僕は旅の目的地に着いた時の空気が大好きだ。自分の暮らしている街と似ているが、ちょっと違う。いや、かなり違う。 この違いは方言の違いによってもたらされるものかもしれないし、地下を通る下水道の違いかもしれない。旅は普段僕たちが見れていないものを見せてくれる。 僕たちが普段見ていない場所にも当然人がいるし、そこには確かに彼らの暮らしがある。知らない言葉を使い、何か美味しいものを食べる。それは彼らにとってごく自然な営みである。しかし、それは僕にとっては新鮮な営みである。その
本書は「月と六ペンス」や「人間の絆」などを著作したサマセット・モームの自伝的エッセイである。 モームがどのような人生を送ってきたか。執筆動機や執筆にあたる技法から、人間関係などの大きく人生に対しての考え方までも綴られている。著者の考えがユーモアを交えて分かり易く展開されており、読む者を惹きつけられる。 特にモーム自身が語る「ユーモア」についての記述には興味が惹かれる。 ユーモアを持ち合わせることで、人間性を直視したり、人間関係を面白がったりすることができるのだ。
あなたはクラシック音楽を聴いたことがあるだろうか。もちろん、テレビであったり、どこかの場所で流れていたり、あるいは学校などの式典などで聴いたりしたかもしれない。 そこで聴いた音楽はどれも退屈だと感じるかもしれない。少なくとも僕には退屈に感じる。聴くだけで偏屈な老人の顔に入った深い「しわ」をなぞっているような感覚がある。 しかし、世の中にはクラシック音楽はたくさん存在する。そして、その中には自分に合った音楽というものも存在する。感覚的に耳馴染が良い音楽が。 そんな
幻想郷のさざ波の音がまだ心の中に流れている。その音を聞いていると、普段の景色も少し違って見える。 ーーーーーー 誰しも普段の道の反対には、何があるのだろうと考えたことがあるだろう。通勤、通学路で普段使う道。右折するところを左折する。3番線の電車ではなく4番線の電車を待つ。ショートヘアの恋人がいるのに、ロングヘアの女の子と寝る。(面白くない冗談) 僕も大学の授業をさぼっては、普段行かない駅で降りる遊びをする。今回は芦屋へ降り立つことになった。改札では僕の心の中の侍者
僕はスポーツ紙を握りしめ、改札を走り抜けた。もはや手に持つこの紙は、読みためのものか汗を拭くためのものなのか分からなかった。しかし電車に乗り遅れることはなかった。 僕は電車の座席に腰を下ろし、読むことも無くスポーツ紙を開いた。海外で活躍する日本人メジャーリーガーの話や、今週末に走る馬の話が書いていた。 しかし、それらの内容はあまり頭に入ってこなかった。もちろん元より真剣に読み込むつもりなどなかったのだが、たまたま目に入った光景が僕の頭を混乱させた。もんじゃ屋の娘が僕
人生において、いや人間関係において、影が潜んでいることは周知の事実である。どんなに好印象を抱いた相手であっても、影を覗いてしまうと疑心を拭うことは難しい。 外は暑く出かける気も起きない土曜の午前11時。今日は冷蔵庫にあるもので適当に昼食を作ることにしよう。冷蔵庫には昨日作っておいた麦茶がたっぷりとあった。人生において必要な貯えとは、お金なのではなくキンキンに冷えた麦茶なのだ。 冷蔵庫には、キャベツとニンジンとタマネギ。そして冷凍庫には豚肉が入ってあった。どれも使いか
こんな嫌になるほど暑い時期の数少ない楽しみとして、ビールを飲むことがあるだろう。日中僕たちがどんなに太陽の日を吸い込もうが、それは全てビールを美味しく飲むための儀式なのだ。 さて、風呂も入ったし、そろそろビールでも飲むとしようか。冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出す。もちろん瓶に入ったビールだ。瓶ビールは清潔な味がして非常に美味い。 あまり器用そうではないオープナーを蓋に引っ掛け、力を込める。もちろん形式上は優しくしているのだけど。蓋がキッチンテーブルの上に落下し、
とある日、とある場所でとある人に「ここは何もなくてつまらない」と言われた。確かにそこには目立つものはなかった。決まった観光地はないし、信号は多いし、ホテルのシャワーも少しぬるかった。その場所は変な例えだけど、血が行き渡っていない足の末端部分のようだ。 とある人は言った。「京都なら古くて面白いものも多いのに」僕はそれに同意したが、結局はその人の好みなのである。「何もない」と言うが、ホテルの向かいの建物には、そこそこ新しいピンボールがあったし、少し歩くと趣味の良いレコード屋