第五十二話 ある女の子の話
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「そういえばさ、」
久寿彦が口を開く。
「お前が店に入るちょっと前、ハルちゃんって女の子が働いてたんだけど、覚えてる?」
おかしなことを訊く。店に入る前にいた人間なんて、覚えているはずがない――と思った矢先、ある女の子の顔が浮かんだ。あどけない顔立ちで、ショートヘアが活発な印象を与える子。いつか店に来て、カウンター越しに美汐と話していた。
「ああ、あの子……」
「話したことあったっけ?」
「いや、一度しか見たことないし。そのときも、すぐに休憩室に行っちゃったから」
用事があって店に来たわけではなく、ふらっと遊びに来ただけらしかった。仕事の邪魔をしてはいけないと思ったのだろう、美汐にドリンクを作ってもらうと、すぐ裏に回った。
「あの子のこと見て、どう思った?」
「どうって……。まあ、明るそうな子だね」
探るような訊き方が引っかかったが、率直に答えた。
久寿彦は意味ありげに、大きくうなずく。
「実は、あの子、俺たちのいっこ上なんだよね」
「ええっ」
思わず大きな声が出てしまった。とても年上には見えなかったのだ。
「驚いた?」
「ちょっと……。いや、かなり……。高校の制服着て、そこらへん歩いてても全然違和感ないよ」
「みんなそう言うよ」
久寿彦はおかしそうに笑う。
ハルちゃん――本当の名前は春香というらしい――は、見た目がああだから、久寿彦以外の店の仲間からも、ちゃん付けで呼ばれていた。平日の昼間来た客に、夜学に通っているの?、と真顔で訊かれたこともあったという。
「それで、彼女がどうしたの?」
真一は続きを促す。
「実は彼女が店を辞める前に、ちょっとした事件があったんだ。いや、大したことじゃないんだけど。俺しか気づかなかったし……」
事件、という単語を大げさに感じたのか、久寿彦はすぐに打ち消した。
「それが原因で店を辞めたとか?」
「いや、直接的には関係ないと思う」
「じゃあ、どうして」
「まあ、そこなんだけどな……」
腕組みして考え込んだのち、訥々と話し始めた。
真一が店に入る少し前、公園の桜祭りの期間中のことだった。
その日は日曜で、例によって昼間の仕事がなく、みんなでカラオケに行った。
ハルちゃんは、最初から元気がなかった。カラオケが始まっても、曲目が載ったファイルをつまらなそうにめくったり、飲み物にちょっと口をつけてはぼんやりしたり……。けれど、普段明るい子がこんな調子だと、かえって悪目立ちしてしまう。ハルちゃんの態度に物足りなさを感じた仲間たちは、強引に彼女を元気づけようとした。
ハルちゃんは歌手の物真似が得意で、カラオケでやると必ず盛り上がる。レパートリーも広く、七十年代、八十年代、九十年代と、各時代のヒットソングを網羅している。日本の曲だけでなく洋楽も歌うことができ、久寿彦が以前教えたデッド・オア・アライブのヒット曲を、振り付けまでマスターして披露したときには大ウケだったという。
ただ、そのとき歌ったのは日本の曲。いつものあれやってよー、という声に、ハルちゃんはすんなり応じた。久寿彦の目には、特に嫌がっているふうには見えなかったという。曲が始まると、いつもと変わらず場は盛り上がった。仲間たちはハルちゃんを囃し立て、ハルちゃんも陽気に応えていた。
一曲歌い終えた頃、誰もがハルちゃんが平常運転に戻ったと思った。もちろん、久寿彦も。さっきは元気なさそうだったが、たまたまそう見えただけだろう。考え事でもあったか、会話に入るタイミングを逸したか……どのみち、大した理由ではない。久寿彦だけでなく、ほかの仲間たちも似たり寄ったりの考えだったはずだ。
松浦がガラにもなくスピッツを熱唱し、ルパン三世のテーマを歌った岡崎は、間奏長いよ、と文句を言われ、久寿彦は元ボーカリストの特権で、敬愛するジュリー先輩の歌を二曲続けて歌った。その際、益田の帽子を奪ってジュリーみたいに放り投げたが、グラスに当たって倒してしまい、岡崎以上に顰蹙を買ったそうだ。
そしてまた、ハルちゃんの番が回ってきた。
ハルちゃんは、マイ・リトル・ラバーの曲を歌った。物真似はなかったが、トーンダウンした様子も見られなかった。前の曲でみんなの要望に応えたのだから、次は自分の好きな曲を歌うことにしたのだろう。
ところが、曲が終わって、ハルちゃんが自分の席に戻ろうとしたとき、画面に昔のアイドルの曲名が表示された。ハルちゃんのレパートリーの一つだった。ハルちゃん自身が予約したわけではない。誰かが勝手にリモコンを操作したのだ。こんなイタズラにも、普段ならすぐにマイクを取って歌い始めるハルちゃんだが、このときはちょっと困った顔をした。一瞬、視線を彷徨わせ、助けを求めるようでもあった。
ただ、周りの人間には、やはり大したことには映らず、彼らは立ち上がってステージに押しかけた。
大勢に囲まれて、窮屈そうに歌い始めたハルちゃんだったが、間奏に入ったとき、誰かが足を滑らせて彼女にぶつかった。
たまたま正面にいた久寿彦は、ハルちゃんの顔が歪むのを見た。
泣きそうな顔だった、という。
どうしてそんな顔をしたのかわからなかった。
泣くほど強く体が当たったわけでもない。
ぽかんとしている間に、うつむいて表情が隠れた。
「声……?」
「そう。小さく、ね。口が動くところは見えなかったけど、確かにハルちゃんの声だった」
久寿彦は、児童公園の片隅を見つめながら言う。
「……何て言ったの」
真一の問いに、少しためらってから、
「もう女の子じゃない、って」
小さくても、絞り出すような声だったという。
「ほかに聞いた奴は?」
「いないと思う。うるさかったし、あとで話題にした奴もいなかったから」
真一は、その場面を想像してみる。
それは、何ら難しいことではなかった。
思いを抑え切れなくなった女の子の顔が、すぐに浮かんだ。
「やっとわかったよ。あの顔の意味」
久寿彦は、相変わらず同じ場所を見つめている。視線の先には、イヌバラとゼニアオイの花。そういえば、イヌバラの実は、ローズヒップティー、ゼニアオイやウスベニアオイの花は、マロウブルーという青いハーブティーになると久寿彦から聞いたことがある。ただ、花を見つめる横顔が考えているのは、そのことではないだろう。
「ずっと気になってた?」
「いや、全然。むしろ、今まで忘れてた。こんな話をしたからだよ、思い出したのは」
意外に思ったが、少し考えてみれば当然のことだった。今年の春まで、久寿彦はハルちゃんが経験したことについて、何も知らなかったのだから。真一が同じ立場だったとしても、やっぱり忘れてしまっていたに違いない。
それから少しして、ハルちゃんは店を辞めた。久寿彦にとっては、寝耳に水の話だった。マスターからハルちゃんの意思を聞かされてすぐ、本人に理由を問いただしたが、彼女は曖昧でつかみどころのない言葉を繰り返すだけで、納得のいく回答は最後まで得られなかった。
ただ、もう潮時だから、と言ったそうだ。
それが、唯一覚えている言葉。
言いながら、寂しげに微笑んでいたという。
今なら 「潮時」 の意味はわかる。
恐らく、ほかの言葉の意味も。
ハルちゃんの言葉が、「つかみどころなく」 聞こえたのは、当時の久寿彦に理解する力がなかったからだ。
結局、久寿彦は、ハルちゃんには他人に教えたくない事情があるのだろう、と勝手に結論付けた。
そして、今日に至るまで、あの日の記憶は眠りにつくことになる。
少しして、児童公園の奥が騒がしくなった。ブラシの木の濃いピンク色の花が咲く北側の入り口から、車止めの間をすり抜けて、ぞろぞろと小学生の集団が公園内に入ってきた。先頭の二人が、カラーボールを投げ合っている。
「玄太の仲間だな、ありゃあ」
玄太とは、マスターと奥さんのサヤカさんの小学五年生になる一人息子。最近ここで、仲間とロクムシをやっているという。
「どうする? うるさくなるぞ」
子供たちの数は、少なく見積もっても十人はいる。ロクムシが始まったら、確かにうるさくなりそうだ。ボールもしょっちゅう転がって来るだろう。
「場所を替えるか」
真一は言った。ベンチがあるいちばん近い場所は、親水ゾーンのウッドデッキ。少し歩くことになるが、今日みたいに天気が悪ければ、人も来ないはず。同意した久寿彦が、蚊取り線香の缶に手を伸ばす。真一も丸めたトレーナーをつかんで、立ち上がった。
カラオケで歌ったらウケるかも♪