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第六十三話 ハゼ釣り その一 ラグーンの風

もくじ 3,325 文字

 同じ海岸へは、夏の終わりにも行った。
 使った道は前回と同じ。ただ、田んぼは黄金色に色づき、車の窓を開けると、稲の香ばしい匂いに鼻をくすぐられた。ちょうど台風が近づいていて、青空にたくさん入道雲が立ち昇っていた。地上の風は大したことなかったが、上空はそうではなかったらしく、雲の流れが速かった。
 清都の市街地を走っていた頃、真帆がジャミロクワイの新譜が欲しいと言って、駅のそばのファッションビルに立ち寄った。ビルの中には、有名なCDショップが入っている。売り切れになったらイヤだから帰りより行きに寄って、と心配していた通り、特設コーナーに山積みにされていたはずのCDは、残り少なになっていたらしい。真帆には美汐が付き合った。美汐はカーディガンズの新譜を買ってきて、車の中では、行きも帰りもずっとその二枚がかかっていた。
 真帆が買ったアルバムのタイトルは、「トラベリング・ウィズアウト・ムービング」。副題は、「ジャミロクワイと旅に出よう」。「旅に出よう」 じゃなくて、「釣りに行こう」 だったらよかったのにね、と真帆はみんなを笑わせていたが、冗談の通り、この日の目的は釣りだった。河口や砂嘴さしの裏側に広がる汽水池 (ラグーン) では、クロダイ、キビレ、スズキ、ハゼなどの魚が釣れる。前回訪れたとき、帰り際に池をチェックしていたら、池畔の道ですれ違ったおじさんが教えてくれた。
 この日のターゲットはハゼ。ハゼなら、素人同然の真帆や美汐でも簡単に釣れる。それに、夏の終わりといえば、やっぱりハゼ釣りは外せない。河口や周辺の汽水域に、ハゼ釣り師たちの竿が並ぶ光景は、晩夏から初秋にかけての風物詩と言っていい。真一もホテルで働いていた頃から、毎年夏の終わりには、必ずハゼ釣りに行っていた。これをやらないことには、きちんと夏が終わった気がしなかった。ハゼ釣りは、真一にとって、夏を見送る儀式のようなものだったのだ。
 七月に来たときと同じ駐車場に到着すると、車から道具を降ろす前に、海を見に行った。八月も残すところ一週間を切った時期では、海水浴場はもう終わり。松林を抜けた先の砂浜では、海の家の解体作業が行われていた。「わだつみの宮」 は、看板も青いトタンの波板も取り外され、骨組みだけになっていた。砂浜には、海水浴客もライフセーバーもいなかった。砂煙を巻き上げて、資材を運び去るトラックに、否応なく夏の終わりを感じた。

「釣りするだけじゃ面白くないから、何か賭けて勝負しようぜ」
 先頭を行く久寿彦は、麦わら帽子をかぶって、今日も日焼け対策に余念がない。竿を片手に振り返り、無邪気な少年のように笑う。クーラーボックスが動いた拍子に、中に入った冷凍ペットボトルが、ごろん、と音を立てた。
 白いわだちが続く池沿いの道。南北に長い池を渡る風は、泥と海水の匂いを孕んでいる。ピューイ、と口笛みたいな声を残して、キアシシギが飛び去っていった。対岸のアシの大群落の上空では、真っ白な入道雲と鉛色の雲がせめぎ合う。いかにも台風前らしい、混沌とした空の表情。
「いちばん釣れなかった奴が、天ぷらを揚げるってのはどう?」
「何なのよ、それ。私か真帆が負けるに決まってるじゃない。ハンデつけてよ」
 久寿彦同様に色白の美汐も、麦わら帽子をかぶっている。つばが波打った女物の麦わら帽子だ。洋風なので、ストローハットと言ったほうがいいのかもしれない。
「それもそうだな。じゃあ、美汐と真帆は、二人で一人扱いにしてやるか」
 真一と岡崎を見た久寿彦は、
「お前らもいいよな」
「いいよ」
「俺もオッケーです」
 それから少し背伸びして、さらに後ろに目を向ける。
「葵は?」
 返事がない。振り返ると、紺と白のロゴ入りラグランTシャツにジーンズという格好の女の子が、真帆と並んで会話していた。シャギーの入った黒髪が、二人が話題にしているドラマ 「ロングバケーション」 の影響かどうかはわからない。一方の真帆は、薄いピンクのチビTに黄色いショートパンツ。真帆らしい元気一杯の格好だが、元々日焼けしているので、紫外線は気にしていないらしい。
「あ、ごめん。聞いてなかった」
 沈黙に気づいた葵が顔を上げると、久寿彦は同じ言葉を繰り返す。
「私もいいよ、それで」
 迷わず答えた。あっさり提案を受け入れたのは、釣りの腕に自信があるから。中学生の頃まで海辺の街で暮らしていた葵は、幼い頃から釣りに親しんできた。釣り好きの祖父と一緒に、夕飯のおかずを調達しに、よく近くの漁港まで出かけていたらしい。釣った魚を褒めてもらうことが嬉しくて、どんどん腕を上げ、小学校高学年になる頃には、大人も舌を巻くほどの腕前になっていた。釣りは今も趣味で、バイトの仲間同士で釣りに行くときは、ほぼ毎回メンバーに含まれている。
「じゃ、決まりな」
 久寿彦が前を向き、真一は、たすき掛けにしたクーラーボックスを担ぎ直した。
 未舗装の道に、シリシリシリ、とかすれたバッタの声が戻ってきた。久寿彦の道案内をするように、大型のバッタが次々と羽を広げて飛び立っていく。ショウリョウバッタ、ヒナバッタ、トノサマバッタ、クルマバッタモドキ……。同じ種類でも、茶色と緑の個体がいて面白い。あたりに満ちた鳴き声は、ヒナバッタのものが多そうだ。実際には、はねに脚をこすりつけて出しているから、「声」 ではないのだが。
 道端や轍の合間には、メヒシバ、エノコログサ、カゼクサなどが目立つ。いずれも秋を感じさせる雑草だ。草地の奥に、タカサゴユリが咲いているのも見える。テッポウユリにそっくりな白いラッパ型の花だが、夏の終わりに咲くのはタカサゴユリ。
 しばらくすると、アシの茂みの合間に、小ぢんまりした船着き場が現れた。釣具屋で教えてもらったポイントの一つだ。泥砂の浜から突き出した短い桟橋に、一そうの小舟がもやわれている。七月に池をチェックした時には、ここまで歩いて引き返した。あの頃は、浜の端っこに、真夏の陽射しと同じ色をしたハマボウが咲いていたが、もう花はない。ハマボウは、本州に唯一自生するハイビスカスの仲間。汽水域を好み、夏の暑い盛りに咲く。自生地の北限は三浦半島らしいから、このあたりで咲いていてもおかしくはない。
 ポイントは混雑していた。桟橋の上を含め、狭いスペースに七人もの釣り人がいる。
 足を止めたまま様子を窺うと、頻繁に竿が上がっているのがわかる。針先で躍っているのは、夏を越して立派に成長したハゼ。天ぷらにしたら、ホクホクしておいしそうだ。実際、それが目当てで釣りに来た。ハゼは市場に出回ることが少なく、基本的に釣り人だけが味わえる味だ。
 もっとも、ここは根がかりが多く、初心者には不向きだそうだ。実際、釣り人たちは皆、延べ竿を使っている。真帆や美汐のことを考えれば、たとえ混んでいなくても避けたほうが無難だろう。
「よし、行くか」
 久寿彦の声で、再び歩き出す。これだけ釣れていれば、ほかのポイントでも、数釣りが期待できそうだ。
 やがて、池が先すぼまりになり、両岸を覆うメダケの林の合間に、水色の水門が見えてきた。釣具屋で教えてもらった、第二のポイント。汽水池の最奥に当たるこの場所は、駐車場から歩く反面、初心者でも釣りやすいという。
 水門の裏側に回ると、正方形の貯水池があった。北西側にクリークが流れ込んでいるのも、話に聞いた通り。赤びた波打ち鉄板が四方を護岸し、その上を幅五十センチほどのコンクリートが縁取っているので、足場は問題ない。ほかに釣り人もいない。
 池の隣の空き地に荷物をまとめ、釣りの準備に取り掛かる。仕掛けは、天秤にオモリとハゼ針を付けるだけの簡単なもの。根がかりはないらしいので、リールで底を探る釣り方をする。リール竿なら、足下だけでなく、池の真ん中にいるハゼも狙える。美汐の仕掛けを久寿彦、真帆の仕掛けを葵が作ってやって準備が整った。
 全員竿を持って、池の四辺に陣取る。北西側はクリークを挟んで真帆と葵、水門のある南東側は岡崎、北東側は久寿彦と美汐、その向かいの南西側は真一という配置だ。


90年代に青春を送った人なら、一度は聴いたことがあるはず。


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鈴木正人
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