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第五十九話 海水浴 その五 海番長

もくじ 1,540 文字

「まったく、言い出しっぺが何てザマだ」
 海上が落ち着くと、松浦が、ふん、と鼻を鳴らして西脇の前に出た。波の力はことのほか強く、十分距離を取ったつもりの真一たちでさえ、白波に躍らされた。西脇については、言うまでもない。たった今、三途の川を見てきたかのような顔でむせ返り、でっかい鼻ちょうちんまでふくらませている。
「だいたいなあ、前を向くのが早すぎるんだよ。最後まで波を見てなきゃ、どこで波が倒れるかわかんねえだろ」
 偉そうに講釈を垂れたあと、松浦は、俺が手本を見せてやるよ、と沖へ向かい出した。
 海が好きで、夏といえば海水浴という松浦には、夏限定のあだ名がある。海番長――その名にふさわしく、よれよれの西脇を見ても少しも動じていない。悠然と歩く背中には、自信がみなぎっている。
 最初に迫った波を、軽く跳ねてやり過ごす。小さい波は、もとより眼中にない。番長は番長らしく、大波に挑戦すべきなのだ。
 もっとも、大きい波は、頻繁にやって来るものではない。今しがた一本訪れたばかりだから、次に来るまで、ある程度時間が空くはずだ。
 真一も、ジャンプして波を乗り越える。砂底に足が着くと、目の前に真っ平らな青海原が広がった。水天一碧いっぺき。形あるものは、水平線上に底を揃えて並んだ、三、四の小さな入道雲だけ。ほかに感じ取れるものといえば、眩しい陽射しと、穏やかな潮風と、背後に遠ざかっていく波の音くらい。
 深呼吸して、銀色の光を散りばめる海面に目をみはる。海の色は一色ではない。沖合に色の境目がある。手前の水は青緑、奥に広がる広大な青は真正の青だ。前者は人間の領域、後者は魚たちの楽園。浦島太郎の龍宮も、真正の青の彼方にある。
 やがて、その境目付近に、新たなうねりが入ってきた。
 黒々とした一本線。今までにない長大な波影なみかげ
「おい」
 前方を見つめたまま、真一は岡崎に声をかける。
「はい。デカいっすね」
 視界に収まり切らない波は、まるで万里の長城のようだ。
 海水浴場のエリア外で波待ちしていたサーファーたちが、ヒューヒュー声を裏返しながら沖へ向かっていく。波のサイズが上がって、いつの間にかサーファーの数も増えていた。海水浴場のすぐ隣にも五、六人の集団がいる。
 ザザーッ、と音を立てて、波頭なみがしらが崩れ始めた。もやもやした白波が、雪崩のように波の斜面を駆け下っている。ほどなく白波は収縮して消えたが、波の本体は残って、近づいてくるにつれ勢いを盛り返してくる。
「少し下がったほうがいいな」
 ここにいたら危険だ。真一は周りに声をかけ、浅いほうへ戻ることにした。
 適当な場所で振り返ると、松浦が背後を気にしながら、立ち位置を調整していた。
 波が鋭角に立ち上がり、暗い影の色を深める。その様は、かつてないほど凄味を利かせていた。
 松浦はもう振り向かない。浅瀬側で見守る真一たちと向き合い、しかと見よ、と目で訴える。
 胸の前で手を合わせた。
「滝行!」
 発声も決まった。ここまでは完璧。今度は成功するかもしれない。
 だが、直後、ワイドに広がった水の壁が、松浦をぺしゃんこに押し潰した。
 もうもうと潮煙を噴き上げる波の背が、頼りない人影をすっぽり呑み込む様子を、真一たちはしかと見た。
 大・失・敗
 それはもう、見た瞬間にわかった。
 何を間違えたわけではない。立ち位置もフォームもバッチリだった。だが、小細工など通用しない圧倒的なパワーが、挑戦者をねじ伏せたのだった。もはや、テクニック云々の話ではなかったのだ。
 ドゴォーン!
 荒々しい波の咆哮ほうこうが轟く。
 沸騰する白波の中に、松浦の姿はない。海番長は、海の藻屑もくずと化した。

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鈴木正人
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