第十九話 世界が失われる時
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日中の陽射しをたっぷり吸い込んだ欄干は、この時間になってもまだ温かい。湯たんぽの上に座っているみたいで、ついうとうとしてしまいそうになる。
懐かしい匂いが鼻をくすぐっている。花と青草の匂い。豊潤な大地の匂い。一年ぶりに嗅いだ春の匂いだ。ほかの季節の匂いより、心に訴える力がある気がするのは、春が出会いと別れの季節だからだろうか。
にわかに強まった風に、千年桜が騒立った。
花付きの良い枝が、折り重なってうねっている。花の数の多さ、差し交わす枝の複雑さは、ほかの桜を遥かに凌ぐ。圧倒的な光景だ。千年桜は、「木」 というより、もはや 「森」 と言っていい。薄紅色の花の森。
樹上でパッと風花が散った。桜色の胡蝶の群れが、千々に乱れて舞い上がる。やがて勢いを失って、季節外れの雪のように、赤い橋の上に降り注いでいった。
松浦が再び、体力任せの攻撃に打って出た。立て続けに水を掻き上げ、じりじりと野田を遊歩道側へ追い詰めていく。勝負に決まったルールがあるわけではないが、相手を橋の外へ追い出すことができれば、松浦は勝ちを主張できるだろう。
だが、あと一歩というところで、鉢植え皿を取り落してしまった。おろっ、と間抜けな声を聞いた野田が走り出し、橋の真ん中まで一気に戻ってくる。
「そこで待ってろ」
フリスビーのように鉢植え皿を放り投げる松浦。落ちた場所を目指して、クロールで泳ぎ始めると、濡れた上腕が夕陽に赤く輝いた。
野田の足下に到着して、勝負再開。
水面の鉢植え皿をつかんで、絶え間なく水を掻き上げていく。やはり、体力こそが松浦の武器だ。
利き腕の右腕が使われている以上、野田の逃げる方向は、また遊歩道側になる。
石垣の上で、声を張り上げている仲間たち。松浦に濡れ鼠にされた彼らは、全員野田の応援団だ。野田が松浦をへとへとに疲れさせ、まいった、と言わせることを期待している。
ドタバタと色々なことがあった春の祭典も、そろそろ終わり。水平に近づいた陽射しが、仲間たちの表情をくっきり映し出す。拳を振り上げている奴、汚い野次を飛ばしている奴、白い歯を見せている奴、ペットボトルで欄干を叩いている奴、頭上で濡れた服を振り回している奴……。
黄金色の水しぶきが、額縁のように彼らを切り取っていた。
「違う…………」
ある瞬間、思った。
欄干の温かさに、まどろみながら。
ぼんやりと、他人事のように。
あらゆるものが自分のそれとは異なる何か――雰囲気、感情、色とも言える何か――に染まっていた。夕映えの桜並木も、騒いでいる仲間たちも、跳ね上がる水しぶきも、湿っぽい石垣も、花くずが溜まった水面も、赤い欄干も、くすんだ擬宝珠も、濡れた橋面も……。
数瞬が過ぎ去り、その光景と対峙しているのが、ほかならぬ自分だと気づいてハッとする。
橋の向こうで、囃し声を上げる仲間たち――
腰を上げて歩き出せば、すぐにでも彼らの所へ行ける。それは何ら難しいことではない。対岸までの距離は、二十メートルあるかないか。手を伸ばせば、届きそうな距離なのだ。
だが、動けなかった。体が彫像みたいに、欄干に固定されてしまっていた。
松浦と野田の対戦に、水を差すと思ったからだろうか……?
確かに、それもある。だが、第一の理由ではない。それとは別に、もっと深いところで、体が動くことを拒絶していた。
自信がなかったのだ。
対岸の世界に、すんなり馴染んでいけると思えなかった。そこにあるものを、自分の五感は正しく把握できるだろうか。例えば、誰かの体に触れたとして、いつもと同じ手応えを感じ取ることができるだろうか……。
我ながら、突飛で馬鹿げた考えだと思う。こんなこと、普段ならまず意識しない。
自分が世界の一員であること――それは、疑う余地のない自明な事実だからだ。身の周りに空気があふれていたり、重力によって枝からリンゴが落ちるのと同じくらいに。空気にしろ、重力にしろ、存在することが当たり前すぎて、意識することさえないだろう……?
言い知れぬ不安が、胸にこみ上げてきた。
ずれた……?
――何が?
いつ? どうやって?
――それもわからない。
何かが、一瞬にして、自分を弾き飛ばしてしまったようだった。弾かれたと自覚する間もなく……。
気づいたときには、異なる次元から仲間たちを見つめていた。
それは、生まれて初めて目にした光景だった。
世界は、かつてないよそよそしい顔つきで、目の前に立ち現れていた。
実際に、何が変わったというわけではない。客観的な見た目はどこも変わらない。
ただ、あらゆるものが自分の知らないカラーに染まっていた。
異質で、異様で、噛み合わない。
ひとつの接点もない。
自分とは。
どれくらい時間が経っただろう。
頬をなぶっている柔らかい風に気づいた。ぼんやり見下ろす膝頭に、花びらがひとひら貼り付いている。ざらついたデニム生地に引っかかって、小刻みに震えていたが、やがて力尽きて風に飛ばされた。
手のひらに嫌な汗が滲んでいた。ズボンでそれを拭って、橋の向こうに目を向ける。
赤い平行線が尽きた先に、仲間たちの姿はない。夕陽に染まる桜並木の入り口が、ぽっかりと口を開いているだけ。橋の上の足跡と、踏みにじられた花びらが、喧騒の名残を留めているだけだ。
世界が自分だけを置き去りにして、忽然と消え去ってしまったようだった。
島はもちろん、遊歩道からも人の気配は伝わってこない。
対岸の石垣の手前で、くるくると尾を引く花びら。桜並木から絶え間なく緋色の片々が舞い落ちて、水面に形成された花の浮島に加わっていく。一帯を満たしているのは、散りこぼれる花片の音さえ聞こえてきそうな厳かな静寂。
勝負の行方は、どうなったのだろう。松浦が野田を橋の外へ追いやったのか。野田が松浦を降参させたのか。いずれにしろ、松浦はこっちに泳いで来なかった。
ようやく重い腰を上げたが、すぐに動く気にはなれない。
様々な考えが一挙に噴出して、頭の中が混乱していた。異常な状況から抜け出して、我に返ったはずなのに、まだどこか現実感がない。燃えるような桜並木と向き合って、呆然と橋の袂に立ち尽くす。
あの瞬間、目に映った一切のものが、うっすらと磁気のようなものを帯びている気がした。近づこうとしても、それらはさっと向きを変え、自分の体はかすりもせず脇を通り過ぎてしまう。ある程度接近できても、一定の間合いに入ることはできない。強引に踏み込もうとすれば、見えない反発力によって弾かれてしまう……。
むろん、荒唐無稽な思い込みにすぎない。実際には、あり得ないことだ。
ただ、理性で否定できても、感情的にどうしても納得できなかった。
対岸の世界と自分は、決して交わることがない。
赤い二本の欄干のように、どこまで行っても平行線を保ったまま。
本能的とでも言うべきそんな直感が、あのときの自分を強く支配していた。
いくらか心が落ち着いて、ようやく一歩踏み出す。花びらが散乱した橋の上をのろのろと進み、遊歩道を第二広場のほうに曲がる。宵に用事が入っていることは、仲間たちに伝えてある。断りなくアパートに帰っても、誰も文句は言わないだろうが、ブルーシートに上着を置いてきてしまった。
桜の幹と雪洞の赤い鉄柱が、交互に視界の両端を流れ去っていく。夕陽が差し込む桜のトンネルに、雪洞の灯はまだ灯っていない。そろそろ日没を迎えるが、火屋に火が入るのは、池の周りが薄暗くなってからだろう。