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第六十七話 浮き玉
もくじ 1,406 文字
「葵の逆転劇にはぶったまげたよ」
対岸の鉛色の空を、セッカの物悲しい声が横切っていく。いっとき快方に向かうかと思われた空の様子が、また怪しくなり始めている。ハンの木立の少し上空あたりを見つめながら、真一は言った。
「確かに、神がかってたな。時計を見たら、終了の号令をかける三十秒前だった」
「あれがなければ、お前も天ぷら揚げずに済んだのに」
「まさか負けるとは思わなかったよ」
アシやガマが叢生するトンボ沼の景色は、ハゼを釣った汽水池の景色に、どことなく似ている。大気や水に潮気がないところが違う。カニの足音もしない。
「結局、あれが青春時代の最後に見た雲だったな」
真一は、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
あのときは、また同じ夏が巡ってくると思っていた。龍宮の白壁との出会いと別れは、毎年繰り返されるドラマなのだ、と。
しかし、単なる思い込みに過ぎなかった。
今日、久寿彦と話をして、その確信がいっそう深まった。
あのときと同じ雲を見ることは、二度とないだろう。
あのときと同じ心を失くしてしまったからだ。
久寿彦の反応はなかったが、心の中でうなずいている気がした。
久寿彦だって、わかっているはず。
二度と見ることのない景色が出来上がってしまうこと。
結局、それが大人になるということなのだ。
キョキョキョ……とアシの茂みでヒクイナが鳴き始めた。古典に登場する 「クイナ (水鶏)」 とは、このヒクイナのこと。真一の耳には、水を注ぐ音のように聞こえるが、昔の人には戸を叩く音に聞こえたようで、クイナが鳴くことを 「クイナ叩く」 と表現した。卯の花が咲き、蛍が飛び交い、ホトトギスやクイナが鳴く――子供の合唱などで歌われる 「夏は来ぬ」 という歌は、今の時期の風景を切り取った歌だろう。
「お前は、どこの海岸が気に入った?」
沈黙が続いたのち、真一が口を開いた。汽水池のある海岸は真一のお気に入りだが、久寿彦の好きな海岸はどこだろう。何となく見当はつくが、一応訊いてみた。
「俺は、やっぱりあそこかな。ゑしまが磯」
予想通りの回答。真一は小さくうなずき、
「すごい水の色してたよな。よく海辺の喫茶店とかに吊るしてあるだろ、スイカくらいの大きさのガラス玉。砂色の網に入れられてさ」
ガラスというより、「ビードロ」 と言ったほうがしっくりくる、昔懐かしい飾り物だ。子供の頃、小さい貯金箱を持っていた。
「浮き玉って言うんだよ」
「浮き玉?」
その名前は、初めて聞いた。漁具の一種だとは知っていたが。
「ビン玉とも言う。昔は海水浴場のブイやボンデンも、あれだった気がする」
久寿彦は、なぜか訝しげに眉根を寄せる。
「でも、それを言うなら、ラムネのビンの色だろ」
思わず膝を打った。確かに、その通り。海のイメージからつい浮き玉を連想してしまったが、例えとしてはこっちのほうが一般的だろう。
ラムネのビンの色は海の色。テレビや雑誌で見る南の島のそれとは違う、もっと身近な海の色だ。葵のように海のそばで暮らしたことはないが、もし海辺に生まれ育っていたら、この色に最も親しみを覚えたと思う。岸壁から飛び込んだり、水に潜って魚を追いかけたり――海で遊ぶとき、視界一杯に広がっている色はこの色だ。
青とも緑ともつかないラムネ色。
それはまた、夏の色でもある。
去年のひと夏に限って言えば、真一の夏もこの色に彩られていた。
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