はじめ腹を上にして水面を揺蕩たゆたっていたが、ほどなく回復して、ゆるゆると深場へ泳いでいった。

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鈴木正人
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