第五十四話 松風
もくじ 3,238 文字
雑木林を抜けると、目の前はトンボ沼だ。浅瀬にアシやガマが生い茂り、なるほどトンボの住処にふさわしい。これから夏に向けて、トンボの数も種類もどんどん増えていくはず。沼の周りには桟橋型の木道が巡り、西回りに進めば、山の突先を回り込んで、最終的に花菖蒲園の八ツ橋まで行ける。ハナショウブは蓬莱公園の目玉の一つだが、見頃は六月に入ってからで、今の時期に木道を行き来している人はいない。
公園の山に背を向け、見晴らしの良い東側へ向かった。沼の畔では、所々卯の花が咲いている。対岸に目を向ければ、アシの茂みとハンの木立。公園の南東側は土地が低いため、こうした湿原風景が広がっているのだ。
橋板の下で、バシャッと水音が立ち上がった。人の気配に気づいたウシガエルが逃げたのだろう。慣れないうちは、この音にけっこう驚かされる。蛍狩りに来た人は、木道から足を踏み外さないよう注意が必要だ。ちなみに、沼にはウシガエルのほか、ブラックバス、ブルーギル、ライギョ、アメリカザリガニ、とお馴染みの外来生物が生息している。人が管理する沼でも、これらの生き物の侵入を阻むことは難しい。
ウッドデッキ前面に四台並んだベンチのうち、久寿彦は、右から二番目のベンチに座っていた。灰褐色に色褪せたデッキを歩き、木柵の手前のベンチに腰を下ろす。久寿彦が足元の蚊取り線香を、真一のほうに寄せてくれた。
「やっぱり、あいつらロクムシやってたよ」
枕木を二本並べたようなベンチ。その端っこに、丸めたトレーナーを置く。
「俺たちもやったよな。年甲斐もなく」
「でも、いい運動になっただろ」
「まあ、ね」
ロクムシの拠点を六往復もすれば、けっこうな距離になる。鬼のボールをかわしながら走るので、足の筋肉をまんべんなく使い、翌日は筋肉痛になった。
対岸のアシの茂みで、オオヨシキリがけたたましく鳴いている。ギョギョシ、ギョギョシ……初夏になると聞こえる水辺の音だ。視線を少し持ち上げると、ハンの木立の上に、鉛色の雲が入り乱れた空が見えた。稲作地帯特有の空だろう。この雲が消えてなくなれば、夏が来る。
「やっぱり、夏場がいちばん色んなことがあったな」
稲の黄緑が映えそうな暗い空を見渡して、真一は言った。
「海にもよく行ったし」
海は本当によく行った。海開き前の、六月下旬から九月の彼岸くらいまで、ほとんど毎週行っていた気がする。海といえば、釣りをすることが多い真一も、去年の夏は、もっぱら海水浴を楽しんだ。
「ちなみに、いちばん気に入った海岸は?」
久寿彦が訊いてきた。
「そうだなあ……」
海水浴場は何箇所も行ったが、いちばん印象に残っている場所はどこだろうか。
記憶のページを一枚ずつめくっていくと、ある海岸の風景が浮かんだ。
「俺はあそこかな。砂浜に一軒だけ海の家があった所。少し先に、河口の突堤が伸びてて……」
幅広の砂浜の裏手に、松林が延々と続いていた。どちらかといえば黒っぽい砂だったので、白砂青松とは言い難いが、伝統的な日本の海岸風景には違いない。監視体制も昭和並みに緩く、ちょっと沖に出たくらいで、とやかく言われることはなかった。
「ああ、松林の裏に池があった所だろ」
久寿彦は一発で言い当てた。確かに、河口まで伸びた砂嘴の裏側に、大きな汽水池が開けていた。お盆を過ぎた頃から良型のハゼが釣れ、海水浴場が閉鎖されたあとも、しばらく楽しみが続くところが魅力的だった。
梅雨が明けて、間もなかった頃。
湿気が抜け切らない青空は、若干紫灰に濁っていた。
広大な田んぼの一本道を、地平線上に浮かんだ小さな入道雲を目指して、ひたすら車を走らせた。
窓の外の稲は青々として、風にゆったりと穂波を作っていた。
どこまでも続く、青い夏景色。
あのとき、夏は始まったばかりだった。
「おい、くれぐれも塗り忘れのないように頼むぞ。特に背中の上のほう」
「わかってますよ、人使い荒いなあ」
岡崎は面倒くさそうに答えながら、日焼け止めローションをたっぷり垂らした手を、久寿彦の背中に叩きつけた。松林に開けた駐車場に、いてっ、と叫び声が響き渡る。色白の久寿彦は、紫外線の強い場所では、強力な日焼け止めに頼らざるを得ない。塗り忘れた箇所が少しでもあれば、皮膚が真っ赤に焼けて悲惨なことになる。
「毎回大変だな、筒川さん」
バンの荷室に並んで腰掛けた益田と西脇が笑っている。二人ともすでに海パン姿。サンダル履きの足をぶらつかせ、久寿彦と岡崎の支度が整うのを待つのみだ。
「真帆と美緒さんが着てたやつ、筒川さんも着ればいいのに」
「ラッシュガードね。でも、あれって普通のスポーツ店じゃ売ってないだろ。真帆もサーフショップで買ったって言ってたし」
「だったら、頼んで買ってきてもらえばいいじゃん。どうせ近いうち、また海に行くんだろ? 行きつけの店で買えば、メンバーズカードのスタンプとか貯まって得するんじゃないの。……ところで、美緒さんの車どこ?」
西脇は、額に手をかざして駐車場を見回す。
七月下旬の今は、一年のうちでいちばん暑い夏の土用に当たる。にもかかわらず、駐車場に停まっている車はまばらだ。テレビが伝えていた、どこかの有名海水浴場の盛況ぶりにはほど遠い。「東京からアクセスが悪いし、海水浴に来る人は少ないんじゃない」 と真帆が言っていたが、まったくその通り。
「お、あれじゃん? シボレー・アストロの近く」
隅のほうに、短くボンネットが突き出した箱型の車が見える。五月に発売されたホンダ・ステップワゴンを、豪華にしたような外観。益田の指は、そこから二台分ほど駐車枠を空けた、白い軽の四駆を指している。
「でも、中に人はいないみたいだぞ」
「まだ海に入ってるんだろ。昼メシにも早いし」
真帆と美緒はボディボーダーだ。ただ、二人のキャリアには大きな差があって、真帆が四月に始めたばかりなのに対し、美緒はボディボードが流行り始めた九十年代初頭からやっている。美緒は、レストランHORAIで働く前は、海のそばにアパートを借りて、波乗り三昧の生活を送っていたというから、かなりの熱の入れようだ。真帆は、そんな美緒を、師匠と呼んで尊敬している。早く上達して、一緒にサーフトリップに行くことが当座の夢だそうだ。二人とも、真一たちよりだいぶ早く出発していた。風のない朝のほうが、きれいな波が立つらしい。
今日の行き先も、二人が決めた。海水浴場としての知名度は今ひとつでも、サーファーやボディボーダーには、わりと人気の海岸だという。事実、駐車場には、それっぽい車が目立つ。真一たちのバンの近くに停まっている、白いマークⅡワゴンやウッドパネルのグロリアワゴン (前席はベンチシート) は、間違いなくサーファーの車だろう。益田が示したシボレー・アストロも然り――サーファーに人気の外車というと、直感的にワーゲンバスやヴァナゴンを思い浮かべてしまうが、近頃はこうした車が流行っているようだ。ほかにも、一昨年鳴り物入りで登場した、湘南ナンバーの車もちらほら。貼ってあるステッカーで、サーファーの車とわかる。夏の湘南の混雑を嫌って、はるばるこんな場末の海水浴場まで逃れてきたらしい。
「おーい、早くしろー。行っちまうぞー」
松林の小道の入り口で、上半身裸の松浦が真一たちを急かした。海が好きで、夏といえば海水浴という松浦は、早く泳ぎたくて仕方がないのだろう。前後に肩を揺さぶって、落ち着きがない。
「悪い悪い。すぐ行く」
益田が叫び返して、バンの荷室から飛び降りた。手近な荷物を持って、松浦のほうへ向かうと、西脇も続く。岡崎は、まだバンのそばにしゃがんで、バッグを漁っている。おっちょこちょいの久寿彦が、間違えて効き目の弱いオイルを渡してしまったらしい。つまり、もう一度塗り直し。二人を待っていても意味がないので、真一も小道の入り口へ向かった。