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第九話 愚者 四
もくじ 3,000 文字
再びブルーシートの片隅――
わずか十数メートルしか離れていないのに、真一たちの所と様子はまったく違う。真一たちは和やかムード。一方、マサオたちの間には、一触即発の険悪な空気が漂う。こちらが春風駘蕩のお花見日和なら、あちらは嵐の直前の雲行きだ。暗雲を連れて来たのはもちろん――。
マサオが動いた。
さっきより型崩れした紙コップを手に、よれよれと松浦たちのほうへ歩いていく。
「来たぞ」
いち早く接近に気づいた五所川原が、ほかの二人に小声で知らせた。
「暴れたらどうする?」
「あ? そん時は、みんなで木に縛り付けちまおうぜ。どっか、そのへんにロープ落ちてねえか」
松浦が小手をかざして、あたりを見回す。
「いっそ、埋めちまうか」
不穏な発言は川崎。据わった目で、遊歩道の桜の袂を見つめている。桜の樹の下には……。ずっと絡まれ続けていた川崎は、マサオに対する恨みも人一倍強いのだろう。あながち冗談にも聞こえない言い方に、怒りのほどが窺い知れる。
「あんな汚ねえもん埋めたら、木が枯れちまうって」
松浦が混ぜっ返す。
「まったくだ。肥やしにもならねえ」
「ウンコ以下だな」
こそこそ言い合っている間に、マサオがそばに立った。
川崎と五所川原が視線を逸らす一方、松浦はそっとマサオの顔を窺う。
すると、また意外な表情を発見した。
うっすら微笑んだ口許。目尻には、慈愛の色が浮かんでいる。
いったい何を考えているのか。思考の読めない相手ほど、不気味なものはない。
うっかり見続けてしまい、目が合った。
すべてわかっている、というふうにうなずくマサオ。
「そうだな、まずは言い出しっぺの俺から飲まなきゃなあ」
温かみの宿る声で言って、ふっと微笑みを消した。
高々と紙コップを掲げる。
――見よ。
見ない。誰も。松浦も会話に戻っていた。
だが、今は三人を咎めるべきではない。ここは、しっかり示しをつけることのほうが大切だ。
胸元に紙コップを引き寄せる。
ちらっと中を覗いたのち、カッと目を見開いて、一息に呷った。
「ぷはあっ」
どうだ、とばかりに松浦たちを見回す。
――見たか、これがマサオの心意気よぉ!
晴れやかな顔に、そう書いてある。男らしい飲みっぷり……かどうか知らないが、本人はそう思っているに違いない。
これで言い出しっぺの義務は果たした。もう誰も文句ないはずだ。翻って自分の居場所へ戻ったマサオは、日本酒の紙パックをつかむと、紙コップにどぼどぼと中身を注いだ。戻ってくる際、覚束ない足取りのせいで、多少こぼれてしまったが、それでも三人の所に帰り着いたときには、まだ七割くらいの酒が残っていた。
きりっと口を引き結んで、再び頭上に紙コップを掲げる。
まっすぐな本気の瞳。紙コップの中身同様、一点の曇りもない。
「これは単なる嫌がらせじゃねえ!」
言い切った。
「これは俺たちの絆を確かめるための儀式だ! さあ、見せてくれ、お前らの男気を!」
一味神水、という。古来、男たちの中心には酒があった。男たちは酒を囲んで絆を確かめ、親交を深め合ってきた。酒は心をつなぐ。多少の反目など、酒の力で平らに均すことができる。酒こそは、仲間を一つにまとめ上げる神水なのだ。
「今度は何の騒ぎだ」
「さあ……」
遠巻きに、仲間たちが囁き合っている。
「うちの会社にもいるよ、あれと同じのが。飲むとすぐ熱くなって、持論の独演会おっぱじめるか、低レベルな説教垂れ出すかで。ぐだぐだ長いんだよ、こっちは早く帰りてえのに。……はあ、会社辞めようかな、俺」
「誰が連れてきたの」
「わからん。でも、こっち来なくてよかったよ。あの三人には悪いけど」
もっとも、長引く不況の影響で、マサオのような人間は、近年数を減らしているとも聞く。人々の懐具合が寂しくなれば、飲み会が減る。飲み会が減れば、酒絡みのトラブルも自ずと少なくなるというわけだ。
しかし、トラブルが減っても、皆無になったわけではない。あるいは、世間の意識に多少の変化が見られても、長きに渡る因習が、そう簡単に消え去るはずもない。悪しき伝統に固執する者は、今も確かに存在する……例えば、目の前に。
マサオは、野次馬どもの声などものともしない。
自分の語る言葉は自分だけのものか?
否。
断じて、否。
独りよがりは嫌いだ。自分は万人の精神を代弁しているにすぎない。我が心は、古き良き時代の美風を尊ぶすべての者たちとともにある。自分を悪く言う者どもこそ、己の考えの浅はかさを恥じるがいい。
自らの言葉に力を得て、マサオは一段と表情を引き締めた。
酒社会の守護神が、三人の前に立ちはだかる。
「5」
「6」
「9」
「じゃ、13」
「うわっ、いきなり飛んだ。パス」
「じゃ、2」
真一たちの間では、新しいゲームが始まっている。今度のゲームは、ババ抜きより集中力が必要だ。マサオの大声にいっとき振り返った仲間たちも、今や誰もマサオを気にしていない。
「ほら川崎、ぐいっといけよ、ぐいっと」
もっとも、人の目があろうがなかろうが、酔っぱらいの無法ぶりは変わらない。シートに腰を下ろしたマサオは、川崎の肩に腕を回して、紙コップを口に押し当てる。
「あー、川ちゃんの男気が見てえなあ」
紙コップの中身は日本酒。ビール一杯の約束は、どこかへ行ってしまったようだ。
「飲めない奴は、出世できないぞー」
昔のサラリーマンは言われたものだ。飲めない奴は、飲んで鍛えろ。酒を飲むのも仕事のうちだ――。古き良き時代に憧憬を抱くマサオも、同じ言葉を繰り返す。
「おっとこぎ、おっとこぎ……」
紙コップをシートに置くと、手拍子を打ち始める。
「おっとこぎ、はいっ、おっとこぎ、それっ、おっとこぎ、もういっちょ……」
盛り上がるマサオと裏腹に、川崎は大仏みたいに口を閉ざしたまま。広場に濁声が虚しく響き、不機嫌な息をついたマサオは、また川崎の肩に腕を回した。手首を返して川崎の頬を挟みつけると、タコのように突き出した口から、無理矢理酒を流し込もうとする。だが、脇腹を強く押し返され、あぐらをかいたままひっくり返りそうになる。
「何しやがるんだ、この」
起き上がり小法師みたいに起き上がった。酔っぱらいに似つかわしくない素早い動きだ。もう一度川崎に突っかかろうとするも、手にかかった酒に気づいて、もったいねえ、と舐め上げ、ターゲットを松浦たちに替えた。もちろん、松浦と五所川原もマサオを完全無視だ。おう、おう、と吠え立てる酔っぱらいなど、眼中にないと言わんばかりに声を張り上げ、見えない壁をさらに高くする。川崎も会話に参加し、ひとり取り残されたマサオは、村人たちの井戸端会議を見守る地蔵か道祖神にも等しい。皮肉にも、男たちの固い結束は、酒を酌み交わすことによってではなく、マサオという共通の敵を持つことによって出来上がってしまった。
「おい、キミタチ?」
ようやく、自分が置かれた状況を理解したらしい。
「熱いとこ、見せて欲しいんだよ」
予想外の展開に戸惑いつつ、控えめな口調でお願いする。
五所川原と目が合って、にっこり笑いかけた。顔の横で、軽く紙コップを振ってみせるも、すぐにそっぽを向かれてしまう。五所川原は、何事もなかったかのように、松浦と会話を続ける。取り付く島もない。
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