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第三話 梅雨寒
もくじ 2,486 文字
冷蔵庫のうっすらした音に気づいて、思考から抜け出した。
青白い幻影は、すでにない。漆黒の闇が、目の前を塗り潰しているだけ。
ぼりぼりと頭を掻いていたら、ビデオを返しに行くことを思い出した。国道沿いの大型レンタル店は深夜0時までやっている。バイトに行くついでに返してもいいのだが、店のある場所がバイト先のコンビニと逆方向になるので、少々面倒くさい。それに、今返しに行かなかったら、また忘れてしまう気がする。
気づいた時に動いたほうがいい。
カーペットに足を這わせ、ビデオのリモコンを拾う。巻き戻しボタンを押すと、ビデオデッキのモーター音を確認して立ち上がった。
真っ暗で何も見えないが、目の前には、今の時期座卓として使っているこたつがある。天板の上に雑多な物がひしめき合っているので、転んで手なんかついたら大変だ。
ベッドの縁に沿って、慎重に足を踏み出す。
三、四歩進んで、グシャッと何かを踏み潰した。右足のかかとのほうに、ひんやりと粘っこい感触。今朝、コンビニ弁当を食べていた場所だ。食べ残しの入った容器を、放ったらかしにして寝てしまったらしい。
だが、今頃思い出しても遅い。小さく舌打ちして、容器からゆっくり足を離す。そのまま片足を引きずって歩き、伸ばした指先が壁に触れたところで、スイッチを探って明かりをつけた。
壁に片手をついたまま、足の裏を覗く。かかとのほうに、潰れたごはん粒と薄っぺらいたくあんが貼り付いている。ごはん粒を茶色く染めているのは焼き肉のたれ。とりあえず、固形物だけ剥がして流しへ向かう。
流しの中は、スーパーやコンビニのレジ袋でいっぱいだ。どの袋も風船みたいに膨れ上がって、中身が飛び出しそうになっている。たくあんやごはん粒を捨てた三角コーナーも、茶殻や柑橘の皮が盛り上がり、小バエまでたかる有様。饐えた臭いに顔をしかめつつ、水に浸した台布巾で、足の裏の汚れを拭き取った。
自分の格好を見下ろすと、Tシャツにジャージのハーフパンツ。外出するには、あまりにラフな格好だ。
下だけでも穿き替えようと振り返ったら、すさんだ部屋の様子が目に映った。脱ぎ散らかされた衣服、食べかけのスナック菓子やカップ麺、誌面を開いたままの雑誌、ペットボトルと空き缶が雨後の竹の子のごとく林立し、極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったこたつ――CD、カセットテープ、漫画単行本、目覚まし時計、マグカップ、山盛りの灰皿……その他必要とも不要ともつかない品々がぎっしりひしめき合って、今にも崩れ落ちそうだ。もはや、がらくたの要塞と言っていい。
真一は、本来無精な性格ではない。去年まで、ホテルで働いていたくらいである。散らかった部屋には、人並みかそれ以上に居心地の悪さを感じるし、水回りの汚れなども放っておけない。だが、近頃は生活全般がルーズに傾き、何事も状況が差し迫ってから腰を上げることが多くなった。このアパートに暮らし始めて今年で六年目になるが、今まで部屋がこんな状態になったことはなかった。
起きたばかりなのに疲れを感じて、長々とため息を吐き出す。
こたつの脚に絡み付いていたジーンズを手繰り寄せると、ハーフパンツと履き替えた。ちょうどビデオの巻き戻しが終わったので、デッキからテープを取り出し、店のロゴが入った箱と袋に入れて玄関へ向かった。
レンタル店までの足はスクーター。以前は中古の車に乗っていたが、ホテルを辞めてすぐ処分した。田舎に住んでいるわけではないし、生活の足ならスクーターで事足りる。
素足にサンダルを引っ掛け、外に出た。二階の外廊下は、北東から湿っぽい風が吹き付け、半袖だとやや肌寒い。白々と蛍光灯が灯る薄汚れた天井に、ゴーッと海鳴りに似た音が反響している。夜空に厚く雲が垂れ込めているらしく、そう遠くない所を通る国道の車の音がいつもより大きい。
突き当たりの階段のほうを見たら、コンクリートの床が乾き始めていた。
雨は上がったのだろうか。正面の鉄柵に寄り掛かって、腕を伸ばしてみる。
手のひらに雨粒の感触はない。だが、雨は単に小止みになっただけという可能性もある。
雨具を持っていこうかどうか迷っていると、にわかに強まった風が、Tシャツの袖口から滑り込んできた。
「寒っ」
脇腹のあたりまでまさぐられ、我が身を抱きすくめる。雨具を持っていくいかない以前に、この寒さでスクーターを運転するのは厳しいだろう。上に何か一枚着よう。振り返って、ドアノブをつかんだ。
暦上の梅雨入りには、まだ少し早い。ただ、最近の天気のぐずつきは、もう梅雨時のそれとほぼ変わらない。五月の下旬には真夏日もあったが、太陽が顔を見せなくなってからは、ぐっと気温も下がって、肌寒い日が続いている。
東日本の梅雨は肌寒い。北寄りの風が吹き始めると、五月の連休以前に戻ったようにさえ感じられる。
西日本の梅雨は、こうではないらしい。蒸し暑い日が多く、雨の降り方も降ったり止んだりと、メリハリが利いているという。真一が住む関東地方でも、蒸し暑さや雨脚の激しさを経験することはあるが、通常それは、梅雨の末期に入ってからのことだ。梅雨のさ中は概して肌寒く、弱い雨がしとしと降り続けることのほうが多い。
この事実を知ったとき、率直に、西日本の梅雨のほうがいいなと思った。エネルギッシュな雨雲にも、ざあーっと通り過ぎる雨にも風情があると思うし、そこにはうっすらと夏の明るさも兆している。関東では、せっかく初夏の陽気になったかと思えば、すぐまた冷たい風がぶり返す。のっぺりした曇り空のどこを切っても、夏の気配など感じられない。さあこれから、というときに出端をくじかれ、人生の大事な一時期を損したような気分にさせられる。あまつさえ梅雨明けが少しでも遅れれば、夏らしい陽気はひと月も続かない。すぐに秋雨をもたらす雲が夏空を隠し、ようやく晴れ上がった頃には、もう季節が変わってしまっている。
東日本の夏は短い。それは何だか、致命的で、身も蓋もないことのように思える。
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![鈴木正人](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/135962261/profile_e2080e171cde0be390c191db75c5a9b3.jpg?width=600&crop=1:1,smart)