第三十二話 山水に遊ぶ その二 カジカ音
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旅館の近くに、「かじか橋」 という吊り橋がかかっている。橋の先から新緑や紅葉が楽しめるハイキングコースが続いているが、真一とマサカズは橋を渡らず、橋の入り口脇の階段から川沿いの遊歩道へと下りた。
釣りのポイントを探す真一が先に立って歩き、竿が当たらない程度の距離を取って、マサカズが続く。真一の左手には竹竿、右手はブリキのバケツの錆びた取っ手を握っている。バケツの中にはサシの袋が一つ。竿を借りれば、バケツはただで貸してもらえる。
谷底を満たす、うっすらとした影の青み。緩いS字を描く切れ込んだ空間に、もう陽射しは届かない。方々からカジカガエルの声が聞こえてくる。フィリリリ……フイフイ……高く澄みながらも柔らかみのある声だ。夏場鳴くヒグラシの声と、どちらが風情あるだろう。幽玄な渓谷に、幻のように立ち昇って、泡沫のごとく早瀬に飲み込まれていく。一匹鳴き始めると、にわか雨のような合唱が起こり、しばらくすると収まって、川音だけが耳に残っている。あたかも渓谷のどこかに異界に通じる裂け目があって、そこから精霊たちの声が漏れ出しているかのようだ。
日中、足止めを食った渓谷で、この声は聞こえなかった。夕方になって、生き物たちの活性が上がってきている。もちろん、釣りをするのにもいい時間帯だ。
石畳の遊歩道を、川上側へ七、八十メートル歩いたところで、真一は足を止めた。
「このへんでいいか」
大きな石が目立つ川原だが、流れのそばには砂地も見える。川原の幅がそれなりにあるため、釣りの邪魔になる木もない。足元に気をつけるようマサカズに言って、遊歩道から平らな岩の上に下りた。そこからまた別の大きな石に飛び移り、足場の良さそうな場所を選んで、砂地まで行った。一箇所だけ石がぐらつくところがあったが、あらかじめ予想していたので、転ぶことはなかった。
「ちょっと貸してくれ」
バケツに水を汲んで足元に置くと、ぼさっと突っ立っているマサカズから竿を奪い取った。節くれ立った握りの部分に巻きつけられた輪ゴムから針を外し、くるくると竿を回しながら仕掛けを解いていく。狙う魚のサイズに対して大きめの針に、食いは悪くならないのだろうかと案じたが、飲み込まれる心配がないから初心者にはちょうどいいかも、と思い直した。
針にエサをつけて、仕掛けを投じる場所を探す。
「あそこなんか狙い目じゃないかな」
竿先を傾けて示した場所は、白く泡立つ落ち込み。複雑な水流が周りを取り囲み、すぐ下に速い流れができている。
「あの水が白くなってるところ目がけて投げてみな。仕掛けが流れ切ったら、また同じ場所に投げる。魚がいれば、二、三回繰り返しているうちに食ってくると思う」
真一が差し出した竿を、マサカズは神妙に受け取った。右手でハリスをつまみ、左手で竿を握って不思議そうに見比べる。水際へ歩いていくと、おもむろに玉ウキをつかんで投げた。文字通り、野球のボールのように。
「わははっ、それじゃダメだって。竿を動かすんだよ、竿を」
確かに、仕掛けを投げろ、と言った。だが、まさかウキをつかんで投げるとは思わなかった。言い方が悪かったのか、マサカズの理解力が足りないのか、はたまた素人とはこういうものなのか……。
「いや、このほうが飛ぶと思って……」
マサカズは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「飛ばない、飛ばない。竿をすくい上げるように動かすんだよ。ヨリモドシを錘だと思って」
こう、こう、と真一は身振りをつけて説明する。
「ヨリモドシ?」
「糸と糸を繋ぐ金具だよ。両端が輪っかになったやつ。下の方についてるだろ」
マサカズは指先で道糸を辿って、小さな樽型の金具をつまんだ。真一がもう一度竿を振り出す仕草をすると、ヨリモドシをつまんだまま動作を真似る。
「こうですか」
「そう。もう一回やってみな」
川面と向き合うマサカズ。竿を振り出すと、今度は指先が自然に仕掛けを解放した。道糸に腕の動きがしっかり伝わり、見事、仕掛けが狙った場所に着水する。激しい水流に翻弄されるウキを目で追いつつ、慎重に竿先を川上から川下へと動かしていく。
仕掛けが流れ切ろうかという時だった。
赤い玉ウキが、力強く水中に消し込んだ。
「よし!」
真一の声に合わせて、マサカズの腕が上がる。道糸がピンと張り、寄れた水面から銀色の魚体が躍り上がった。細かい水しぶきを跳ね散らしつつ、振り子の軌道を描いて、手前に向かってくる。暴れる魚自体も、千変万化する水玉のようだ。
「よっしゃあ!」
伸ばした手に道糸が収まると、マサカズは小躍りして喜んだ。最初の一匹を釣り上げたときの喜びが大きいのは、素人も玄人も変わらない。
「一投目から来たな」
真一も、ほっと胸をなで下ろす。遊歩道を歩きながら、川面の下にたくさんの魚影を認めていたが、魚が食ってくるかどうかは未知数だった。群れは見えていても、エサに反応しないなんてことは、よくある話。
ひょいとハリスをつまみ上げたマサカズが、
「この魚の名前は?」
と訊いてきた。真一は中腰の姿勢になって、針先でのたうち回っている魚に目を凝らす。
「これは……オイカワのメスだな」
激しく動くので細部を確かめづらかったが、何とかそう答えた。オスとメスを見分けるポイントは、尻ビレの長さ。オイカワのメスは、オスより尻ビレが短い。
「もう少し時期が下れば、簡単に見分けがつくんだけどな。オスには婚姻色が出るから」
「婚姻色……っていうと、さっきのタナゴみたいに?」
「いや、あんなにたくさん色は出ないよ。オイカワの場合は、青とオレンジの二色だけ。ただ、色が濃く出るから、見た目はタナゴより派手かもね」
真一は、じっと針先の魚を見つめる。
暴れるのを止めた魚体越しに、ふわりと懐かしい景色が浮かんだ。
子供の頃、遊んだ野川の情景。
清流の釣りと言えば、鮎釣りがまず筆頭に挙げられるが、ハヤ釣りも決して隅に置けない、ノスタルジーの薫る釣りだ。
毎日のように川原に通った夏休み。
銀色に輝く水面。
冷たい水の感触。
魚を釣ったときの手応え。
今でも、はっきり覚えている。